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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.04.02
今日の言葉

人生は苦

四月になり、円覚寺派の管長を務めて四期目に入ります。

本山によっては、管長は終身制のところもあるようですが、円覚寺では五年が一期であります。

候補者が一人しかいないと選挙をせずに管長に就任します。

早いもので、もう三期十五年管長を務めてきたのでした。

候補者を決めるのは、宗議会という円覚寺派の最高の決議機関で決められます。

もう十五年も務めて、そろそろお役御免でいいのではないかと思っていましたが、まだ隠居は早いということのようでした。

それで四期目に入ることになったのでした。

思えば管長就任して以来、今日まで怒濤のように仕事をしてきたように思います。

宗務本所の改築工事から釈宗演老師の百年諱、そして円覚寺の中興大用国師誠拙禅師二百年遠諱と務めてきました。

授戒会や報恩摂心、各所での展覧会も行いました。

関連して十冊近くの本も刊行してきました。

一連の行事が終わったところで、コロナ禍となり、その間はYouTube発信に力を入れてきました。

その間に、花園大学総長に就任し、更に禅文化研究所の所長にもなっています。

京都にも通っていて、我ながらよくはたらいています。

そうしているうちに、ついぞ忘れてきたのが、晋山式を行うことでした。

すでに私は歴住開堂という儀式を済ませていますので晋山の時には上堂となります。

晋山上堂をして法語を述べるのであります。

円覚寺住持の大事な務めでありますが、それどころではない状態でやってきました。

今やもう誰も晋山のことなど忘れ去られています。

大乗寺の河野老師だけは、晋山上堂を今も気にかけてくださっています。

有り難いことです。

そうして十五年も務めてくると、管長職も悠々としてこなせるかと思いきや、全然そんなことはないのであります。

寺にはいろんな問題を抱えており、日日無い頭を悩ませてばかりであります。

修行道場にもいろんな修行僧が見えるのでその対応にも苦労します。

大学の総長は名誉職なのですが、それでも大学の諸問題にも無関心ではいられません。

禅文化研究所も六十周年を終えたものの、苦労することが多いのです。

安穏な日というのは生きている限りはないのだろうかと思います。

ふと私が大学を卒業して、修行道場に出かける日の朝のことを思い起こしました。

まだ朝早かったのですが、師匠の小池心叟老師が玄関を出て門の外までお見送りくださいました。

そのときに「いいか、耐え忍ぶのですよ、修行とは耐え忍ぶことですよ、それしかありませんよ」と言って合掌して送り出していただきました。

そのお言葉とお姿は、私の修行時代を支えるものとなりました。

そしてあれからもう四十年近くなるのですが、今もその言葉が耳に響いてきます。

どんな立場になろうが、やはり修行であります。

そして修行とは耐え忍ぶことなのです。

円覚寺の釈宗演老師がお若い頃に、セイロンに行って修行なされるにあたって、師匠の今北洪川老師が、書き与えた法語が残されています。

東慶寺様にございます。

洪川老師は『羅云忍辱経』というお経の言葉を引用して、ただひたすら「忍」の一字を説いておられます。

『羅云忍辱経』はお釈迦様が、弟子であり、また実の子でもあった羅云ことラゴラ尊者に語った教えです。

お釈迦様は「忍」のすばらしさを説いて聞かせています。

「忍は安宅為り(堪え忍ぶことこそ安らかな家であること)」

「忍は良薬為り、能く衆命を済う(忍こそ良薬であり、多くのいのちをすくうこと)」

「忍は大舟為り、以て難きを渡るべし(忍は大きな船のように、困難な世の中を渡ってゆけるものであること」

「世は怙む所無し、唯だ忍のみ恃むべし(忍こそがこの世の頼りとすべきものであること)」などです。

その中に「忍を懐いて慈を行ずれば、世々怨み無し。中心恬然として終に悪毒無し」という言葉がございます。

自分の身に降りかかったことは堪え忍んで、むしろ自分に辛く当たる者こそ却って気の毒な者であると慈悲のこころで思いやれば、どんな目にあっても怨み心は起こらないし、心はいつも穏やかで、悪いことは起こらないという意味です。

『法句経』の第二二三番に

「なごやかさによりて、いかりに、
善きことによりて、善からぬことに、
慈恵ごころによりて、慳みごころに、
しかして真言(まこと)によりてのみ、
われら虚言(いつわり)の人に克つべし。」

という言葉もあります。

『羅云忍辱経』には、あるときにラゴラ尊者が、舍利子と共に町を托鉢していた時の話が説かれています。

そのときに暴漢に襲われてラゴラ尊者が怪我をしてしまいました。

先輩に当たる舍利子はラゴラに、仏弟子たるものは如何なることも堪え忍び決して怒りをいだいてはならぬと説き聞かせます。

ラゴラ尊者も普段お釈迦様の教えを学んでいますので、「はい、このような痛みは一瞬のものです。むしろ彼の方が長く苦しむことになるでしょう、気の毒なのは彼の方です。」

と答えます。

お釈迦様の元に帰った二人は、その出来事を報告します。

決して怒らず堪え忍んだラゴラ尊者をお釈迦様もお褒めになったのでした。

生きている限りはいろんなことがあるものです。

そう思って毎日取り組んでゆくばかりであります。

まずは元気でいられることには感謝であります。

 
横田南嶺

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