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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.08.02
今日の言葉

文覚上人のこと

文覚上人という方が歴史上に出て参ります。

今回訪ねた国清寺でも、その毘沙門堂は文覚上人が配流されて住んでいたとされています。

文覚上人については、『広辞苑』では

「平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠。もと北面の武士。誤って袈裟御前を殺して出家し、熊野で苦行したという。後に高雄山神護寺を再興。東寺大修理を主導したほか、源頼朝の挙兵を助勢。幕府開創後その帰依を受けたが、頼朝没後佐渡・対馬に流罪。生没年未詳(一説に1139~1203)。」

と解説されています。

もとの名前は遠藤盛遠というのです。

北面の武士というのは、平安時代後期に院という上皇のお住まいの警護を主な任務とした武士のことです。

袈裟御前との悲恋はいろいろ伝えられています。

同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻「袈裟御前」に恋をしました。

次第に、その夫、源渡を殺めてでも袈裟御前を我がものにしたいという想いを激しく募らせていきました。

ついには、ある夜に渡の屋敷へと忍び込み、寝所にいるその首を斬り落としてしまいます。

ところが、月明かりの下で斬り落とした首を見てみると、それは渡の身代わりとなった愛する袈裟御前の首だったというのです。

盛遠は、自分の愚かさと罪深さを嘆き、袈裟御前の首を抱いて鞍馬の山奥を彷徨った果てに出家したとされます。

名を「文覚」と改めて、ひたすら修行の身となりました。

文覚は真言宗の開祖・空海を崇敬していました。

諸国修行の後に京都に帰ると、空海の旧跡である神護寺に住み、修復に努めました。

後白河院の御所を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進、寄付を強要しました。

そこで法皇の逆鱗に触れたようで、文覚上人は伊豆に流されたのでした。

しかし、そこで同じく配流中であった源頼朝と出会いました。

たちまち親交を結びます。

一度許されて帰京しましたが、流されてのちも信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧めたとされています。

そんな場所が伊豆なのであります。

毘沙門堂に登る山道には、文覚上人が護摩を焚いたとも、あるいは硯にしたとも言われる石がありました。

護摩石とも硯石とも言われるそうです。

毘沙門堂にお参りしていると、高岩院の和尚から文覚上人が滝行をしていた滝が残っていると教えていただきました。

そこで今回初めてその滝を訪ねてみました。

伊豆の国市の観光協会のホームページには、

「瀧山不動は、文覚がこの場所で源頼朝に源氏再興の挙兵を勧めたと伝えられていることから旗挙不動とも呼ばれています。

普段は水量の少ない小さな滝ですが、溶岩の大きな崖を水が流れ落ちる様子や、長い年月をかけて崩れ落ちた巨岩が積み重なる様子は迫力があります。
本堂(不動堂)には、源頼朝が文覚とともに祈願崇拝した不動明王(旗挙不動明王)が安置され、奥の院の不動の滝は、源頼朝が源氏再興を祈願した滝といわれています。」

と書かれていました。

多賀火山の溶岩の端にかかる滝のようです。

入り口もわかりにくかったのですが、どうにか探し当てて山道を登ってきました。

しかし、川には水が流れていません。

はたして滝があるのかと心配になりましたが、途中から水の音が聞こえてきました。

登ってみると素晴らしい滝でありました。

途中まで汗をびっしょりかいて登ったのですが、滝のそばにくるととても涼しく、その霊気に身も心も洗われます。

般若心経をおとなえしました。

その素晴らしい境致に心打たれてしばし坐禅もしてみました。

大自然の中での坐禅はまた格別であります。

わずかな時間でも大自然の中に自分が溶け込んでいくのがよく感じられます。

「多賀火山」は、伊豆半島の北東部にあります。

およそ30万年前まで噴火を繰り返していたとも言われています。

現在の熱海市多賀付近がこの火山の中心だったと考えられています。

この滝は、多賀火山の溶岩流の末端部を示しているというのです。

火山が多賀からここ韮山まで広がっていたことをも物語っています。

また文覚上人は江島神社とも縁があります。

江島神社は早くから弁財天信仰で栄えていました。

現在も観光地として有名です。

『吾妻鏡』によれば、1182年(寿永1)奥州藤原秀衡調伏のために、源頼朝は、文覚上人に大弁財天を勧請させたとあります。

文覚上人は、江島神社に参籠し、祈祷を行いました。

円覚寺にある弁天堂の弁天様は、江島神社から勧請されています。

そうしますと、間接的に文覚上人ともご縁があることになります。

文覚上人のことはよく分からないことも多いのですが、不思議な方であります。

この旗挙不動から平家打倒が始まったとも言えます。

しかし、石橋山の合戦では敗北を喫して箱根山中に落ちのびたのでした。

前田青邨画伯の「洞窟の頼朝」は、箱根山中の洞窟で再起を期する姿を描いたものです。

この絵は重要文化財に指定されています。

そんな攻防を繰り返して、やがて平家は滅び鎌倉幕府が出来ていったのでした。

伊豆の地は、今ある鎌倉の一番のおおもととも言えるのであります。

そんな歴史のある文覚上人縁りの地を訪ねることができました。

 
横田南嶺

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