イス坐禅深まる
先日いつものように都内の会議室を借りてイス坐禅の会を行いました。
毎回定員の五十名は満席で、常連の方がほとんどなのであります。
数名初めての方もお見えくださっています。
毎回参加してくださる方が多いので、いろいろ毎回趣向をこらすように務めています。
いろいろ行っていますものの、基本は
一、首と肩の調整
二、足の裏、足で踏む感覚
三、呼吸筋を調整
四、腰を立てる
の四つを行うのです。
毎回五十分ほどかけて体をほぐして調えて十分の坐禅なのであります。
そうしますと心地よくてもっと坐っていたいと感じるものです。
この「もっと坐っていたい」という気持ちが、日常を禅の暮らしに近づけていく大事な点であります。
意欲や衝動が人を内面から変化させてくれると思っています。
肩の調整については新たに学んだことを取り入れながら、ほぐしてゆきます。
その日は日中二十度を超える暖かさで、肩を動かしていると、汗ばんでくるほどでした。
首と肩を調えて、そのあとは足首、足指、足の裏を入念に調整しました。
いつもの足首まわしから、足の指を一本一本丁寧にまわして、指と指の間もよく開くようにして、指と指の間、付け根、土踏まずを丁寧に手の指で押して揉んでゆきました。
拇指球、小指球と踵をよく意識してもらいます。
踵だけで床を押してみたり、拇指球小指球だけで床を押したり、拇指球だけで押してみたり、小指球だけで押してみたりと床を押す感覚を味わってもらいました。
それから呼吸筋の調整はいつもの通りであります。
いつもの通りの調整で肺が大きくなったように感じられ、自分が呼吸していることを実感できるようになります。
最後にはいつもの腰を立てる動きをやって坐るのであります。
今回はタオルではなく、日本手ぬぐいを使って肩をほぐす運動を行いました。
先日ハワイに行った折に、タオルがなくて日本手ぬぐいならあるというので、現地で日本手ぬぐいを使って、いつものタオル体操を行っていました。
その時にあれこれと工夫して思いついたことがありました。
日本手ぬぐいを足首の少し上に巻いて軽く縛って坐ってみたのでした。
これが実に心地よく、そして足の方に自然と意識が向いていって安定感が上がるのでありました。
これはいいと思って今回のイス坐禅で初めて皆さんで試してみました。
要領は日本手ぬぐいの斜め端を持って、足首の少し上あたりに巻いて軽く縛るのです。
足と足の間は、拳一つか二つか腰幅にします。
両足を締め付けないようにするのがコツです。
ふわっと足首の上に、日本手ぬぐいが触れているだけという感じでいいのです。
こういうところに人の性格が出て、きつく縛らないと気が済まないという方もお見受けしました。
日常もきちんとしていらっしゃるのだろうと思います。
ただここはゆるやかにするのが大事です。
結び目はしっかりしていていいのですが、包みこむようにします。
そうしますと日本手ぬぐいが足元にあることで、足に意識が向きます。
ふだんよりも一層足で踏む感覚がはっきりとします。
そのために安定感が増すのです。
足に意識がゆきますのでその分、頭の思考が減ります。
また上体の力も抜けます。
これはとても安定して心地よく坐れました。
皆さんも満足しておられたようでした。
二回目の坐禅の時にはご自由にしてくださいと申し上げましたが、みなさんが足に巻いて坐ってくれていました。
いつも熱心に参加してくださるホトカミの吉田亮さんもとても安定して坐れると感想を述べてくださいました。
またすぐにnoteにも投稿してくださっていました。
そこには、
「今日は特に丁寧にほぐしたので、座りの安定も違いました。
足の裏から膝、太もも、腰、お腹や背中から最後に肩、首、頭の上まで、身体全身がつながっている感覚になりました。」
と書いてくださっています。
ちょっとした縛りを入れることで下半身が安定することがわかりました。
坐禅の時には結跏趺坐をしますが、あれは自分の足で縛っているようなものです。
その縛りが安定感をもたらすのだと思いました。
イスで坐るとどうしても足が床に着くだけですので不安定なのです。
それを払拭するのに日本手ぬぐいはとてもいいと感じました。
ヒモトレの理論の応用でもあります。
その後の話では、前回の質問でいただいた、
自分の坐禅が進歩しているのを判断する物差しはあるかという問いと、坐禅中に雑念が頭に浮かんでしまった時どうしたらよいかという質問にお答えすることから始めました。
結論は坐禅には何の評価もないのです。
何年やれば何級や何段になるというものではありません。
また雑念がないのがいい状態と考えるのも問題なのです。
そこで進歩してどこに行くのか、ハワイで見た亀の話をしました。
亀が砂浜に休んでいました。
何をしているのかとずっと見ていました。
別段なにをしようとしているわけではありません。
早く走ろうと努力しているのではないのです。
強いて言えば、ただ亀は亀をしているのです。
亀は亀であるのです。
坐禅もそうなのです。
自分が自分をしているのです。
これをありのままといい、馬祖禅師は平常といい、臨済禅師は無事と言いました。
合わせて「平常無事」とも言います。
それは造作すること、趣向することを否定します。
なにかことさらなことをする必要はないのです。
何かを目指すこともないのです。
心を澄ませようとか雑念を無くそうというのは造作なのです。
臨済禅師は無用な作為だと説かれました。
どだい雑念を無くそうと思うことが雑念なのです。
ちょうど波打ち際で、この波を止めようと思うようなものです。
寄せては返す波は大自然の営みなのです。
念が浮かんでは消えるのは、空に雲の浮かぶようなものだと古人は説かれています。
雲が浮かんでは消えるというのが大自然の営みであるように、雑念が湧いては消えるのもまた大自然の営みです。
その様子をただ波打ち際で寄せては返す波を見つめるようにただ見ているだけでいいのですと申し上げました。
雲の上には晴れ間が広がっています。
坐禅は、今ここに坐っていること、今息をしていること、今生きていることを実感して、それ自体の不思議に浸っているだけなのです。
そう感じてもらうために呼吸を感じられるように呼吸筋を調えたりしています。
そんな話をして後半の坐禅も行いました。
足に巻いた手ぬぐいの効果なのか、私はいつものイス坐禅よりもどっしり安定して足がしっかり感じられて心地よく坐れました。
最高のイス坐禅になったという感想もいただきました。
これも皆様のおかげで参究した結果、イス坐禅も一層深まったのでした。
横田南嶺