新年度
新年度であります。
本日は花園大学の入学式で、早朝から京都に出向いています。
大学では新入生を迎えます。
寺の幼稚園では、新しい入園児を迎えます。
修行道場には、新しい修行僧を迎えます。
会社では新入社員を迎えるのでしょう。
お正月も新しい年を思うのですが、新年度は、より一層新しい始まりを思います。
今月の掲示板には、次の詩を書きました。
坂村真民先生の詩であります。
総門の下には、
すべての花が
すべての花が
すべて自分の花を咲かせている
そして花たちは
すべての人に告げている
どうかあなた方も
自分の花を咲かせて下さいと
と書きました。
この詩はもっと長いのです。
全文は
すべての花が
すべて自分の花を咲かせている
そして花たちは
すべての人に告げている
どうかあなた方も
自分の花を咲かせて下さいと
花博の花よ
ありがとう
そう言って
花たちに別れてきた
この詩の前半を書いたのでした。
後半に花博という言葉があります。
花博というと、もう懐かしい言葉ですが、平成二年大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」のことであります。
坂村真民全詩集第六巻にある詩であります。
こんな詩を調べていると、その後に花を詠った詩がふたつ続いていることに気がつきます。
花たち
なぜに長生きしたいのか
花たちに会うためだ
花は
花嫁のように
いのちに満ち
ひかりに溢れ
わたしを若返らせ
わたしを幸せにしてくれる
花に会うために長生きするという真民先生のお心が分かります。
花博の当時は八一歳の真民先生であります。
その次には、
花たちのこえ
一応世界の花たちに
会ってきた
ゆきづりの旅人の
ほんのひとときの
ほんのひとめの
会いだったけれど
それでもわたしには
うれしくて忘れ難い
よろこびであった
いまのわたしには
人に会うより
花たちに会うのが救いになる
しんみんさんに会うため
やってきましたという
花たちのこえが聞こえ嬉しかった
という詩であります。
花博で花たちと語り合っている真民先生のお姿が思い浮かびます。
同じ第六巻には、
「生きることは」という詩があります。
生きることは
自分の花を咲かせること
風雪に耐え寒暑に耐え
だれのものでもない
自分の花を咲かせよう
生きることは
神仏の使命を果たすこと
生まれてきた者には
必ず何かの使命がある
それを見出して
為し遂げよう
生きることは
光を見出すこと
この世は決して闇ではなく
必ず光が射してくる
そのことを信じ
勇気を出していこう
生きることは
愛に目覚めること
人を愛し
世を愛し
万物を愛し
二度とない人生を
愛の心で包んでいこう
生きることは
有り難いこと
生かされて生きる
不思議を知り
すべてに感謝し
手を合わせてゆこう
という詩もあります。
ついでに「生きることとは」という詩が、第三巻にあります。
生きることとは
生きることとは
愛することだ
妻子を愛し
はらからを愛し
おのれの敵である者をも
愛することだ
生きることとは
生きとし生けるのものを
いつくしむことだ
野の鳥にも草木にも
愛の眼を
そそぐことだ
生きることとは
人間の美しさを
失わぬことだ
どんなに苦しい目にあっても
あたたかい愛の涙の
持ち主であることだ
ああ
生きることとは
愛のまことを
貫くことだ
という詩であります。
それから、黄梅院の掲示板には
「生きてゆこう」という詩から、そのはじめの部分を書きました。
絶望から希望へ
闇から光へと
自己を変えて
生きてゆこう
という短い言葉です。
掲示板は通ってゆく人に見てもらうので、こういう短い言葉がいいと思ったのです。
新しい年度が始まりますので、自己を変えて新しい自分となって生きてほしいという願いであります。
この詩はもっと長いものです。
絶望から希望へ
闇から光へと
自己を変えて
生きてゆこう
自分の力は微々として弱いが
宇宙の無限の力を借りて
この乱世を
生きてゆこう
世はすべて金、金、金
そうした祖国にあって
菜根を口にし
生きてゆこう
机の上には
小さい円相石があり
わたしに言う
もうすぐ新しい時代が来るのだ
みんなが楽しく生きてゆく
新しい人間の時代が来るのだと
それを信じて
生きてゆこう
という詩であります。
菜根を口にして生きてゆこうというところに、真民先生の具体的な生活が現れています。
そのあとには、「これでよいのか」という詩があります。
これでよいのか
これでよいのかと
いつもわが身に問うて
お釈迦さまの教えに
はずれぬよう
生きてゆこう
これも大事にしたい心であります。
真民先生は、生涯「これでよいのか」「これでよいのか」と問い続けられたのであります。
第六巻には、「眠りたがらない体」という題の詩がありました。
こんな詩であります。
目を覚ますと
まだ十一時である
心はもう一時間眠れという
だが体はすっかり覚めて
もう起きろという
この眠りたがらない体が
わたしに仕事をさせてきた
詩国賦算ができるのも
こうした体のゆえんである
せつないような気もするが
ありがたい体だと感謝し
招喚と決め起床する
この「眠りたがらない体」というのは私も実感します。
真民先生は退職なされてからは夕方にはお休みになって夜中の十二時に起きられていました。
私は夕方に寝るわけにはいきませんので、それでも三時には起きるのですが、いつも三時前には目が覚めています。
修行道場では時に朝のお勤めがお休みになる日もあるのですが、私の方はというと、長年の習慣で三時前には起きています。
この眠りたがらない体になっているのは実感するのです。
特に先日金時山にはだしで登って帰ってくると、しばらくは本当に眠りたがらないというのがより一層強く感じました。
体の全細胞が活性化したような思いなのです。
足裏や足の指のマッサージや刺激を与えることはよくやっていますが、せめて十数分のことであります。
山に登ると、三時間から四時間はだしで登っていますので、足の裏を刺激し続けているのです。
手の指先まで血流が行き渡っているのを感じたのであります。
今年度も精進して参ります。
横田南嶺