初発心
「初発心」という言葉は『広辞苑』にも出ています。
仏教語として「(発心は発菩提心の略)
初めて悟りを求める心を起こすこと。」
と簡潔に説明されています。
するとなんと『広辞苑』にも「初発心時便成正覚」という言葉が出ていることが分かりました。
こんな長い仏教の言葉が出ているとは驚いたのでした。
『広辞苑』には
[華厳経(梵行品)]
悟りを求める心をはじめて生ずるとき、ただちに最高の仏の悟りを完成すること」
と解説されています。
簡潔ですが、これだけでは分かりづらいので、岩波書店の『仏教辞典』に聞いてみます。
「初めて発心する時、便(すなわ)ち正覚を成(じょう)ず」と読み、
新たに悟りを得ようとする心を起すとき、ただちに仏の正しい悟りを完成する、の意。
華厳経梵行品に出ることばで、初発心の境位が本質的には仏の境位に等しいことを端的に示したものとして名高い。
この思想は、華厳宗においては法界縁起思想の一つのよりどころとなり、また<信満成仏>(信が確立するときに仏となる)の説を成立させるが、他方、とくに東アジア仏教の中に、着実・綿密な修行を軽視する一般的傾向も生み出した。」
と解説されています。
初めて仏道を実践して仏になろうという心を発したとき、仏の悟りは成就しているというのです。
こんな教えが後に、あなたの心がそのまま仏であるという禅の教えに発展していったものと思います。
仏とは何かと問われると、その質問する心が仏だと示したのです。
「初心」というと、『広辞苑』には、
「①学問・芸能の学びはじめであること。また、その人。初学。
②仏道に入ったばかりであること。また、その人。
③まだ物事に馴れないこと。世馴れないこと。うぶ。未熟。
④初めに思い立った心。初一念。」
という意味が書かれています。
もっとも芸事などでは、初心がそのまま完成した姿だとは言い難いところでしょう。
それでも初心というのは尊いものであります。
坂村真民先生の詩を思います。
初めの日に
その一
なにも知らなかった日の
あの素直さにかえりたい
一ぱいのお茶にも
手を合わせていただいた日の
あの初めの日にかえりたい
その二
慣れることは恐ろしいことだ
ああ
この禅寺の
一木一草に
こころときめいた日の
あの初めの日にかえりたい
美しい眺め
あたまをきれいに剃った
まだ十六ぐらいの雲水さんが
袖なしをつっかけただけの姿で
お経を一心に唱えながら
夕暮れの鐘を撞いている
まだお経をはっきり覚えていないのか
片手に経本を持ちながら
たからかにお経を唱えている
なんという無心の美しい姿であろう
掃き清められた広い庭に
はらはらと松の葉が落ちる
そのかすかな音さえ
しみるような夕暮れ
わたしはしみじみと
身も心も洗われてゆく思いがした
という二つの詩などは、初心の美しさをよく詠っています。
またこんな詩も残されています。
初々しさ
初咲の花の初々しさ
この一番大切なものを失ってしまった
わが心の悲しさ
年々歳々花咲き
年々歳々嘆きを重ね
今年も初咲きの花に見入る
初心を失ってしまった自分自身を恥じているのであります。
「初心忘るべからず」とはよく知られた言葉であります。
「学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。
常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意。」
と『広辞苑』では解説されています。
世阿弥の『花鏡』という書物にある言葉です。
『花鏡』とは、
「世阿弥の能楽伝書。
1424年(応永31)完成。
芸の習得上の心得や理想とする芸境を説き、生涯を通じての稽古の重要性を述べる。
「奥段」の「初心不可忘るべからず」論が有名。」
と解説されています。
『花鏡』を読んでみると、この初心も三つに分けて説かれています。
「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。」。というのであります。
「若年の初心を忘れずして、身にもちてあれば老後にさまざまの徳あり。」
と書かれていて、若い頃の未熟だった自分を忘れずにいれば、年を取ってからもいろんな徳が身についてくるというのです。
それから「時々の初心忘るべからず」
というのは「初心より年盛りの頃、老後に至るまで、其の時分時分の芸曲の、似合ひたる風体をたしなみしは、時々の初心なり。」
と説かれています。
初心の頃から壮年から老年に至るまで、その時その時に於いてふさわしい芸を習得するように心がけることであります。
常に精進を怠らずに芸を磨くことであります。
「老後の初心忘るべからず」
とは「命には終わりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、又老後に風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり。」
と説かれています。
先ず人間の生命にはいつか終りがきます。
しかし、能に於ては終わりはないというのです。
どこまでも進歩し深めていってその年齢に応じた能を、一体一体と習いつづけてゆきます。
そして老後に到っても、老後の年齢にふさわしい風を習うというのです。
お能や芸を仏道にあてはめても同じことであります。
命に終わりがあっても仏道に終わりはありません。
初心の未熟なことを忘れはなりませんし、初発心が正覚といいながらも、やはりそのままで安住していては空理空論に堕してしまいます。
経典を読み、祖録を学んで修養していくことはどこまでも終わりがありません。
年齢相応に深めてゆくことが大事であります。
そしてまた老境にあっても怠ることがないようにしたいものです。
世阿弥は「五十余よりはせぬならでは手立てなしと云へり」と述べています。
「せぬ以外に方法はない」というのです。
何をしないかというと、能においては技巧に走ることではないかと察します。
十分に技が身についているので、もうなにもことさらに演じようとしないことだと思います。
禅でいうならば「造作をしない」ことに通じると思います。
「せぬならでは手立てなし」が老後の初心だと説かれますと、これは益々奥が深いと感じました。
初心忘るべからずですが初心は侮るべからずでもあります。
横田南嶺