大用国師のこと
大用国師というのは、誠拙周樗禅師のことであります。
円覚寺の中興と称せられる方であります。
江戸時代に、円覚寺は衰退していた頃がありました。
『円覚寺史』には、
「口碑によると、圓覺寺山内の諸僧が、どてらを着て、博奕にふけつてゐたといふが、まさかそれがそのまま事實とは思へないが、」と書かれていて、
更に「矢張り、相當の風俗綱紀の紊亂はあつたものと見える」と書かれているのです。
しかも「一旦大切な舍利を正續院内の昭堂舎利殿の中の龕に安置するとなると、これを供養守護する人が必要になって来るが、山内は無人であったらしく、その係りを捻出出来ないとみえ、正續院自身も殆ど無人に等しかつたらしい。」
という状況となっていたのでした。
正続院には仏舎利をお祀りする舎利殿があり、開山様をお祀りする開山堂があります。
そんな大事なところをお守りする人もいない有様だったのでした。
そんな衰退していた宗風を挽回されたのが、大用国師なのです。
江戸時代の禅僧としてはなんといっても白隠禅師がよく知られています。
白隠禅師が江戸時代に臨済の禅を再興されたと言われています。
大用国師は、その白隠禅師より五十九歳ほど若い方であります。
大用国師は、四国の宇和島のご出身です。
鍛冶屋の生まれで、三歳の時に父に死に別れます。
母はまもなく再婚して、新しい夫との間に子供も出来ます。
そうして七歳で宇和島の佛海寺で出家します。
自らの意志というよりも、新しい夫婦の子供も出来てやむを得ぬ事情だったのだと推察されます。
そこで雛僧として教育を受けました。
十六歳で行脚に出て、本格的な参禅弁道に励みました。
海岸寺の東巌禅師をはじめとして荊林禅師やすぐれた禅僧方を尋ねられました。
井山の宝福寺におられた白隠下の大休慧昉禅師にも参じたとされています。
最後に横浜永田の宝林寺東輝庵に隠栖されていた武渓老人こと月船禅師に参じます。
誠拙禅師二十歳の時であります。
この月船禅師という方は古月禅師の法系と言われていて、すぐれた禅僧でありました。
三春の高乾院に住された後に、永田の東輝庵に寓居されていたのです。
偈頌にもすぐれていてその詩偈集『武渓集』が知られています。
この詩偈集『武渓集』の訓注本をかつて出版したことがありました。
当時の円覚寺は衰退していたのでありました。
円覚寺でも創建当初は山内全体が修行道場として規律を保っていました。
それが、山内に代々の住持の塔所である塔頭ができて、だんだんと塔頭に住する者達が独自に修行するようになって、本山の修行は形式だけになってきました。
そして江戸期には、寺院の増加に併せて僧侶も増え、宗風が沈滞していったようです。
さてそういう沈滞の気風の中で、九州の古月禅師がでて、禅風を挙揚され、その同じ系統にあたると言われる月船禅師が関東で教化を挙げられました。
白隠禅師も静岡の原の松蔭寺で大いに教化をなされていたのでした。
沈滞の気風を一掃しようという動きは地方からでした。
そうして月船禅師の元で修行がほぼ完成したころに、大きな転機が訪れました。
当時の円覚寺は続灯庵の実際法如禅師や仏日庵の東山周朝禅師らによって何とか円覚寺にも宗風を復古させようという機運が起こっていました。
山内すべては無理でもせめて、舎利殿開山堂をいただく円覚寺一番の聖地である正続院だけでも僧堂として伝統の修行を復活させようと努力していました。
そこでもっとも大切なのはその指導者を得ることです。
僧堂を復興して宗風を挽回してゆくその任に堪える指導者が何としてでも必要でした。
その白羽の矢が立ったのが、当時円覚寺末寺にあたる永田の宝林寺内の東輝庵にいた青年僧誠拙禅師その人でした。
当時まだ弱冠二十六歳、その若者に円覚寺の将来が託されたのでした。
続灯庵の実際法如禅師と師匠の月船禅師の推挙によって円覚寺に錫を移します。
安永六年(一七七七年)、誠拙禅師三十二歳の時、東山周朝禅師に嗣法して仏日庵の塔主になりました。
天明元年誠拙禅師三十六歳の時、正式に前版職という今日の僧堂師家に任ぜられました。
そうして円覚寺の僧堂を復興されました。
これだけでも一大業績ですが、大用国師は円覚寺だけにとどまらずに、六十二歳の時に八王子の広園寺にも僧堂を開単されました。
開山峻翁令山禅師の四百年大遠諱に結制大会が行われ、それに併せて開単されました。
六十四歳で僧堂師家をご自分の弟子の清蔭禅師に譲られ一時山内の伝宗庵に隠居され、更に横浜金井の玉泉寺に隠居しようとされました。
ところが隠居の間もなく、明くる年六十五歳で京都相国寺の大会に拝請され師家をつとめて『夢窓国師語録』を提唱されました。
誠拙禅師の名は天下に広まり、六十九歳で天龍寺の大会も師家をつとめ、天龍寺にも僧堂の基礎を築かれました。
さらに最晩年の七十六歳で再び上洛され、今日の相国寺僧堂を開単されました。
今も相国寺僧堂にはその時の禅堂が残っています。
ところが、その時病に倒れ、相国寺でご遷化なされます。
文字通り僧堂の為に捧げた御一生でした。
円覚寺にはご遺骨になって帰山され、今の正伝庵の塔所に埋骨されました。
僧堂の開単だけでも円覚寺と広園寺、天龍寺と相国寺においてなされました。
ほかに結制大会は、南禅寺や建長寺などにおいてもなされました。
遠くは故郷である宇和島の仏海寺や大乗寺においても祖録の提唱がなされ、紀州由良の興国寺においても開山大遠諱を勤めておられます。
円覚寺は、大用国師開単以来、清蔭、淡海、東海和尚と代々誠拙下の師家方によって指導されてきましたが、明治になって一時閉単し、白隠下の今北洪川老師によって再開単されました。
「大用国師」の諡号は大正八年に追贈されています。
そんな功績のあった大用国師を偲んで法要をお勤めしたのでした。
横田南嶺