臨済禅師の坐禅
はじめの二十五方便などは、よく整理されたものです。
はじめに五つを調えます。
生活においてよい習慣を身につける。
着る物、食べるものなど生活の環境を整えること。
煩わしいところから離れて静かなところにいること。
世間のしがらみや情報過多の状況から離れること。
よき指導者を得ること。
それから五欲を離れます。
目を刺激するものから離れること。
耳を刺激するような音から離れること
鼻を刺激するような香りから離れること。
味覚を刺激するようなものから離れること。
身体に触れる快感や不快な思いから離れること。
そして五蓋を捨てます。
むさぼりを離れること。
怒りを離れること。
心が暗く沈む状態から離れること。
心が振り回されて落ちかない状態から離れること。
師の教えや、仏の教えを疑うことから離れること。
そして五事を調えます。
適度な食事をとること。
適度の睡眠をとること。
身体を調えること。
呼吸を調えること。
心を調えること。
そうして五つの法を実践します。
仏道を願い求めること。
努力を続けること。
悟りを得ようと念じ続けること。
悟りを得る為にどうすればよいか工夫すること。
心を一つに集中して専念すること。
ひらたくいうとそんなところです。
天童如浄禅師のお言葉に、
身心脱落とは坐禅なり。
祇管に(ひたすらに)坐禅するとき、五欲を離れ、五蓋を除くなり。(『宝慶記』)というのがあります。
このようにして心を調えて悟りを求めるというのが、止観という坐禅の修行なのであります。
それは、まさに、五祖禅師のもとで神秀禅師が、示された偈と同じことです。
身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。
時々に勤めて払拭して塵埃を惹かしむることなかれ
という偈の精神であります。
心に塵やほこりをつかせないように努めるのです。
しかし六祖禅師の示されたのは、もっと次元の高いものでした。
菩提本、樹無し、明鏡亦台に非ず
本来無一物 いずれのところにか、塵埃を惹かん
という偈でした。
悟りにはもともと樹はない、澄んだ鏡もまた台ではない。
本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。
という意味です。
南嶽禅師が馬祖禅師に示されたのは、
「もし坐禅を学ぶのであれば、禅というのは坐ることではない。
もし坐仏を学ぶのであれば、仏というのは定まった姿をもってはいない。
定着することのない法について、取捨選択をしてはならない。
そなたがもし坐仏すれば、それは仏を殺すことに他ならない。
もし坐るということにとらわれたら、その理法に到達したことにはならないのだ」ということでした。
『天台小止観』には、目を閉じて坐禅する方法が説かれています。
まさにこれは心に塵やほこりをつけないように努力するものです。
『臨済録』には次のような言葉があります。
「世間にはわけのわからぬ坊主の連中がいて、たらふく食ってから、さて坐禅にとりかかり、雑念を押さえこんで起こらぬようにし、喧騒を嫌い静けさを求めるが、こんなのは外道のやり方だ。
祖師は言われた、
『お前がもし心を住めて寂静を求めたり、心を振い起こして外面を照らしたり、心を収束して内面に澄ませたり、心を凝らして禅定に入ったりするならば、そういうやりくちはすべて無用な作為だ』と。
ほかならぬ君たち―今そのように聴法している者たち、その者をどのように修習し証悟し荘厳するつもりなのか。
その者は修習できるものではなく、荘厳できるものでもない。
だが、まさにその者に荘厳させたならば、万物はすべて見事に荘厳されるであろう。君たち、ここを取り違えてはならぬ。」
と説かれています。
雑念の起こらぬようにするとか、騒がしいところを離れて静かなところで坐禅するようなことを否定されているのです。
お互いのこの自己は、なんら造作を加えようのないものなのです。
先日麟祥院で講義した『臨済録』の一節ですが、
「ある日、師は僧堂の前で坐っていたが、黄檗がやってくるのを見ると、ぴたりと目を閉じた。
黄檗はぎょっとして居間に引きあげた。師は黄檗の後について居間に行き、その失礼を詫びた。
黄檗は側に立っていた首座に言った、「この僧はまだ若いながら、その筋を心得ておるな。」
首座は言った、「和尚は足が地に着いていないくせに、こんな若僧を印可なさるとは!」
黄檗は自分の口を拳骨で一打ちした。
首座「お分かりなら結構です。」
というところです。
何を言わんとしているのかわかりにくいものです。
臨済禅師は禅堂で坐禅していて、黄檗禅師がやってくるのを見て、目を閉じて坐ったというのは、わざとこの『天台小止観』にあるように目を閉じてしっかりと心を落ち着けて修行しているような坐禅をしてみせたと読み取ることができます。
黄檗禅師が怖れるふりをしたというのも、臨済禅師の魂胆を十分に読み取ってのことでしょう。
そしてすぐに臨済禅師は黄檗禅師のお部屋に行って、失礼しました、余計なことをしましたとお詫びします。
黄檗禅師は臨済禅師がよく分かっていることを認めたという話だと読むことができます。
なかなかこの一節はわかりにくかったのですが、小川先生のご教示を得て、これで臨済禅師の坐禅観を表していると読み取ることができます。
横田南嶺