コツコツ コツコツ
西澤館長は、真民先生の三女の夫であります。
『坂村真民の生き方とそこから生まれた詩』と題してお話くださいました。
まずは真民先生の独特な生き方を分かりやすくお話くださいました。
真民先生の詩作のおおもとには、「思索ノート」があります。
これが大学ノートに縦書きで、びっしり書かれたノートであります。
それは昭和二十六年七月から平成十七年の二月まで、五十四年間毎日書かれているのです。
その数は、なんと七百九十六冊になるのです。
この膨大な思索ノートを西澤館長は、記念館を創設するにあたって読み込まれたのでした。
晩年の真民先生は、自分がこの世に残すものは、このノートだけだと仰せになっているそうです。
「このノートが真民の魂だ」と書き残されていることを今回教えていただきました。
貴重なノートの現物も会場で見せてもらいました。
一冊目の思索ノートは、参禅録と題して書かれています。
後に「詩記」となって続いていったのでした。
それから毎月「詩国」という個人詩誌を出し続けられています。
昭和三十七年の七月号から始まっています。
これが森信三先生の励ましによって始まったのでした。
はじめは百部くらいから始まったようです。
それが二百になり三百になり、昭和五十一年には一千二百部に達しました。
真民先生は封筒に宛名を書き、印刷された詩国を折って、封筒に入れて、封をして切手を貼るという作業をお一人でなさっていました。
一千二百部が限界としてそれ以降は、新しく詩国を読みたいという人がいても断っていたのでした。
この話を聞くといつも有り難くもったいなく思います。
なんとなれば、私は昭和五十六年から詩国を送ってもらっていたのでした。
高校生だったからかと想像します。
そんなたいへんな作業の一人に加えてもらっていたのは、私の人生の僥倖であります。
その後も詩国を求める人は多く、送ってもらった人がコピーして送るようになったそうです。
そこで真民先生は最終的に六千部を印刷して多くの方に配ってもらうようにお願いしていたというのです。
六千部というのはたいへんな数であります。
かくして昭和三十七年から平成十六年に二月まで、『詩国』は五百号をもって終わりました。
それから更に一年半ほど『鳩寿』を十五回出されています。
四十三年間で五百十五回も個人詩誌を毎月発行されたのでした。
こういう「コツコツ、コツコツ」継続することが真民先生の生き方であります。
これだけ続ける精神力があったのであり、そしてそれを支えてくれる人がいたのでありました。
その生き方を支えていたものとして西澤館長は次の三つをあげておられました。
一つは読書による知識の吸収であります。
中央の詩壇と関わることなく詩作活動を続けられたのは、世界の知識を圧倒的な読書量で吸収していたことであります。
西澤館長は、思索ノートに出てくる本の数は一万になるとおっしゃっていました。
それから家族の支えがありました。
真民先生は仏教を学び坐禅をして独自の世界観をもっておられましたので、学校では変人として批判の的となっていたと西澤館長はお話くださっていました。
これが私の最も共鳴するところなのであります。
私もまた学校では変人扱いでありました。
それでこの先生なら自分の気持ちを分かってくれると思って真民先生に手紙を書いたのがご縁の始まりだったのです。
そんな孤独な生き方を強いられていた真民先生にとって家族は一番の精神の安らぎでありました。
それから三番目に大いなる人、杉村春苔先生の存在をあげておられました。
春苔先生は真民先生にとってとても大事な方であります。
真民先生から春苔先生に出された手紙やはがきは、三百七十七通になるそうです。
春苔先生から真民先生に送られた手紙やはがきが三百二十三通だそうです。
真民先生はこの春苔先生の手紙と母の手紙だけは大事に残しておられたのでした。
そんな真民先生独自の生き方から生まれた詩について、五つの特徴を挙げてくれていました。
一つは、悲しみ。
二つは、祈りと信仰。
三つは、自戒。
四つは、生きる喜び。
五つは、家族の愛であります。
西澤館長には『かなしみをあたためあって あるいてゆこう』という題の著書があります。
これは真民先生の詩の言葉であります。
そしてこの思いは真民詩を貫くものであります。
祈りと信仰については、『六魚庵信仰歌』の詩をはじめに紹介してくださいました。
この詩も私の好きな詩のひとつであります。
迷いながら
躓きながら
求めながら
失いながら
憎みながら
愛しながら
泣きながら
堪えながら
責めながら
怖れながら
己をつくり
神へ近づく
仏へ近づく
という詩であります。
自戒という自らを戒める詩では『六魚庵箴言』の詩を紹介してくださいました。
六魚庵箴言
その一
狭くともいい
一すじであれ
どこまでも掘り下げてゆけ
いつも澄んで
天の一角をみつめろ
その二
貧しくとも
心はつねに
高貴であれ
一輪の花にも
季節の心を知り
一片の雲にも
無辺の詩を抱き
一碗の米にも
労苦の恩を感じよう
その三
いじけるな
あるがままに
おのれの道を
素直に
一途に
歩け
という詩です。
この詩は真民先生の詩の一番原点にあるものと思っています。
四十歳のころの詩です。
そして八十九歳で、
「しっかりしろしんみん」の詩を作っておれてます。
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
しっかりしろ
しんみん
どこまで書いたら
気がすむのか
もう夜が明けるぞ
しっかりしろ
しんみん
という詩であります。
そして生きる喜びとして「たんぽぽのうた」をあげられました。
みんな
寒い寒いと言っているが
何だか
ぽかぽかしてくるね
どうしてこんなに
俺たちだけが
ぽかぽかしてくるのかね
待っているからだよ
希望があるからだよ
そうだね
まったくそうだね
という詩であります。
家族の愛については奥様を詠った詩が心に残ります。
五十九年間
五十九年間
苦労をかけたひとを
死なせてなるものか
じっと寝ているだけでもいい
側にいてくれればいいのだ
そう念じ
もうすぐ花を開こうとする
朴の木の下で祈る
という詩であります。
五十九年というのは結婚なされてからの年数であります。
奥様はくも膜下出血で意識不明になってしまったのでした。
「じっと寝ているだけでもいい
側にいてくれればいいのだ」
という思いは胸を打ちます。
そのように真民詩の世界をとても分かりやすくお話くださいました。
聴講された皆さんも真民詩の心が伝わったのか、終わったあとはほのぼのとした明るい表情になっておられました。
コツコツ、コツコツ、詩を書き続けられた真民先生のご生涯であります。
横田南嶺