すべて心がつくり出す
二入四行のはじめに、この世で多くの苦しみにであったときに、前世の行いの報いでこういう目に遭うのだとそう甘んじて受け入れるとう教えがありました。
このように、前世の報いであるという教えを受け入れられるかどうか、聞いてみました。
やはりほとんどの修行僧は、受け入れられないという答えでありました。
今の日本では、前世という考え方は難しいのだと感じました。
前世の業の報いだという教えは、輪廻を前提としてのものであります。
しかしながら修行僧の中には、わずかですが、そのような考えもあり得るという者もいました。
どうしてそのように思うのか聞いてみました。
それは、どうにも説明のつかないような目に遭ったときには、そのように自分を納得させることもあり得るというのでした。
たしかにこの世のことは、合理的な説明のつくこともありますが、そうとばかりではありません。
なぜこんな目に遭わなければならないのか、全く合理的な整合性のつかない時には、前世の報いだと考えて受け入れるのもひとつの方法だということでした。
それから修行僧たちに『坐禅儀』の講義をしていて、内魔と外魔について解説していました。
そこで白隠禅師が三十一歳の頃に巌龍山で坐禅していて化けものが現れたという話をしました。
山中を歩いていると、坐禅するのにちょうどよさそうな岩があったので、そこに坐りました。
すると「その岩に登ったらいかんぞ」という声がしました。
それで岩から降りました。
その日の真夜中、誰かが庵にやって来る足音が聞こえたと思つたら、入りロの戸を開けて入って来て、白隠禅師の前に身の丈八、九尺になる山伏のような者が現れたのでした、
しかし白隠禅師はそれに構わないで坐っていました。
やがてその化けものが出ていったという話です。
明くる日、ひとりの村人がやって来て、「タベ変わったことはなかったですか」と聞かれました。
「あの岩は山神さまの居る場所であって、そこに登る者はきつと崇りに遇うのです」と言われたのでした。
そこで祟りはあると思うかということを修行僧たちに質問してみました。
するとほとんどの修行僧が祟りはあると答えていました。
祟りはないというのはほんのわずかしかいませんでした。
前世のことは信じられなくも祟りはあると思っているのであります。
これは多くはお寺で生まれ育った者、あるいはお寺に深いご縁のある者だからかもしれません。
祟りはないという者は、すべては自分の心が作り出したものだというのです。
白隠禅師にしても昼間にその岩に登ったらいけないと叱られていたから、何かあるのではないかという不安な心が、化けものを作り出したというのであります。
先日の小川先生の講義で次の話がありました。
「存在はもともと大小の形や、高低の差別がない。
たとえば、君の屋敷の中に大きな岩石が庭さきにあるとせよ。
(はじめは)たとえ君がその石の上に偃臥しようと坐ろうと、驚くことも怖れることもない。
ところが、君があるときにわかに発心して仏像を作ろうと思って、人をたのんで仏の形像を画き出して貰うと、君の心はそれを仏だと考え、すぐに罪を怖れて、あえてその上に坐ろうとせぬ。
それは昔の岩石にほかならぬのに、君の心がそれを仏だと思うためである。
君の心は、いったいどんなしろものなのだ。
すべて、君の意識という筆のほさきが、それを画いて作り出し、みずからあわて、みずから怖れているのであって、じつは岩石の中に、罪だとか福だとかがあるわけではない。
君自身の心が、自分でそれを作るだけだ。
ある人が夜又や亡鬼の姿を画き出し、また竜虎の姿を画くとせよ。
かれは自から画いてまた自からながめ、すぐに自から恐れおののくのである。
絵具の中には、けっきょくのところ、何も怖るべきものがありようもないのであり、すべて、君自身の意識という筆が分别してそれを作るにすぎぬ。
いったい、どんな実体があるというのだ。
(実体など何もないのに)、すべて君が勝手に妄想してそれをこしらえるのだ」
という言葉であります。
現代語訳は筑摩書房『禅の語録1達摩の語録』にあります柳田聖山先生のものです。
すべては心が作り出すということがよく説明されています。
もっとも世の中のことは、すべてうまく説明のつくことばかりではありません。
そのように思ってはいてもビクビクおびえてしまうことがあるのも人の心であります。
二入四行について小川先生は
苦悩・迷妄の原因としての自己の否定、虚妄な主体・客体を幻出する「心」の否定、そして老荘・玄学ふうの無為と随順の思想を基調としていると解説してくださっていました。
『達摩の語録』には安心の問答もあります。
「問う、「わたしに心を安定するみちを教えてください」。
答う、「君の心をもって来るのだ、君のために安定させてあげるから」。
またいう、「どうかわたしのために心を安定させてください」。
答う、「たとえば、裁縫の職人に布を裁断って貰うようなものだ。
職人は、君の絹布を手にとって、はじめてはさみを入れることができる。
もともと、絹布が見えぬのに、君のために虚空を裁断することがどうしてできよう。
君が心をわたしにさし出すことかできぬ以上、わたしはいったい、君にどんな心を安定させてあげるというのだ。
わたしは、まったく虚空を安定させることはできない」。
という問答です。
これはおそらく後に『無門関』にある第四十一則の達磨安心の問答のもとになったものと思われます。
すべては心が作り出すもの、そしてその心もまた不可得であると説いているのであります。
そうしてみると、あらゆることに心がとらわれることがなくなるのであります。
横田南嶺