自我はなくなるか
もうすでに、第七回まで継続してきています。
第六回が「舎利子」という三文字について解説しているものです。
こちらのYouTubeチャンネルではコメントが書けるようになっています。
皆様のお声を聞くことができるのは有り難いことです。
「舎利子」の回についても、
「様々な事に、気付かせて頂き、考えさせて頂けたお話でした。ありがとうございました。次回、楽しみにしております」
とか「禅文化研究所の書籍は、山田無文老師のご著書など改めてじっくり読みたいですね。ご紹介ありがとうございます。」
とか有り難いお言葉をいただいています。
そのなかに、次のようなお言葉をいただいています。
「[自我]は、ヒトに限らず 全ての生きとし生けるものが持っている、というのがわたくしの考えです。むろん植物も含みます。まず、これについてお考えをお聞かせください。
次に「自我への執着」「自我への過剰な執着」と言われましたが、何を基準に[過剰]を決めておられるのでしょうか? わたくしは、ヒト以外の生きものたちには[過剰な執着]はない、と考えておりますが・・・」
という言葉であります。
この方のご指摘の通り、自我というのは、生きもの皆がもっているものであると思います。
まずこういう問題について考えるときには、その言葉の意味をはっきりさせておかないといけません。
そもそも「自我」とはいったい何でありましょうか。
『広辞苑』には、
「①〔哲〕認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語。
時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識していると見なされることが多く、身体をも含めていう場合もある。
②〔心〕
㋐意識や行動の主体を指す概念。
客体的自我とそれを監視・統制する主体的自我とがある。
㋑精神分析の用語。
イドから発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする、パーソナリティーの側面。エゴ。」
という意味が書かれています。
「我」とは何か、岩波書店の『仏教辞典』には詳しく解説されています。
「原語の<アートマン>はドイツ語のAtem(アーテム動詞形atmen)と同じく、もと気息、呼吸の息を意味し、生気・本体・霊魂・自我などを表す。
インドの諸哲学が個人をさらに掘り下げて、常住・単一・主宰のアートマン(我)を最重視し、それをめぐって展開するのに対して、仏教はそのような<我>は否定し、我・自我そのものを諸要素の集合と扱う。
すなわち、いろ・かたちある物質的なもの(色(しき))、感受作用(受(じゅ))、表象ないしイメージ(想(そう))、潜勢的で能動的な形成力(行(ぎょう))、認識作用(識(しき))の五つの集まり(五つのおのおのもやはり集まりから成る)による五蘊(ごうん)説と、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六入(ろくにゅう)説とが特によく知られる。」
と解説されています。
「自我」を『広辞苑』に説かれているような、「認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語」として受けとめるならば、自己を外界の対象や他人と区別するはたらきというのは、誰しも持っているものであります。
生きものすべて具えているはたらきであります。
自分を外界の対象と区別するのは、皆持っているものです。
細胞は自己と非自己を認識するようになっています。
免疫のはたらきなどは、まさに自己と非自己を認識して生じているはたらきです。
自己と非自己を認識して、自己でないものを攻撃しようとするはたらきがあるから生きていられるのです。
こういう意味での自我は誰しも持っているものです。
『仏教辞典』では「常住・単一・主宰のアートマン(我)」という解説がなされています。
常に変わらずに存在し続けているものであり、それ自体、単一で成り立つものであり、他からの支配を受けないで、主宰となるものを「我」というのであります。
仏教でいう「我」の否定は、常に変わらずに存在し続けるものはないという意味です。
常に変化してゆくものだというのが真理です。
いろんな諸要素が集まって現れるのだと説いています。
お互いに関わりあい、関係しあって成り立つものだというのです。
そういうことが、「我」の否定であります。
『仏教辞典』では、更に「<我>はこのような諸要素より成り、<我>を実体視する立場はあくまで斥ける<無我>説が、仏教全般に一貫する。」と説かれているように、常に変わらない、単一で存在し、主宰となる我を否定します。
