臨済禅師のおつかい
今回は、臨済禅師が、まだ黄檗禅師のもとで修行していた頃の話です。
黄檗禅師が、潙山禅師のもとに手紙を届けることになって、そのおつかいの役を臨済禅師がおおせつかったのでした。
臨済禅師が黄檗禅師の手紙を持って、潙山禅師にもとに行った時、ちょうど仰山禅師が、知客という接客の係をしていました。
潙山禅師は西暦七七一年から八五三年まで活躍された方です。
仰山禅師は、西暦八〇七年に生まれ、八八三年まで活躍されています。
臨済禅師は、お亡くなりになったのが八六七年とされていますが、生年がわかっていません。
黄檗禅師に至っては、その生年もお亡くなりになった年も不明であります。
今回の問答で、潙山禅師の兄弟子であったことが分かります。
仰山禅師と臨済禅師とはほぼ同世代の方であります。
臨済禅師もこの頃は黄檗禅師のもとで修行も仕上がっていた頃であります。
臨済禅師が黄檗禅師のお手紙を潙山禅師のもとに届けようと、接客の係の仰山禅師に手渡しました。
すると仰山禅師は、その手紙を受け取ると言いました。
「これは黄檗和尚のものですが、どれが御使者のものですか。」 というのです。
これが禅問答というものです。
今でこそ、修行道場では禅問答の時間と場所が定められていますが、この時代では、いつでもどこでも問答が行われていたのでした。
「どれが御使者のものですか」という問いは、あなた自身の真実の自己とはどのようなものかと問うています。
そこで臨済禅師は仰山禅師に平手打ちを食らわせようとしました。
原文では「掌す」となっています。
「掌」という文字には、手のひらで叩くという意味があります。
叩こうとした臨済禅師の手を仰山禅師は押さえて、「そこまでお分かりなら文句はない」と言って、潙山禅師の部屋に案内しました。
真実の自己というのは、この自分自身の肉体の上においてありありと現れてはたらいているのです。
そのことを全身で示したのが、手のひらで打つというはたらきでした。
それを仰山禅師が見てとって、潙山禅師のもとに案内したのでした。
満足のいく応対ができなければ、取り次いでくれなかったのでしょう。
潙山禅師にお目にかかると、潙山禅師が問いました、
「黄檗師兄の処には雲水は何人ぐらいいるかね」
ここに「黄檗師兄」とありますので、黄檗禅師が兄弟子であったことがわかります。
お二人は百丈禅師のもとで、修行していたのでした。
もっとも、単に敬称として「師兄」という場合もあります。
そう問われて臨済禅師は「七百人ばかりです。」と答えました。
黄檗七百の高僧という言葉がありますが、七百名も修行していたのでした。
会昌の破仏という武宗による仏教大弾圧が八四五年ごろでした。
その前でありましたので、大勢のお坊さんが修行していたのです。
潙山禅師が「誰がその指導者か。」と問います。
臨済禅師は「先刻手紙をお届けしたばかりです。」と答えました。
指導者は原文では「導首」となっています。
古い注釈書では「首座」のこと書かれていますが、限定はできません。
指導者であることは確かです。
大勢の僧侶を指導しているのは誰かということでしょう。
今度は臨済禅師が潙山禅師に問いました、
「和尚の処にはどれくらいおりますか。」と。
潙山禅師は「千五百人ばかり。」だと答えました。
臨済禅師は「すごく多いですね。」と言います。
潙山禅師は「黄檗師兄の処も少なくはないぞ。」と言いました。
二人の問答はこれだけです。
このところを山田無文老師は次のように提唱されています。
「その七百人の雲水の指導にあたる人は誰かな。一老子は誰かな」
「先ほどもうお手紙をお渡ししましたぞ」
さすがは臨済じゃ。それは私でございます、などと馬鹿なことは言わない。同じことを言うのにも言葉の表現というものが大事である。うっかりすると、「私です」などと言うもんだが、そう言ってしまっては実も蓋もない。と言って自分に違いないのだから、嘘は言えん。「先ほど手紙を渡した男ですよ。分かりませんか」というわけだ。
というのであります。
さてその後臨済禅師が潙山禅師にお暇を告げました。
接客係の仰山禅師が送り出して言いました、
「そなたはこれから北の方へ行かれるがよい、必ず良い住所があるでしょう。」
臨済禅師は「まさかそんなことが。」と言います。
仰山禅師は「まぁ、行ってみなさい。きっとそなたを補佐する人がありますぞ。さてもその人は頭はあれど尾なし、始めはあれど終りなしです。」
と言ったのでした。
後に臨済禅師が鎮州に行くと、普化という僧がもうそこにいました。
臨済禅師が臨済院の住職になると、その普化が臨済禅師を補佐しました。
しかし、臨済禅師が住職となって程なく、普化は身ごと蟬脱してしまったという話であります。
蝉脱は原文では「全身脱去」です。
「蝉が殻をぬぐように、身ごと脱皮して消えうせる」です。
仰山禅師の謎めいた予言によって臨済禅師は北の方へ行ったことになります。
柳田聖山先生の『仏典講座30臨済録』には、
「義玄が河北にきて、臨済院でその宗風を立てるようになる事情を、仰山の予言によって語る一段。さきにいうように、当時の江西の禅は潙仰父子によって代表されていた観があり、遠く河北の一方に宗風をあげた義玄は、潙仰に認められることによって、その正系たるを主張し得たのである。少なくとも、臨済の流れをくむ人々が、 その法系を意識しはじめた頃は、どうしても潙仰による評価を必要としたらしい。」と書かれています。
今では臨済宗として日本に伝わっていて、潙山や行山の宗の方が知られていませんが、当時は潙山仰山の宗の方が盛んだったことが分かります。
臨済禅師のおつかいの問答ですが、いろんなことがわかるものであります。
横田南嶺