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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.06.17
今日の言葉

悟りは入り口

先日は仏教伝道協会のご依頼で、静岡県浜松市にある臨済宗方広寺派大本山の方広寺に行って参りました。

仏教伝道協会で開催されている「実践布教研究会」に講師として招かれたのでした。

方広寺様は、臨済宗十四派の本山の一つであります。

とてもいい境致にあります。

御開山は無文元選禅師と申します。

元亨三年(一三二三)のお生まれであります。

後醍醐天皇の皇子でありました。

『禅学大辞典』によれば、

「母は昭慶門院といわれる。

七歲で乳母の死に遭い、悲しみのあまり山寺に入り和歌や禅定に励む。」
と書かれています。

そして「暦応三年一八歲で、建仁寺の明窓宗鑑を礼し また可翁宗然·雪村友梅に参学した。」とあります。

後醍醐天皇ご崩御の明くる歳にご出家されたのでした。

「康永二年(一三四三)入元の志を抱いて博多の聖福寺に至って無隠元晦に入元の知識を探る。

商船に乗じて入元し諸州を遍歴して名宿を尋ね、至正七年(一三四七)福州(福建省)大覚寺古梅正友を尋ねて掛搭し 左右に侍して得法、無文の号を付された。」
と書かれています。

更に「のち楚石梵琦、了庵清欲などに参じ、また天台の石橋、德山の塔を拝し、笑隠大訢に参じた。

観応元年(至正一〇年一三五〇)元朝大いに乱れ、径山、霊隠、浄慈、天童など席を空しくするに義南・碧岩璨と共に乱を避けて帰朝した。

檀越が巨荘を寄せて普光庵に請じたが、辞して住せず、また人あって洛西の岩倉に帰休庵を結んで居せしめた。

数年にして美濃(岐阜県)に移り、庵を帰休庵と称した。

遠江(静岡県)の是栄居士同国奥山に梵宇を構えて方広寺となして始祖に請じ、至德元年(一三八四)これに応ず。

康応二年閏三月二二日示寂。世寿六八。」

とございます。

明治十七年に明治天皇から「聖鑑国師」という国師号を賜っています。

その日は雨でありましたが、この雨が一層方広寺の境内を幽邃にしています。

山号は「深奥山」で、まさに深山の奥深くに来たという思いがします。

雨の中到着すると、なんと恐れ多くも方広寺の安永祖堂管長猊下がお出迎えくださっていて恐縮しました。

控え室に入ると、その床の間の墨蹟に驚きました。

円覚寺の今北洪川老師を筆頭にその次に妙心寺の管長をおつとめになられた東海猷禪老師、その他お歴々が、方広寺の開山さまに国師号を下されたことにお祝いの偈を作っておられるのでありました。

とても貴重な墨蹟であります。

洪川老師がお書きになっているので、わざわざお出しくださったということで、恐れ入りました。

講座の第一講は、柳幹康先生で「禅の系譜とその教え」という題でご講演くださいました。

柳先生は、先日禅文化研究所でお目にかかったところでありました。

柳先生は仏教の成立と展開から話を始められました。

柳先生がお作りになられた「仏教伝播図」というのをいただきました。

インドで始まった仏教が、南方と東方と北方へと三つに伝わったという分類であります。

多くは北伝と南伝と二分されることが多いのですが、三つに分けたのが特徴であります。

南方はスリランカやタイなどであります。

東方は、中国から朝鮮、そして日本であります。

北方というのはチベットであります。

教えの内容も言語も異なるとご説明くださいました。

たとえば「仏」という言葉を南方ではパーリー語で「ブッダ」ですし、東方では「仏」「フォー」と発音します。

チベットでは「サンギェ」となります。

たしかに言葉でもまったく異なることが分かります。

その日にいただいた資料は一五ページにわたるものです。

小冊子であります。

東方の仏教の特徴を資料では次のようにまとめてくださっていました。

「中国で三世紀に経典の翻訳が始まり、仏教を体系化する各種の理論が構築される(教相判釈)。

八世紀に禅宗が勃興、我々の心は本来仏であるという「事実」を「教外別伝」(教の外で別に伝える)と主張、

今生では仏になれないという従来の常識を根底から覆す。

以後、中国では全て禅宗となり、韓国では仏教界の九割を占め、日本では四割の浄土系(浄土宗·浄土真宗)に次ぐ三割の勢力となる(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)」
と実に簡潔にまとめてくださっています。

ここに書かれている「我々の心は本来仏であるという「事実」を「教外別伝」(教の外で別に伝える)と主張、今生では仏になれないという従来の常識を根底から覆す。」というのはまさにその通りであります。

経典にはなかった主張でした。

そこで教外別伝だと言ったのだと察します。

それから「禅の悟りとその先」と題して、「禅宗において悟り(仏の自覚)はゴールではなく、仏行(仏の実践)への入り口」ということを説いてくださいました。
「今生において悟りから仏行へと進む実践体系は永明延寿(904-976)により確立され、大慧(1089-1163)・白隠慧鶴(1686-1769)ら後代の禅僧にも同様の体系が見られる。」
というのであります。

そのあとこの永明延寿禅師と大慧禅師と白隠禅師の実践体系をわかりやすく解説してくださいました。

延寿禅師の実践体系では

まず第一に「起信」といって、自身の心が仏であると信じることです。

それから「漸修」といって、仏の心に相応しい行為を続けることです。

三番目に「頓悟」といって、己の心が仏であると実感することです。

それから四番目に「漸修」で、残る煩悩の習気を徐々に除くことです。

そして「頓修」といって、仏の行為を自発的に行うことなのです。

柳先生によれば「仏の行為とは、慈悲の心に基づき、戒律から外れることなく、万善といって衆生救済を含むあらゆる善行を行うことをいう」のです。

大慧禅師の実践体系はまず「静処工夫」で、坐禅して公案に参究します。

それから「鬧中工夫」といって、行住坐臥、つねに公案に参究し続けます。

そして「打破漆桶」といって開悟、己の仏心を看てとります。

「漸除」は残る煩悩の習気を徐々に除くことです。

そうして「随宜作仏事」といって仏の行為を行うのです。

それは法を説き人々を教え導くことをいうのです。

白隠の実践体系では、まず静中工夫で坐禅して公案に参じます。

それから「動中工夫」といって行住坐臥、つねに公案に参究し続けます。

そうすると「見性」といって己の仏心を看取します。

「上求菩提」は自利で、己の悟境を不断に練り上げることです。

更に「下化衆生」で、これは利他です。

法施といって「法の施し、説法」をします。

そうして人々を救い続けます。

白隠禅師によればこの「上求菩提」と「下化衆生」の二つを合わせて悟後の修行と呼んでいて、このふたつを無限に循環させることにより始めて自他ともに救われると説かれたと、柳先生は解説してくださいました。

この三人のうちで延寿禅師と大慧禅師は説法について、仏心から自ずと出てくる働きとしています。

それに対して白隠禅師は悟りの後にもまだ潜んでいる、抜き難い我見を除去するための必須の手段とみているのだと解説してくれました。

仏教の始まりから禅の歴史の展開、そして白隠禅師に至るまで該博な知識をもって分かりやすくお話してくださいました。

そんな講演のあと、私が話しをするとはとても恥ずかしく思ったのでした。

 
横田南嶺

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