灯台守の心
一、こおれる月かげ 空にさえて 真冬の荒波 よする小島(おじま) 想えよ とうだい まもる人の とうときやさしき 愛の心
二、はげしき雨風 北の海に 山なす荒波 たけりくるう その夜も とうだい まもる人の とうとき誠よ 海を照らす
という歌詞であります。
ここでいう灯台とは『広辞苑』に、
「航路標識の一つ。
沿岸航行の船舶の目につきやすく建てた塔状の構造物で、夜間は灯光で陸地の遠近・所在・危険箇所などを指示し、出入港船舶に港口の位置を示す。」
と解説されているものであります。
灯台守というのは、灯台に併設された家もしくは灯台の近くに建てられた家に住んでいた人であります。
日本最初の灯台は西暦八三九年(承和六年)遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと『続日本後紀』にあるのが最初だということです。
日本最初の洋式灯台は1869年(明治2年)2月11日に点灯した観音埼灯台だそうです。
神奈川県横須賀市、三浦半島東端の観音崎にあります。
私のふるさとには潮岬の灯台があります。
この灯台も古いものです。
幕末の一八六六年(慶応二年)五月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四か国と結んだ「改税条約」(別名「江戸条約」)によって、八カ所の灯台を作ることを約束したのでした。
その八カ所とは観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島(みこもとしま)、剱埼(つるぎざき)、伊王島、佐多岬、潮岬です。
1869年(明治2年)4月に樫野埼灯台とともに着工し、翌1870年(明治3年)6月10日に完成、仮点灯で業務を開始したのでした。
樫野崎の灯台は、串本町の紀伊大島にあるものです。
明治二十三年西暦一八九〇年かの小泉八雲が日本にやってきたのと同じ年の秋に、日本では大きな海難事故がありました。
オスマン帝国の親善使節が、軍艦エルトゥールル号に乗って、日本の横浜にやってきていました。
明治天皇に親書を奉呈して九月一五日、エルトゥールル号は次の寄港地神戸に向けて出航しました。
ところが、急に風が強まり、夜には嵐になり、船のメインマストが折れて、和歌山県串本の紀伊大島沖に流されてしまいました。
そこは船甲羅と呼ばれるごつごつした岩礁があり、昔から船の難所と言われていたところです。
エルトゥールル号は座礁し、水蒸気爆発を起こし、大爆音とともに沈んでしまいました。
船から投げ出された人々は、真っ暗な岩場の海を、傷を負いながら、この樫野崎の灯台の明りを頼りに岸まで泳いだのでした。
そこで、二名の灯台守は、早速、応急手当てをし、すぐに紀伊大島の樫野区長や大島村の沖村長へ連絡をしました。
沖村長が陣頭指揮を執り、村人総出で、衣類を持ち寄ってトルコの人々を着替えさせ、自分たちの大事な食料を提供したのでした。
一昼夜の間に、村長はじめ、村人たちは国籍を問わずに懸命に救助活動を行ったのでした。
おかげで六十九名の方が助かりました。
残念ながら多くの人は亡くなりましたが、村の人たちは丁重に弔いました。
六九名の負傷者は、日本の軍艦、比叡と金剛に乗って、無事に本国へと帰ることができたのでした。
その年に日本を訪れた小泉八雲は、当時の日本人について、次のように記述しています。
『日本の面影』(角川ソフィア文庫)にある池田雅之先生の訳を引用します。
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。」
というのです。
周囲の人たちが幸福になることが、喜びだと感じているということに、ラフカディオ・ハーンは驚いたのでした。
このことがトルコの国では語り継がれていました。
この事故から九十五年の後の一九八五年、イランイラク戦争の最中、イラクのフセイン大統領が、「今から四八時間後に、イラン上空を飛ぶ飛行機は、すべて撃ち落とす」という意味の声明を出しました。
イラン在住の外国人は、母国からの救援機に乗って避難を始めましたが、当時の日本は法制上の問題もあり飛行機を出すことはできなかったのでした。
絶望しかけたとき、トルコの国が日本人の為に飛行機を出してくれたのです。
トルコの国では、エルトゥールル号遭難事故の時の恩を覚えていてくれたのでした。
灯台の明かりは海を行く船のために灯されます。
自分のためではありません。
そして遭難した人の命を救うこともあるのです。
そのためには、ずっと灯台の火を消さないように努める灯台守の存在があったのでした。
長崎県五島市の男女群島の女島にある女島灯台が最後の有人灯台で、2006年(平成18年)12月5日に無人化され、国内の灯台守は消滅しました。
高浜虚子に
霧如何に濃ゆくとも嵐強くとも
という句があります。
昭和二十三年十月四日、我国燈台創設八十年記念の為め、燈台守に贈る句を頼まれて、剣崎燈台に吟行して作ったそうです。
どんなに霧が濃くても嵐が強くても灯台の灯火を消さない心が詠われています。
灯台守という役目の人はいなくなりましたが、こんな灯台守の心は失いたくないものです。
横田南嶺