無位の真人
『臨済録』にある、無位の真人を説いた箇所です。
有名なところです。
「上堂。云く、
「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」。
時に僧あり、出て問う、「如何なるか是れ無位の真人」。
師禅床を下がって把住して云く、「道え道え」。
その僧擬議す。師托開して、「無位の真人是れ什麼の乾屎橛ぞ」と云って便ち方丈に帰る。」
というところです。
岩波文庫の『臨済録』にある現代語訳を見ますと
「この肉体に無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!見よ!
その時、一人の僧が進み出て問うた、「その無位の真人とは、いったい何者ですか。」師は席を下りて、僧の胸倉をつかまえて言った、「さあ言え! さあ言え!」その僧はもたついた。師は僧を突き放して、「なんと(見事な)カチカチの糞の棒だ!」と言うと、そのまま居間に帰った」
というのであります。
山田無文老師の提唱を見てみましょう。
禅文化研究所の『臨済録』から引用します。
「上堂。云く、赤肉団上に一無位の真人有り
赤肉団はお互いの肉体のことだ。切れば血の出る、このクソ袋のことだ。朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、一無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまこと人間、真人がおる。仏がある。一人ずつおるのじゃ。みんなの体の中に一人一人、無位の真人という、修行したこともなければ、修行する必要もない真人が一人おる。陸軍大将でもなければ上等兵でもない。 正一位でもなければ従五位でもない。そんな階級はない。社長でもなければ社員でもない。位のつけようがない。 男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない。偉くもなければ馬鹿でもない。世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある。
肉体的には肥えた人もあればやせた人もある。金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。学校を出たとか出んとか、履歴がついておる。この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、修行することもいらんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性があるのじゃ。」
無文老師が、臨済禅師になりきって提唱なされている様子が彷彿としてきます。
更にそのあと
「常に汝等諸人の面門より出入す」についての提唱が続きます。
面門は、顔面のことを言います。
顔には目や耳や鼻や口があります。
それぞれの感覚器官がそなわっています。
無位の真人というのは、実にその感覚器官を通してはたらいているのです。
臨済禅師は、心というものは形がなく、十方世界を貫いていると説かれ、そしてその心は、眼にはたらけばものを見て、耳にはたらけば音や声を聞いて、鼻にはたらけば匂いを嗅いで、口にはたらけばあじわい、あるいはおしゃべりします。
もともとの一心が、六つの感覚器官を通してはたらいているのです。
無文老師は「虫が鳴けば虫の中に真人がおる。山を見れば山が真人だ。川を見れば川が真人だ。全宇宙、お互いの感覚の届くところはどこへでも行く。主観も客観もぶち抜いて、そこに一人の真人が働くのである。こういう立派な真人が、仏が、みんなの体の中にちゃんと一人ずつござるのじゃ。こいつを見分けるのが、それをしっかりつかむのが、見性というのじゃ。それがはっきり分かるのが、無字が分かったというのだ。」
とも提唱されています。
鈴木大拙先生は岩波文庫の『東洋的な見方』で
「真の人とは普通にいう人のことでなくて、人をして人たらしめるところの存在理由とでもいうべきか、いわゆる見聞覚知の主人公である。
深い意味でいう心または心法である。
なんらの形体をそなえていなくて、十方を通貫しているところのものである。
目で見るもの、耳で聞くもの、足で歩くもの、手でつかむものである。
英語でいえば、普通、動詞のあとに付けるer または or である。
これを臨済は真人という。
この人がわれら人間一般の感官または四肢または体軀を使って、客観界に働きかけて行くのである。
この人をまだ実地に自覚的に「証拠」していない人たちに「看よ、看よ」と、臨済は呼びかける。
「看よ、看よ」がすこぶるおもしろい。
臨済が自らの全存在を丸出しにして、迫りくる様子は、実に真剣勝負である。
ぐずぐずしてはおれぬ。ちょっとの隙もない。
それで大衆から出てきた一人の坊さん、「いかなるかこれ無位真人?」などと尋ねかけてくると、まどろかしくて仕様がない。
臨済は直ちにその座を立って、問者の胸倉をつかんで「さあいえ、さあいえ」と迫る。」
と説かれています。
更に、
「宗教の要求するのは、真の人である。おひなさまを飾ったのでは活きていない、いかに美しくても手の届かぬ客観的幻影の世界にすわりこんでいては何にもならぬ。活潑潑地の真人そのものでなくてはならぬ。」
とも仰せになっています。
無文老師のイキイキとした提唱に臨済禅師がいらっしゃるかのように感じます。
大拙先生のご高察もまた、素晴らしいものであります。
今これを聞いてくださっている、お一人お一人が無位の真人なのであります。
横田南嶺