みどり
これからだ
みどりの風よ
これからだ
さえずる鳥よ
これからだ
みちくる潮よ
これからだ
もえでる葦よ
これからだ
わたしの生よ
これからだ
という詩であります。
みどりという漢字には、三種類あります。
音で「りょく」という緑であります。
「柳は緑、花は紅」という時には、この緑を使っています。
もうひとつ「へき」と読む碧があります。
「江碧にして鳥逾白く、山青くして花然えんと欲す」
という場合には、この碧の字を使います。
それから「すい」と読む翠があります。
「松樹千年の翠」という場合にはこの翠の字を使っています。
緑について『漢字源』には、
「みどり。青竹や草の色で、青と黄との中間色。また、みずみずしくて深い感じの色。みどり色の。」
という解説があって、そのあとに、
「柳緑花紅」という用例があります。
それから
「千里鶯啼いて緑紅に映ず」という杜牧の「江南春」の用例もあります。
「彔ロクは、竹や木の皮をはいで、皮が点点と散るさま。
綠は「糸+(音符)彔」で、皮をはいだ青竹のようなみどり色に染めた糸を示す」
という説明もあります。
『漢辞海』には、
「絹布で青黄色のもの。「糸」から構成され、「彔」が音。
「緑」は「瀏」である。荊泉の水は、上(=岸辺)からそれを見れば瀏然(きよらかなさま)として、緑色をなしている。この色はそれに似ているのである。」
という解説がありますので、いろんな説があるようです。
緑衣というと、「みどり色の衣服。身分の低い者の服」という意味であります。
碧は、「あおくすんで見える石」です。
「碧巌」は「青緑色の岩。コケのはえている岩」です。
「碧巌録」という禅の書物の名にもなっています。
「江碧にして鳥逾白く」というように、自然の中でも特に海や湖、水に関わるものも多く、深く澄んだ色調を表します。
「翠」は「鳥の名。カワセミ科の水鳥。背は光沢のある青緑色。」であります。
もともとカワセミのことを言ったようであります。
カワセミは、円覚寺の池でもよく見かけます。
とてもきれいな羽の色をしています。
「緑」はもっとも基本的なみどりの色で、「翠」は、ひすいのような青緑色、「碧」は、無色の奥から浮きだす青緑色とも説かれています。
緑は、この季節の新緑の色です。
春になって草木が芽吹いて、それが更に緑になって命を感じます。
命が育っていることを感じる色であります。
それから緑は青と黄の間色ですから、きつい色ではありません。
心を穏やかにしてくれます。
安らぎや落ち着きをもたらしてくれます。
森林浴などは、この緑の中で心が落ち着くのであります。
それになんといっても緑は、大自然を感じる色でもあります。
「柳緑花紅」の禅語には思い出があります。
恩師の松原泰道先生のことを思います。
私はまだ中学生の頃から、松原先生にはお世話になってきました。
三十年の長きにわたってご指導をいただいて、その間には、たくさんの著書に署名をして頂戴しました。
一番最後にいただいたのは、致知出版社の『いまをどう生きるのか』でした。
その時に、松原先生は、私の目の前で、筆を持たれて「柳緑花紅 百二歳泰道」とお書きくださいました。
今も大事にしています。
円覚寺の前管長足立大進老師のもとで岩波文庫から『禅林句集』を刊行するにあたって、その編集作業を担当していました。
凡そ七年にわたって、ひとつひとつに禅語についてその出典などを調べていたのでした。
全ての禅語の出典をしらべて、語句を参照し校訂したのでした。
ある日のこと、足立老師がお元気な頃、老師のご自坊で編集作業をしていました。
その作業中に突然、「柳緑花紅」の出典は何かとご下問がありました。
この語の出典については古来より諸説あって難しいのです。
私はその場で様々な書物にあたって調べてみました。
しばらくして奥の茶室からお声がかかりました。
茶室で足立老師ご自身のお手前でお茶を頂戴していると、老師から出典は分かったかと問われました。
「柳緑花紅」は十一世紀の中国・北宋時代の詩人であり政治家でもあった蘇軾(蘇東坡)の詩句に由来すると言われています。
蘇東坡の『東坡禅喜集』に、「柳緑花紅真面目」と詠まれているのがもとだというのです。
柳は緑に、花は紅に、それがそのまま真実の姿だというのです。
私があれこれ調べたところを申し上げていると、老師はお茶を点てながら、「出典はな、ご覧、窓の外だよ」と仰せになりました。
窓から外を眺めると折から新緑の時節で、まぶしいばかりの全山新緑の中でした。
そしてその緑の中に、美しい花が咲いています。
まさに「柳緑花紅」の世界がまのあたりに現前していました。
禅語を書物の上だけで学んでいては、その本質を見失ってしまうことを老師は教えてくださったのだと思います。
新緑の季節になると、そんなことを思い起こします。
足立老師は、この新緑の頃のお生まれでもありました。
大自然は常に教えを説き続けてくれています。
私達は謙虚に教えを学ぶ心を失ってはなりません。
横田南嶺