曲げて人情に順う
上堂というのは、あまり一般には聞き慣れない言葉です。
『禅学大辞典』には、
①粥飯のため僧堂に上ること。
②法堂に上り説法すること。堂は法堂。
古く毎日朝晩行われたが、後には、四節上堂・五参上堂など定時の朝行われた。朝参。大参。普説。陞座。
③僧堂内の上間。下間を下堂というのに対す。
④祝国上堂、晋山上堂の意。晋山の儀式の称。
と四つの意味が書かれています。
今禅門で「上堂」というと、ほぼ四番の意味で使われています。
晋山上堂であります。
管長になって晋山される時の説法や儀式を上堂ということが多いのです。
『臨済録』で上堂というのは、二番の意味であります。
法堂に上り説法することであります。
四節上堂というのは、結夏、解夏、冬至、年朝の四つに上堂説法することをいいます。
妙心寺などでは、今も四節上堂が行われています。
円覚寺などでは、開堂や上堂は特別なときにしか行われていません。
もともと本山というのは、その全体が修行の道場でもありました。
円覚寺であれば、山内に住む僧侶は、毎日選仏場で坐禅して法堂で上堂される説法を拝聴して修行していたのでした。
それがだんだんと時代が下るにつれて、本山での修行がおろそかになっていったようであります。
そして江戸時代の終わり頃に、円覚寺の場合は、大用国師が開山堂舎利殿のある正続院を修行の道場と定めたのでした。
そこに宿龍殿という修行道場の本堂があって、そこで老師が禅の語録を提唱するようになっていったのです。
まだ洪川老師の頃には、上堂も行われていたようですが、修行の中心は、本山での上堂ではなく、修行道場での提唱や参禅となっていったのでした。
『臨済録』の上堂のはじめは、朝比奈宗源老師の岩波文庫『臨済録』には次のように訳されています。
「河北府知事の王常侍が部下の諸役人と共に師に説法を請うた。師は上堂して言った、「きょうはわしの本意ではないが、やむを得ず世間のならわしに従って説法することにした。
しかし禅の正統的立場から言えば、禅はまったく一言半句の説くべきものもない、だからお前たちの思索の足掛りも無いのだ。
しかしきょうだけは常侍の強い要請にこたえ、思いきって禅の本領を示すつもりだ。
誰か腕に覚えのある者はないか、もし居れば旗鼓堂々一戦を挑んで来い、大衆の前ではっきりと勝負しよう。」
僧「仏法のぎりぎり肝要の処を伺いたい。」師はすかさず「かーつ」と一喝を浴びせた。僧は礼拝した。
師「お前は結構わしの話相手になれるわい。」
僧「老師は一体誰の宗旨を受け、またどなたの法を継がれましたか。」
師「わしは黄檗禅師の処で修行し、三度質問して三度したたか棒で打たれた。」
僧はここで擬議した。すかさず師は「かーつ」と一喝し、追打ちの一棒をくらわして言った、「虚空に釘を打つような無駄な真似はするな」というものです。
修行僧にどうして臨済禅師は、「やむを得ず」人情に順って上堂したのか質問してみました。
何人かの修行僧が、「河北府知事の王常侍」からの要請なので、権力者に頼まれているからではないかと答えていました。
小川隆の『臨済録のことば 禅の語録を読む』(講談社学術文庫)には、
「寺院が破壊され、経典・仏像・僧衣などがことごとく火に投じられ、多くの僧侶が強制的に還俗させられた。
そうした容赦のない破仏の嵐が中国全土に吹き荒れるなか、黄河以北の
鎮州成徳軍節度使、
幽州盧竜節度使、
魏州天雄軍(魏博軍)節度使、
潞州昭義軍節度使の
四つの藩鎮だけが中央の命にしたがわず、
あまつさえ破仏の徹底を促す勅使に対して
「破仏を行いたければ、天子おん自ら出向いて来られるがよろしかろう」、
そうニベもなく突っぱねたというのである。臨済が禅者として一家を成した鎮州は、正にそうした武人政権下の地であった。」
と書かれています。
王常侍のことを今で言えば県知事のようなものだと説明しますが、今の県知事よりももっと強い権力を持っていたと思います。
しかしそのような権力者に頼まれたから「やむをえず」説法したのではなく、やはりここに朝比奈老師が訳されているように「禅の正統的立場から言えば、禅はまったく一言半句の説くべきものもない」ところを、敢えて説法するので、曲げてという表現になったのだと思います。
もっとも権力者に法を説いたからといって、それは悪いことではありません。
何か権力者に近づくというのは、今の時代はとくに印象がよくないという意見も修行僧の中にありましたが、権力者もまた悩みや苦しみを抱いているものです。
救いを求め、法を求めたい気持ちがあれば、権力者であろうと、説法してあげることは悪いどころか、なすべきことであります。
日本の臨済宗の寺は、当時の権力者の帰依によって建立されたものが多いのです。
各本山の多くはそうであります。
妙心寺は花園法皇の開かれた本山です。
南禅寺は亀山法皇です。
建仁寺は鎌倉幕府の二代将軍源頼家公が開かれました。
東福寺は摂政関白の九条道家公が開かれています。
建長寺は北条時頼公、円覚寺は時宗公の開基であります。
己の信念を曲げて権力者に説いたのではなく、本来言葉で説くべきものではないところをあえて説いたというのです。
「誰か腕に覚えのある者はないか、もし居れば旗鼓堂々一戦を挑んで来い」という言葉などは、唐の時代も終わり頃になって乱世の雰囲気が伝わってくるのです。
「旗鼓」は軍旗と太鼓であります。
乱世の中を、王常侍の要請に応じて、あえてお説法をなされた臨済禅師なのであります。
横田南嶺