まわりの音が
先日は第二十四回イス坐禅の会を都内で行いました。
お寺の世界というのは、伝統と格式を重んじる世界でありますので、あまり新しいことを好まない傾向があります。
ご多分に漏れず、このイス坐禅の会も、寺の内部では好ましく思われていないようなのであります。
これは管長に就任して以来、慣れていることであります。
今は誰でもお参りできるようになっている佛殿ですが、これを開放するのに、一年もかかって苦労したことを思い出します。
大事な伝統を守りたいという思いが強くあるので、新しいことには積極的でないのは致し方のないことであります。
経費削減も考えて、今回は私も準備から参加していました。
皆さんのお飲み物のペットボトルを五十本、ビルの十二階まで運ぶのであります。
これが結構重いものです。
会議室に、毎回使う手ぬぐいや、今回初めて使ったスーパーボールや、お菓子、それにアンケート用紙などをイスに置いて支度をします。
私は直観ではだしでやった方が気持ちよいと思って、会議室に入ってすぐにはだしになって、手ぬぐいやお菓子をイスに置いて並べていました。
こういう作業もまた楽しいものであります。
そうして部屋で待っていると次々と参加者が入ってきてくれます。
皆さんが会の始まるまで待っている姿を拝見していました。
寸暇を惜しんで読書される方、いつものイス坐禅でもう坐っていらっしゃる方、お疲れになっているのか、お休み状態の方、それぞれであります。
どれがよいとか悪いということはありません。
それぞれのお姿であります。
今回はイス坐禅の前に、私も都内でいくつかの仕事をこなして臨みました。
少々疲れているかなと思って臨んだのですが、さすがイス坐禅であります。
はじめの一時間ですっかり体が楽になりました。
元気がみなぎったという感じであります。
いつものように体をほぐしてゆくところから始めていました。
今回も前回と同様に手を重点的に行いました。
そのためにいつもより少し時間がかかってしまいました。
そのぶん効果はてきめんです。
一回目の坐禅を終えるのが、もうもったいないような深い静けさに包まれました。
一回目の坐禅のあと30分ほど話をするのですが、もう話なんかしなくて、このまま坐っていた方がいいのではと感じたほどでした。
しかしながら、話の準備もしていたので、予定通りお話をさせてもらいました。
今回は、前回いただいた質問の続きであります。
前回お答えできなかった質問を取り上げて、その質問から少し話を掘り下げてみました。
まずは、「どうすれば、周りがざわざわしている中でも心を整えられますか?」
という質問でした。
この方は、仕事中イライラすることもあり、そんな時にイス坐禅をして十秒でもいいから心を整えようとされるそうなのです。
しかし、周りの声や物音にばかり意識が向いてしまうというのです。
さてどうしたらいいものか、周りの音を気にしなくていい方法はあるものでしょうか。
まず私は申し上げたのでした。
周りの音や声が気になるというのは、人間に具わって大事な機能、はたらきです。
人間は、動物としてみればとても弱い存在です。
原初の昔から、絶えずまわりの物音を気にしながら危険を察知して行動するようにできています。
今は平和の時代で、襲われるようなこともほとんどないのですが、それでも駅で電車を待っているときなどでも、周りの音や声がきちんと認識できないと困ることがあります。
まず周りの音や声が聞こえるということは素晴らしいはたらきなのです。
そのことに感謝することをすすめてみました。
盤珪禅師という方が不生の仏心ということを説明なされるときに、こうして話を聴いている最中に外でカラスが鳴くと、カラスが鳴いたとわかり、雀が鳴くと雀が鳴いていると分かるのが、不生のはたらきだと仰せになっています。
これは実に深い言葉なのです。
このカラスの鳴き声を聞いてカラスだと分かるというのは、意識して聴いてみようとしているのではないのです。
これは訓練して身につけた能力でもないのです。
ですからこれを盤珪禅師は不生と仰せになったのです。
不生の仏心のはたらきなのです。
仏心のはたらきなのですから、これを厭う必要はありません。
大事なのは、その外の音や声に振り回されないことです。
そのひとつに、何かに集中するという方法もあります。
一心に何かに打ち込んでいると、外の音が気にならないことがあります。
坐禅でも同じであります。
坐禅の場合は、呼吸に打ち込みます。
これはなかなか集中するという訓練がある程度必要になります。
ただ集中してしまって、まわりが何も聞こえないという状態のままだと、これは困りものです。
それはそれでひとつの心の状態です。
大事なのは、どのような音や声が聞こえてきても、心はなにも汚れてはいないことに気がつくことであります。
盤珪禅師は、そのことを鏡の喩えで説かれています。
盤珪禅師のお言葉では、
「不生と申ものは、明かなる鏡のやうなものでござる。
鏡といふ物は、我に何にても移りたれば、見ようとは存ぜねども、何にても鏡に向へば、其貌が移りませいで叶はぬ。
また其移る物をのけたれば、此鏡が見ますまひとは存ぜねども、取のければ鏡に移らぬが、不生の気と申物でござる。」
となっています。
鏡にものが写るようなものです。
こちらが見ようとか、聴こうとしなくても自然と鏡は映るのです。
周りの音が聞こえるのもそのはたらきです。
音が止めば何も残りません。
鏡に写った形は、物がなくなれば、そのままなにも鏡には残っていないのです。
ただ写って、終わりなのです。
聞こえたという事実があって、それで終わりです。
何も心が汚れたりすることはないのです。
それを聞こえないようにしようなどと努力すると、一層心が乱れます。
寺にいると、自然と周りの音が聞こえてきます。
寺は山の中なのでいろんな動物もいます。
物音がすれば、それはリスなのか、他の動物なのか判断します。
リスも外にいれば問題ありませんが、中に入っていれば対処しないといけません。
またときにはハクビシンやアライグマなどが屋根裏に入ってしまうこともありますので、物音には何がどうして音になっているのか察知しないといけません。
また季節季節になく鳥の声も楽しみであります。
ウグイスが鳴いた、ホトトギスだと感じるから人生が豊かになります。
そんなことを申し上げると、管長はいい環境にいるからそんなのんきなことを言えるのだと言われそうです。
かの山岡鉄舟は、「酒飲めばなぜか心の春めきて、借金取りはウグイスの声」と詠っています。
聞こえるままに、ただそのことに振り回されないようにしていればよろしいかと思うのです。
そんなことを伝えて二回目の坐禅に入りました。
これがまた実によく坐れたのでした。
いつも参加してくれるホトカミの吉田亮さんも、早速noteに、「特に今日の2回目の坐禅では、温泉に浸かっているような極楽な気持ちで座ることができました。」と書いてくれています。
これはいったいどういうことかなと私も毎回不思議に思います。
なかなか部屋で一人で坐っても短時間ではこんな深い坐禅にはなりにくいものです。
みんなで坐っているから全体で調ってゆくのでしょう。
その全体の調った空気に包まれている感じを吉田さんは「温泉に浸っているようなと表現されたのだと思いました。
日中の疲れもすっかりとれたイス坐禅、私自身が一番楽しみにしているのであります。
横田南嶺