雨降るとも
『真理の偈と物語』(大蔵出版)を参照しながら紹介します。
お釈迦様の頃の話です。
耆闍崛山の背後に七十余家の婆羅門がいて、前世の善い行ないによって救われると考えていました。
この場合の「婆羅門」というのは、当時のバラモン教の修行者を言います。
お釈迦様がその村に到着しました。
お釈迦様の光り輝く堂々としたお姿を見て、皆敬服しました。
お釈迦様は樹の下に坐って、婆羅門たちに問われました。
「この山中に幾世代いて、どのような生業によって、日々の糧を得ているのか。」と。
婆羅門が答えました。
「ここに三十余世代いて、田を耕し牧畜して、生業としています。」
というのです。
お釈迦様は更に問われました。
「どのような修行をなして生死を離れようとするのか。」と。
婆羅門は答えました。
「日月水火につかえ、時節に応じてお祭りしている。
死者があるときには、おとなもこどもも集まり、梵天に生まれて生死を離れますようにと唱えます。」というのです。
それに対してお釈迦様は婆羅門たちに語られました。
「田を耕し、牧畜して、日月火水を祭り、天に生まれますようにと唱えるのは永遠に存在して生死を離れる方法ではない。
非常に福徳が多くても、二十八天以上にはならない。
悟りの智慧はなく、また三途に堕ちてしまう。ただ出家して清浄な心を修行し、寂滅の教えを実行すれば、涅槃を得ることができる。」とお示しになったのでした。
そこでお釈迦様は次の偈を説かれました。
真実を虚偽と思い
虚偽を真実と思う
それはあやまった分別であり
真の利益を得ることができない
真実を知って真実と思い
虚偽を知って虚偽と思う
それが正しい分別であり
必ず真の利益を得る
世間の存在にはすべて死があり
三界には平安がない
天の神々は楽しいが
福徳が尽きるとまた(楽しみを)失う
世間を観察すると
生が終わらないということはない
生死を離れようと欲するならば
仏道の真髄を修行しなさい
という言葉でした。
それを聞いた七十人の婆羅門たちは、よろこんで心が解放されて、沙門となりたいと願いました。
お釈迦様が「よく来た、比丘たちよ」と言われると、髭や髪が自然に落ちて、みな沙門となったという話であります。
「よく来た、比丘たちよ」というのは、漢訳では「善来比丘」であります。
お釈迦様が出家して修行したいという者に、「善来比丘、鬚髪自から落ち、袈裟身に著かん」と言ったのでした。
「よく来た、比丘よ。その髪と髭は自ら落ち、袈裟が身にまとわれるであろう」という意味です。
そうすると髪は自然に抜け落ち、袈裟を着た比丘の姿になるというのです。
そしてお釈迦様は比丘たちといっしょに精舎に帰られました。
途中まで来たとき、妻子が恋しくなり、みな帰りたいという思いがありました。
まだまだ煩悩が強く残っていたのです。
そのとき雨が降ってきて、ますます憂鬱になりました。
お釈迦様は皆のそんな思いを知って道端に数十軒の家を神通によって作り、中に入って雨を避けさせました。
ところがその家には雨漏りがしていました。
そこでお釈迦様は雨漏りがしたことに因んで偈を説かれました。
屋根が緻密に葺いてないと
雨が降れば漏れ入る
心が統御されていないと
みだらな思いが穴を開けて入ってくる
屋根が緻密に葺いてあると
雨が降っても漏れ入らない
心の統御を実践すると
よこしまな思いは生じない
という偈であります。
友松円諦先生の訳によれば、
そあらに 葺かれたる 屋舎(いえ)に
雨ふれば 漏れやぶるべし
かくのごとく 心ととのえざれば
貪欲これを破らん
こころこめて 葺かれたる 屋舎に
雨はふるとも 漏れやぶることなし
かくのごとく よくととのえし心は
貪欲も破るすべなし(『法句経』講談社学術文庫)
となっています。
この偈を聞いて比丘たちはなんとか道に進んでいこうと思うのですが、まだ心がぼんやりとしてはっきりしません。
雨が止んで進んで道を行くと、道に古い紙が落ちていました。
お釈迦様は言われました。
「比丘たちよ、これを取れ。」と。
拾った比丘にお釈迦様は尋ねました。
「それは何の紙だと思うか。」と。
比丘たちは答えました。
「これは香木を包む紙です。いま捨てられていますが、もとのように香りをとどめています。」と答えました。
お香を包んでいた紙だったのです。
お香の匂いがのこっていたので分かったのでした。
さらに進んで行くと、地上に縄の切れ端がありました。
お釈迦様は、これを拾うように言われました。
拾った比丘に「これは何か。」と問います。
「その縄は生臭いので、魚をつるす縄です。」と答えました。
そこでお釈迦様はお説法されました。
「物は本来清浄である。
みな因縁によって罪業や福徳を生ずるのである。
賢明な人に近付けば正しい道が盛んになり、愚かな人を友とすれば、罪悪がやって来る。
あたかもあの紙や縄が、香木に近付けばかんばしく、魚をつるせば生臭いようなものである。
次第に染みつき、習慣となるが、だれも自分では分からない。」と。
賢い人が人を染め付けてゆくのは
香りのよい香木に近付くようなものである
智慧を進め善が習慣となり
徳行が成就して高潔となる
という偈を説かれました。
七十人の沙門はこの偈を聞いて執着を離れ阿羅漢の悟りを得たという話であります。
「薫習」という言葉があります。
「物に香が移り沁むように、あるものが習慣的に働きかけることにより、他のものに影響・作用を植えつけること。」と『広辞苑』に解説されています。
道元禅師は、
「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。よき人に近づけば覚えざるによき人となるなり」と仰せになっています。
霧の中を歩いていると、濡れると感じなくても、しばらく歩けば、しっとりと衣が湿ってきます。
そのように、よき人のそばにいれば、人柄も自然とよくなってゆくというのです。
よい環境に身を置いて、善い人に教えを受けていると自ずとよくなってくるのであります。
雨はふるとも、よい教えを聞いて心を調えることであります。
横田南嶺