更に『仏教辞典』では、
「ただし最初期(釈尊のころ)の無我説は、我執を含むあらゆる執着からの解放を強調した。
同時に、<我>は<われ>としてあらゆる行為の主体・責任の所在であって、この場合は<我>が自己または主体性とみなされるところから、執着を捨て、とらわれることなく、種々の実践を果たす主体者として、きわめて積極的な意義を担う。」
と説かれています。
こういう解説を読みますと、仏教はやはり理論だけでなないのだと分かります。
哲学だけではなく、実践するものだということがはっきりします。
実践している主体としての「我」はあるのです。
更に「この立場により<自灯明、自帰依>(自らを灯明とし自らを依りどころとする)を強調する。」というのであります。
無文老師は
「法は縁に従って生じ、亦た縁に従って滅す、一切諸法は、空にして主有ること無し」という舎利子に示した馬勝比丘の言葉を用いて、
「この世の中の森羅万象は因縁という法によって動いていくのであり、一切は因縁によって動いていくのである 。
その因縁ということを釈迦牟尼はお説きになるのである」と説かれます。
更に
「しかもこの世の中は一切因縁によって動いていくのであるから、そこには自我というものはないのだ。我というものはないのだ。我というものがあると思うのは、因縁によって仮りに我という姿がそこに現われているだけである。
その仮りに現われている我は、毎日動いていく 変化をしていく我である。そこに絶対動かない自我というものはないのだ。
こう自分は悟ったのであると馬勝比丘に聞かされて、大いに感じさせられたのであります。」
と提唱されています。
そして「われわれは、自我があると思うから、そこに自我に対する執着がある。
自分をよいものにしようという努力があり、人に負けまいとする争いの心があり、ねたみの心がある。この世の中の多くの平和を乱すものは、皆この自我があるからだ。
罪を作ればその罪に執着し、裁かれる自己に執着し、神の前に出ても裁かれる自我を持っておる。
そこに人間の救われない悩みがある。しかし、自分というものはないものであると徹底するならば、この比丘のような穏やかな、平和な、和やかな気持ちになれるのだ。」
というように「無我」の道理を説いてくださっています。
「無我」の道理に目覚めて「穏やかな、平和な、和やかな気持ちになれる」「我」が実現すると言えます。
コメントにある「「自我への執着」「自我への過剰な執着」と言われましたが、何を基準に[過剰]を決めておられるのでしょうか?」
という問いについては、やはり自我の基本が、生命を維持するためにあると捉えています。
免疫というのは「自己」と「非自己」を生物学的に識別し、「非自己」からの攻撃を排除して「自己」の生命を維持する生体の働きをいいます。
これは生きるために必要なはたらきといえます。
生命を維持するために、必要な食べ物をいただかないと生きられません。
しかし、人間は生命維持だけではなく、必要以上にほしがる一面をもっています。
味覚を発展させたために、より一層味覚を刺激してくれるものを求めます。
生存に必要なもの以上を自分のものとしたがります。
生存に必要な最低限のものだけを所有して生きるのが、もともとの出家者でありました。
コメントの方が「わたくしは、ヒト以外の生きものたちには[過剰な執着]はない、と考えております」とおっしゃることは言い得ていると思います。
動物は自分に必要なものをいただいて暮らしているように見えます。
もっともいろんな例外もあることでしょう。
人間は所有の概念が強くなっています。
これも種の保持のために必要以上のものを、いざという時のために蓄えるということから出てきたのではないかと察します。
ともあれ人間は他の動物よりは所有の概念も強く、自我への執着も過剰になっていると思います。
そうかといって動物のようになれというのも難しいものです。
せめて自我への執着が苦しみを生み出しているのだという道理をよく観察して、執着が過剰にならないように意識して暮らすことが大事であります。
足るを知ると言いますように、これで十分ですと満足する心も大事にしたいものです。
コメントの方に対しての答えを整理しますと、自己と非自己を認識するという意味での自我のはたらきは、すべての生きものが持っているものです。
仏教で否定する自我は、常に変わらない、単一で成りたち、主宰となる存在です。
動物と異なり、生存に必要なもの以上に欲しがるのが人間であります。
どこからが過剰というのか、線引きは難しいのですが、生存に必要以上のものを欲しがり、蓄えることから始まっています。
生存に必要以上のものをすべて否定して生きるのは困難でありますが、せめて自分はこれで十分だと足るを知ることが大事だと思います。
横田南嶺