前のめりになる
それは強いチームと弱いチームとの違いはどこで分かるかという話でした。
栗山さんは、それははっきり分かるのだと言います。
修行僧たちに、どういうことだと思うかと質問してみました。
選手たちの表情で分かるとか、目を見ると分かるとか、あるいは姿勢で分かるという意見がありました。
栗山さんがお話になっていたのは、ベンチに控えている選手の姿勢だというのです。
プロ野球ではベンチ入りできるのは、二十五名だと思いました。
しかし試合に出場できるのは九人しかいません。
他の選手たちはベンチに控えています。
そこで、ベンチにいる選手が、背もたれにもたれかかって野球を眺めているような姿勢なのか、それとも前のめりになって声を出しながら、いつ出番が来てもいいように準備しているかで分かるのだとおっしゃっていました。
自分が試合に出ないからといって、その試合を他人事のように傍観しているようでは強くはなれないというのです。
要するに、他人事にするチームは勝ち切らないというのが栗山さんのお話でした。
この話の「前のめりになる」という言葉に心が引かれました。
前のめりになってゆく時にこそ、腰骨が立つのだと私は思います。
むしろ腰骨を立てるということは、体の部位を調節することではなく、まさにものごとに前のめりになって取り組んでいく姿勢だと思うのであります。
この前のめりになっていく時に腰骨が立ち、仙骨が立って、腰椎五番が前傾してゆくのです。
股関節はおのずと引き込まれてゆきます。
このことを私たちは、規則や形で決めようとしてしまっています。
ベンチでは背もたれに寄り掛からないようにという決まりを作ったり、前のめりになって応援しなければいけないという規則を作って、外見を整えようとしてしまいがちです。
それでは中身が入っていません。
佐々木奘堂さんが、ご指導くださる時にも、よく大事なものを両手を差し出して受け取るような気持ちで腰が立つのだとおっしゃいます。
藤田一照さんの著書『現代只管打坐講義』にある、林竹二先生の『学ぶこと変わること』の話を思い起こしました。
その内容については、以前にも紹介したことがありますが、一照さんの著書から引用させていただきます。
「かつて宮城教育大学の学長であった林竹二先生が神戸の長田区にある定時制の湊川高校で行った授業の様子を小野成視氏がカメラに収めたものである。」
「このなかに、わたしにとって非常に印象に残っている写真がある」と一照さんは書かれています。。
「一九七七年二月に行われた「人間について」という最初の授業の時のある生徒の写真。
一番前の席でほおづえをついて上半身を机にあずけて「こいつ何をする気やねん!」という顔つきで林先生をぼんやり見あげている生徒。」
「いつも授業中は不断のおしゃべりと不規則な行動(五分から十五分間隔で授業から抜け出す)で教師たちを翻弄しているという。
そしてもう一枚の写真。
それは五月の「開国」の授業の時のかれの姿を撮ったものである。
このとき、かれの背筋はしゃんと伸びて腰が立ち、「先生と二時間まともに向き合っていた」と記されている。
同じ人間の対照的な姿勢=態度の写真が見開きで掲載されている」
というのであります。
一照さんは、
「わたしが問題にしたいのは、この青年の姿勢の変化が、誰かにそうするように言われたからではなく、先生の言っていることをちゃんと聞こう、しっかり受けとめたい、深く学びたいという本人自身の内なる促しによって自発的に起きた自然な変化だったということだ。」
普通なら、こういう姿勢の悪い生徒(=授業態度の悪い生徒)がいると、先生は「おいお前、背筋をぴんと伸ばせ! もっとしゃんとしろ! 態度が悪いぞ」と叱って、無理やり直させるだろう。
しかし、こういう他律的な強制・矯正は一時しのぎでしかないことは火を見るより明らかであろう。
先生が見ていなければすぐまた元にもどってしまう。」
と書かれています。
先生の話を聞こうという思いが、前のめりになって聞く姿勢に表れるのであります。
私たちも自分のなすべき勤めに前のめりになっているでしょうか。
もっとも単に形だけ前のめりになっては、前に倒れてしまいます。
足でしっかりとささえていないといけません。
足でしっかり踏ん張って前に傾いていくときには自ずと腰が立つものです。
この腰を維持していくのであります。
生きることに、学ぶことに前のめりでなくてはと思うのであります。
イス坐禅で腰を立てるときにも、まず両手の手首を立てて、目の前に壁があると思って、その壁を押すようにして体を前に倒します。
これが前のめりになる姿勢です。
このときにしっかり足で踏ん張っていないと倒れます。
足で踏ん張る力が大事です。
そしてその足で踏ん張る反力で腰が立ちます。
そこから体をおこすようにするのです。
これもただ形だけを真似するのではなく、前のめりになって取り組もうとする気持ちが大事なのであります。
横田南嶺