臨済禅師の居眠り
『臨済録』にも、臨済禅師が禅堂で睡っていたという話があります。
岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「師が僧堂の中で居眠りしていた。黄檗がやって来て、それを見ると、拄杖で木版を一打ちした。師は頭を挙げて、それが黄檗であると知ったが、また眠った。
黄檗は、木版をもう一打ちしてから、上の席の方へ行って、首座が坐禅しているのを見て言った、「下の席の若僧がよく坐禅しているのに、お前はここで妄想ばかりしているとはなにごとだ。」
首座は切り返した、
「このおやじめ、なにをつまらんことを!」
黄檗はまた木版を一打ちして立ち去った。」
という話であります。
臨済禅師の修行時代のことです。
臨済禅師は、居眠りしていました。
そこに黄檗禅師が入ってきました。
臨済禅師の目を覚まさせようとしたのか、木板を打ちました。
ハッと目が覚めた臨済禅師は、黄檗禅師がやってきたのに気がついたのですが、また睡ったというのです。
普通であれば、老師がお見えになると、しっかり坐ろうと思うものです。
これはどういうことでありましょうか。
更に不思議なことは、黄檗禅師が、しっかりと坐禅している首座に向かって、臨済はよく坐禅しているのに、妄想ばかりしてと叱ったというのです。
しっかり坐禅しているのが褒められて、睡っているのがしっかり坐れと叱られるのなら分かりますが、その逆であります。
これは馬祖禅師の教えを学ぶと分かります。
馬祖禅師の言葉に次のようなのがあります。
禅文化研究所の『馬祖の語録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照します。
「道は修習する必要はない。
ただ、汚れに染まってはならないだけだ。
何を汚れに染まるというのか。
もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。
もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。
何をあたり前の心というのか。
ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。
経に言っている、『凡夫の行でもなく、聖人賢者の行でもない、それが菩薩行である』と。
今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」
という言葉です。
またこういう言葉もあります。
「あらゆる法は全て仏法であり、様々な法そのものが解脱である。
解脱は即ち真如に他ならず、様々な法は真如の外に出るものではない。
日常の挙措動作は、どれもこれも思慮を絶した働きであって、特定の時期に枠づけられてのものではない。
経に言っている、『ありとあらゆる処に仏は遍満している』と。」
という教えであります。
生きとし生けるものは皆仏の心を持っているという教えは大乗仏教にもとからあったものです。
『華厳経』の「初発心時便成正覚」や、『法華経』があらゆる者はみな仏になれると説いた教えがもとになって、みんな仏になる種を本来宿しているという教えになったものだと察します。
如来蔵ともいいます。
仏心、仏性を宿しているのです。
そこから馬祖禅師は、己の心が仏であるから、あらゆる営みは皆仏の営みだという教えに発展させました。
この現実にはたらいているありのままの心が仏であると説いたのでした。
現実の心は煩悩にまみれていて、それを修行によって清らかにしていくという教えではないのです。
馬祖禅師は仏になろうと趣向することを否定しました。
何かを目指そうとすることが迷いなのだというのです。
こういう教えはすでに『大乗起信論』にも見られます。
『大乗起信論』に「迷人は方に依るが故に迷うも、若し方より離るるときは、則ち迷うことあること無し」とあります。
道に迷うというのは、どこどこに行こうと方角を立てるからなのだというのです。
おもしろい発想です。
確かにどこかに行こうとするから、道に迷うということが起きるのです。
仏になろうと方向付けることが迷いなのだというのです。
馬祖禅師は、仏になろうと何かすることも否定しました。
『馬祖の語録』にも
「本来有るものが今も有るのだから、修道や坐禅は必要がない。
修道もせず、坐禅もしない、これが如来清浄禅に他ならない」
という言葉があるのです。
こうしてみると、首座がしっかり坐禅していたというのは仏になろうと努力していたのであります。
しかし、それは馬祖禅師から言わせると、仏を目指そうという趣向であり、仏になろうとする造作であり、迷いを捨て悟りを得ようという取捨なのです。
それは否定されるべきものなのです。
逆に臨済禅師が睡っていたというのは、
「今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」ということであり、
「日常の挙措動作は、どれもこれも思慮を絶した働きであって、特定の時期に枠づけられてのものではない」仏の営みなのです。
そのように見て取ることができます。
時代が下がって日本の盤珪禅師に、睡っている僧を、ある僧が叩いたのに、叩いた方の僧を叱ったという話があります。
こころよく寝ている僧をなぜ叩くのかというのです。
盤珪禅師からみれば皆仏心を具えたすばらしい存在なのです。
睡ったからといって仏心が別のものになるわけでも失われるわけでもないのです。
睡れとすすめはしないけれども睡ったからといって、叩いたりしかったりすることはないと説かれました。
仏になろうと思って精を出して坐禅したり、睡ったら叩くというのは錯まりだと説かれました。
みな仏心を持っていて常に仏心なのですから、睡れば仏心で睡っているというのです。
起きればまた仏心なのです。
常が仏心なのだと説かれたのでした。
仏になろうとするより、仏でおるのがよいというのが盤珪禅師のお示しです。
そのようにみてゆくと、この臨済禅師が睡っていたのが褒められ、しっかり坐っていた方が叱られるというのは理解できます。
しかし、そうかといって、こういう教えに触れると人間はついつい楽な方へと堕落してしまう可能性があります。
馬祖禅師も「今もし以上の道をまっとうに見て取ったら、余計な仕業をやらかすこともない。 あるがままの在りようで日を送り、衣一枚での起居三昧。 戒行は自ずと身についてゆき、清浄な行為が積み上げられてゆく。もしこのようにやってゆければ、どうして道に通じないと心配する必要があろうか。」と説かれています。
馬祖禅師や盤珪禅師などは、心がそのまま仏であると気がついて、余計な造作をしなくても「戒行は自ずと身についてゆき、清浄な行為が積み上げられて」いったのでしょう。
ただ教えだけ鵜呑みにして居眠りばかりしていては困りものであります。
横田南嶺