蓮、咲く
毎年のことながら、うれしくなるものです。
蓮は手がかかります。
毎年春先には、植え替えをして肥料を入れます。
私も専門にならったわけではありませんが、先代の管長がなさっていたのを手伝っていたので、その頃の見よう見まねで、毎年行っています。
素人の手入れですから、毎年咲くかなと心配しながら行っています。
今年もたくさんのつぼみをつけてくれたので、咲くのが楽しみでありました。
『禪林世語集』にも蓮にちなんだことばがいくつかあります。
蓮白し元より水は澄まねども。
蓮の香や塵にはそまぬ朝心。
一つ莖二つに咲かぬ蓮花かな。
泥に住めども心は清い咲いて綺麗(見事)な蓮の花。
泥の水にも染まらで蓮の苦勞しとげて咲いた花。
泥水も葉に玉なせば蓮の露。
『広辞苑』にも
「泥中の蓮」という言葉があります。
「[維摩経]泥の中に生える蓮の花。けがれた境遇にあってもこれに染まらず、清らかさを保つことのたとえ。」と解説されています。
仏教で有名なのは、なんといっても法華経の名前になっていることです。
法華経は「妙法蓮華経」のことです。
「白蓮華のような正しい法の経典の意」です。
西暦406年、鳩摩羅什によって訳されています。
道元禅師は晩年、ご病気となって、永平寺を出て在家の弟子の住宅に移りました。
そのご自分の居所を「妙法蓮華経庵」と名付けたと言います。
道元禅師は、亡くなる直前、『法華経』の如来神力品第二十一の中の一節を唱えながら室内を行道されたと言います。
「若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。
所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。
諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう。」
という一節だというのであります。
蓮華は岩波書店の『仏教辞典』に詳しい解説があります。
その一部を引用します。
まずは「蓮あるいは睡蓮の華。
炎暑の国インドでは、涼しい水辺は生にとっての理想の場であり、その水面に咲く蓮華は苦しい現実の対極にあるその理想の境地を象徴するものとして古来親しまれ愛好された」
と解説されています。
それから
「インド神話」として
「まず、蓮華は大叙事詩『マハーバーラタ』の天地創造の神話に説かれる。
すなわちヴィシュヌ神は千頭を持つアナンタ竜王の上に臥して眠りつつ世界について瞑想するが、やがてその神秘的な眠りから覚めたヴィシュヌの臍(へそ)から金色の蓮華が生ずる。
その蓮華上に梵天が坐しており、この梵天が万物としての世界を創造する。」
と書かれています。
「経典における表徴」として、
「仏教においては、泥中に生じてもそれ自体は泥に汚されず、清浄である蓮華は煩悩から解脱して涅槃の清浄の境地を目指すその趣旨に合致して、当初より多様なシンボリズムにおいて用いられ、また蓮池の清涼とその水面に咲く蓮華の美は浄土経典をはじめとする大乗仏教の各経典で、浄土・理想の仏国の情景を叙述する場合の必須の要素となっている。」
と説かれています。
「また蓮華は、観音のシンボルとされ、後には観音から発展した一連の尊格群を、<蓮華部>と呼ぶようになった。」
とも書かれています。
「仏教における蓮華の用例としてもう一つ顕著なものに、それが仏あるいは菩薩の台座(蓮華座)をなすことがある。」ということです。
「蓮華座」というと、「仏像の台座として最も一般的な形式で、蓮の花の開いた様をかたどる」ものです。
これは「本来は古代インドにおける蓮華崇拝の観念が仏教のなかに取り入れられて成立したもので、無量の創造力の象徴としての蓮華が起点となっている」のです。
「古代インド神話のなかのブラフマー(梵天(ぼんてん))は、根本神ヴィシュヌの臍(へそ)に生じた蓮華から生まれた創造神である。この神を仏像に置き替え、仏像もまた蓮華から生まれ出た聖なる神格として表現されるようになった」ということであります。
西郷隆盛が参禅していたという無三和尚の話も知られています。
禅文化研究所発行の『禅門逸話集成 第三巻』にあります。
「無三和尚は、薩摩国久志良村の農家に生まれた人である。
二十一歳の時、大阪の薩摩藩邸吏に抜擢され、大いに藩事に尽くした。
ところが、たまたま藩律にふれて罰せられることになった。
しかし、役人たちがみなその才幹を惜しんで助けたのである。
これを機に無三は出家し、剃髪することとなった。
無三、五十三歳の時であった。
諸方遊行ののち予州宝泉寺の洞泉橘仙和尚に参じ、ついにその衣鉢を嗣いだ。
その後、無三は藩の島津公に招請されて鹿児島の福昌寺に住することになった。
それをねたみ、苦々しく思っていたのが南林寺の住職である。
何とかして無三をはずかしめてやろうと、ひそかにたくらんで、晋山式の前日に藩侯に謁見し、「明日行なわれる福昌寺の晋山式の時、殿もひとつ、無三と問答商量なされてはいかがでござろうか」とすすめた。
そして、問答する言葉まで教えたのである。
翌日、無三が上堂すると、さっそく藩侯は法堂の中央にすすみ出て、
「いかなるかこれ久志良の土百姓」と大声で問うた。
当時、鹿児島ではとくに武士を尊び、農民をいやしむ気風が強かった。
武士の出でなければ出家することも許されなかったのである。
そこで、農家の出であった無三は、士家の姓を借りて出家したのだが、南林寺住職はそれを知っていてこの問いを教え、そして無三をはずかしめようとはかったのであった。
満座の中でその出身を明らかにされたが、無三は少しも驚かない。
泰然自若として、おもむろに、「泥中の蓮華」と、ただ一語大喝した。
この答話を聞いて、藩侯は深く感悟し、以後、篤く無三に帰依したという。」という話なのであります。
蓮の咲くのを眺めながらいろんなことを思います。
横田南嶺