挨拶
挨拶といっても、道で出会って「おはようございます」とか「こんにちわ」、「いいお天気ですね」というくらいの挨拶ならいいのですが、いろんな会合で挨拶をするというのは難しいものです。
今も苦手であります。
そもそも挨拶とは何かを『広辞苑』で調べるといろんな意味があります。
①〔仏教語〕禅家で、問答を交わして相手の悟りの深浅を試みること。
②うけこたえ。応答。返事。
③人に会ったり別れたりするとき、儀礼的に取り交わす言葉や動作。
④儀式・会合などで、祝意や謝意、親愛の気持、あるいは告示などを述べること。また、その言葉。
⑤(「御―」の形で)相手の挑発的な、礼を失したような言動を皮肉っていう語。
⑥仲裁。仲裁人。
⑦紹介。紹介者。
⑧人と人との間柄。交際。
というたくさんの意味があります。
私が苦手だという挨拶は、四番で、「儀式・会合などで、祝意や謝意、親愛の気持、あるいは告示などを述べること。また、その言葉。」です。
朝の「おはよう」などは、三番の「人に会ったり別れたりするとき、儀礼的に取り交わす言葉や動作。」です。
しかし、注目すべきは、一番に仏教語として「禅家で、問答を交わして相手の悟りの深浅を試みること。」という意味があることです。
もともとは禅の言葉から来ているのです。
『碧巌録』に「一挨一拶」という言葉があります。
第二十三則の垂示にある言葉です。
「一言一句、一機一境、一出一入、一挨一拶、深浅を見んと要し、向背を見んことを要す。」
という言葉があります。
山田無文老師は、禅文化研究所の『碧巌録全提唱』の中で、次のように提唱されています。
「ところで雲水を試験していくのには、雲水が吐いた一言一句で、ホンモノかニセモノか、悟ったか悟らんかを見分けていかねばならん。
一機一境、機ははたらき、境は境界である。
衲僧のはたらきや境界も、ホンモノかニセモノか見分けていかなければならん。
一出一入、その挙措進退、出たり入ったりの行動も、真箇力があって出て来たのか、見分けていかねばいかん。
一挨一拶、いわゆる挨拶であるが、埃は迫る、拶は切り込む。
問いをもって相手の力量を試みることである。
一言の挨拶の中に肚の中まで見通していかねばならんが、それはいったい何を規準にしたものか。」
というのであります。
「挨拶」について「埃は迫る、拶は切り込む。問いをもって相手の力量を試みることである。」と説かれています。
会合などで挨拶をすると、それだけで、聞いている人には、挨拶をしている人の力量が試されているようにも感じます。
挨拶はおろそかにはできません。
油断ならぬものであると思っています。
よく先代の管長がおっしゃっていたことがあります。
アメリカのウィルソン大統領が
『2時間の講演なら、いますぐにでも始められるが、30分の話だと、そうはいかない、2時間くらい用意の時間がほしい、3分間のスピーチなら、すくなくとも一晩は準備にかかる』と言ったそうです。
ウィルソン大統領はアメリカ歴代の大統領の中でももっとも演説がうまかったと言われる方であります。
短い挨拶ほど難しいのです。
先代の管長はこの言葉をよくおっしゃっていました。
三分の挨拶を作るには、もっと時間がかかるというのでした。
実際に先代の管長のお供をしていると、その会合で挨拶をなされるのに、何度も原稿を書き直し、そしてホテルの中でも繰り返し練習をされていました。
実際にやってみて何分で終わるのかも慎重に稽古されていました。
私も挨拶には原稿を書くようにしています。
先代の管長からは、言葉を出来る限り厳選し、無駄な言葉を省いて三分から四分で終わるように教わったものです。
特に無駄な言葉を入れるなとは厳しく言われたものです。
わずか三分から五分で大事なことを伝えるのだから、いらないことは省けというのです。
たとえばはじめに「えー」などというと、それは余計だと言われました。
「えー」とか「あー」とはいりません。
それから「ご指名によりまして」なども指名されたから挨拶するので当たり前なのだからいらないというのです。
「はなはだ僭越ですが」という言葉も、本当に僭越だと思うのなら出て来ないのだと言って不要とされていました。
「高いところから失礼します」も、失礼だと思うなら下に下がれといって、これも不要ということでした。
そして大事なことだけをしっかり伝えるようにと教わったのでした。
先日の林昌寺の野田晋明和尚の結婚式でも主賓の挨拶を頼まれると、その時から何をどのようにしゃべればいいのか、考え始めます。
まず構成を考えるのです。
法話でもなんでも構成が大事です。
よく起承転結と言われますが、出だしをどのようにして、話をどう転回させて、最後にどう落ち着けるかを考えます。
結婚式でありますから、起承転結の「起」、出だしは、お祝いの言葉でいいのです。
お二人とそしてご両家にお祝いの言葉を述べればそれで話の始まりになります。
それから起承転結の「承」でそれを受けて話を発展させます。
今自分はここで挨拶をしていますし、午前中は結婚式の戒師も務めさせてもらいました。
それはどうしてなのかを話したのでした。
妙心寺派のお寺ですし、円覚寺で修行された訳でもないのに、なぜ私が今ここで挨拶をするようになったのか、いきさつを話しました。
それはまず野田和尚との出会いであります。
龍雲寺の法話会で私の前に法話をしてくださったこと、それが初めての出会いだったこと、そしてその法話が実に素晴らしかったこと、聡明な方だと感じたことを話しました。
新婦の方とも琉球大学医学部の学生としてご縁があったこと、とても熱心で聡明な方だと思ったことを、話をしたのでした。
これが起承転結の「承」であります。
ここでお二人とも聡明な方だということを強調しました。
起承転結の「転」では話をガラッと変えるのです。
この転回は大きければ大きいほど効果があります。
私は鎌倉の詩人高見順さんの詩をいきなり紹介しました。
「鎌倉の詩人高見順さんの詩の一節を思い起こします。
高見順氏が新聞配達の少年を見て作った詩に、
なにかおれも配達しているつもりで/今日まで生きてきたのだが/人々の心に何かを配達するのが/おのれの仕事なのだが/この少年のように/ひたむきに/おれは/なにを配達しているだろうか
という一節がございます。」
というように、いきなり関係もないような話に展開させます。
そして起承転結の「結」、結びに、
「人の心に何かを配っていくということは私どもも僧侶の務めでもあろうと存じます。
どうか、これからお二人の聡明な智慧を、そして暖かい慈悲の心を、広くご縁のある方々に配っていただけますようにお願いします。
お二人がお力を合わすならば、日本の仏教界も、いや日本の未来も明るいと感じるのであります。」
と結んだのでした。
こうして毎回の挨拶は、公案を工夫するように時間をかけてあたためてつくりあげてゆきます。
それだけに終わったあとはホッとするものであります。
横田南嶺