臨済禅師のこと
円覚寺では、十日の早朝に佛殿に於いて、臨済禅師のお位牌を出して、管長が焼香して三拝し、皆で楞厳呪を読んで御回向しています。
臨済禅師は、「臨済義玄」と申します。
『広辞苑』には、
「臨済義玄」
「唐の禅僧。臨済宗の開祖。
曹州南華(山東省)の人。黄檗希運に師事して得道し、河北鎮州城東南の臨済院に住した。
その法語を集録した「臨済録」がある。諡号は慧照禅師。
(~867)」
と解説されています。
『禅学大辞典』には詳しく書かれています。
臨済宗。唐代の人。臨済宗の開祖。
河南省曹州南華の人。俗姓は邢氏。
幼時より衆にすぐれた才をあらわし、長じては孝行の人として知られた。
佛教を好み、出家受具して諸方の高僧に学び、はじめは主とし律や華厳を学んだ。
しかし、これらの学は佛教の真実を得る道でないことをなげいて衣をかえて遊方した。
黄檗山の希運に参じて、非凡の才を認められ、禅の奥旨を探り、悟境に達したが、希運の指教により高安大愚に参じ、ついで、潙山に謁して、ふたたび黄檗の会下にもどった。
行業は純一で、同輩をはるかに抜き、識見は高邁卓抜、時に師希運をおどろかせた。
希運は百丈の禅板と几案を授けて、印可の証とした。
法を嗣いでのち、諸方の禅林の名宿を訪ね、大中八年(八五四)に鎮州(河北省正定県) 東南の小院に住した。
この院は滹沱河の側に近いので、臨済院と号した。
この後、太尉黙君和は自分の居宅を寄進して寺とし、義玄を迎え、同じく臨済院と呼ばれた。
義玄の道風は遠く四方におよび、師を慕って道を求めるものが絶えなかった。
この時、普化と克符は法叔の縁によって義玄の教化を助け、竜牙・洛浦・麻谷・鳳林らの禅匠も参じた。
のち戦乱をさけて河南府(河南省洛陽市)に来ると、府主の王常侍は師の礼をもって迎えた。
ここに住することいくばくもなくして、大名府(河北省大名県)の興化寺にうつり、東堂に居した。
咸通八年四月一〇日(〔祖堂集]をはじめとした諸資料では七年四月一〇日)に示寂。
勅諡、慧照禅師を賜った。
門下の法嗣には、三聖慧然・興化存奨・灌谿志閑・幽州譚空・宝寿沼・魏府大覚・定州善崔・鎮州万歳ら二二人あり、
三聖は〔鎭州臨濟慧照禪師語録〕を録した。
義玄の禅風は自由な、しかも活撥撥地な殺活自在底のもので偉大な禅匠の面目躍如として伝えている。
この法系は宋代に至って大いに栄え、清代まで、中国禅宗の一代主流として存続した。」
というものです。
『禅学大辞典』には、四月十日のご命日となっていますが、『臨済録』にある「臨済禅師塔記」には一月十日となっています。
塔記の一部を紹介します。
「黄檗の印可を受けてから、河北に赴き、鎮州城東南隅の沱河のほとりに臨む小さな寺の住持となった。その寺を臨済と呼んだのは、この場所がらからである。
すでにそこには普化がいた。
狂者の風をして僧の中にまじり、超人なのか凡人なのか見分けもつかなかった。
師が住持となるとこれを補佐し、その教化が盛んになると、かれは身ごと蟬脱してしまった。
小釈迦と言われた仰山の予言が適中したわけである。
たまたま戦乱があったので師はその寺を立ち退いたが、軍令部長の黙君和が城内の自宅を喜捨して寺とし、やはり臨済院という額をかかげて、師をここに迎えた。
後に、またここも去って南方に向かい、河南府に行かれると、府知事の王常侍が師としてお招きした。
そこに住して、いくらもたたないうちに、大名府(河北省) 興化寺に行き、東堂に住まわれた。
ある日突然、師は病を得ることなしに、法衣を着け居ずまいを正すと、三聖との問答を終えて、静かに逝去された。
それはちょうど唐の咸通八丁亥(八六七)の正月十日であった。
門人たちは師の遺体を納めた塔を大名府の西北の隅に建てた。
天子からは慧照禅師という諡号が贈られ、塔には澄霊という名を賜わった。」
となっています。
ここにははっきりと一月十日だと書かれています。
今引用したのは岩波文庫の『臨済録』からです。
御遷化の時の問答が『臨済録』にございます。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照しましょう。
「師は臨終の時、威儀を正して坐って言われた、「わしが亡くなったあと、わが正法眼蔵を滅ぼしてはならぬぞ。」
三聖が進み出て言った、「どうして我が師の正法眼蔵を滅ぼしたり致しましょう。」
師「もしこのあと、たれかがそなたに問うたならば、どう答えるか。」
そこで三聖は一喝した。
師は、「あに図らんや、わが正法眼蔵はこの盲の驢馬のところで滅びてしまおうとは」と言い終わると、端然として亡くなられた。」
という問答が残されています。
また偈も残されています。
「流れに沿って止まざるに如何と問う。
真照は無偏なりと他に説似す。
相を離れ名を離るるに人稟けず。
吹毛用い了って急ぎ還た磨かん。」
という偈です。
『臨済録訳注』(大法輪閣)にある衣川賢次先生の現代語訳を参照します。
「逝きてやまぬ水に流されながら、どうしよう、どうしようと問う手合いには、きみの真実の光は遍く照らしていると答えてやろう。
真の佛は名前や姿かたちの束縛を受けないと言っているのに、たれも本気で受けとめようとせぬ。
吹きかけた羽毛さえ斬れるわが利剣、ひと太刀したらすぐまた磨くだけだ。」
臨済禅師の厳しい面目が伝わってきます。
そんな臨済禅師を思いながら読経していました。
横田南嶺