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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.02.01
今日の言葉

まめ息災

本日二月一日であります。

早くも二月となりました。

あの能登の大地震から一月となります。

お亡くなりになった方のご冥福をお祈りします。

また今も避難していらっしゃる方にお見舞い申し上げます。

早く復興されることをお祈りしています。

禅の語録に、巌頭和尚という方がでて参ります。

徳山和尚のお弟子にあたる方であります。

兄弟弟子に雪峰禅師がいらっしゃいます。

『無門関』の中に、徳山托鉢という公案があって、その中にも登場しています。

巌頭和尚は、雪峰禅師よりも六歳ほどお若いのですが、早くから悟りの眼を開いていたのでした。

雪峰禅師は、投子禅師のもとに三度、洞山禅師に九度、参上して修行されているのです。

「三たび投子に到り、九のたび洞山に上る」などと言われています。

それほど苦労して修行された方であります。

まだ徳山托鉢の公案の場面では、悟りが開けていないのですが、そのあと巌頭和尚の啓発によって悟りの眼を開いています。

それが『碧巌録』では、鰲山で成道したという話になっています。

そのもととなるところを、『祖堂集』で見てみたいと思います。

『世界の名著 禅語録』に収められている柳田聖山先生の現代語訳を引用してみます。

巌頭和尚のことは「先生」と呼ばれています。

また『祖堂集』では、鰲山ではなく鵝山となっています。

柳田先生の註では鰲山のことを古くは鵝山と呼んだらしいと書かれています。

「あるとき先生は雪峰とともに山下の鵝山という宿にやってきて、数日雪におしとどめられた。

先生は来る日も来る日も寝るばかり、雪峰は坐禅ばかりしている。

七日たって、雪峰がよびおこす、「師兄よ、まあ起きてくれ」

先生「どうした」

峰、「おれはこの度さっぱりついてない。 文という男といっしょに、数ヵ所にいってとんだまきぞえをくわされたが、今度は師兄とここにやってきてからというもの、眠っているばかりだ」

先生はたちまちどなりつけていう、「おまえだって、眠りこけているぞ。来る日も来る日も長椅子のうえで、まるで田舎のまっくろの土地神そのままだ。これからさき、きっと良家の子供をたらしこむにちがいない」

峰は手で胸を指していう、「わたしはここがまだおちつかん、うそはよういえん」

先生、 「おれはこれまで、君が今後、孤峰頂上で草庵をかまえて、ひろく正法を宣揚するものとばかり思っていたのだが、まだそんなことをいっているのか」

峰、「正直、まだおちつかんのだ」

先生、「君がもしその通りなら、君の思った通りをいってみなさい」

峰、「わたくしははじめに塩官のところにきて、あるとき、色が空である道理を見よとおしえられて、一つ入りぐちをつかんだ。

それから、あるとき洞山がいう、『けっして外に探してはならん、はるかに自分とかけはなれる。自分は今ひとり歩くが、いたるところでその人に出会う。その人は今、まぎれもなく自分で、自分は今や、その人でない。かならずかく知らねばならぬ、はじめて如如の真理にぴったりだ』と」

先生は、いきなりどなりつけていう、「そんなことでは、自分一人救えぬわい」

峰、「これからさき、どうすればよろしいか」

先生「これからさき、広く正法を宣揚しようとおもうなら、一つ一つ、自己の胸中より湧きださせてきなさい。

そいつとともに天にかぶさり地にかぶさってゆくであろう」

峰はその一言で大悟した。礼拝して起きあがると、くりかえしくりかえししていう、「これこそ鵝山成道だ」」

というものであります。

『碧巌録』では「鰲山成道」となっています。

その後雪峰は千五百人の善知識と称せられるように、多くの修行僧達を導いて、八十六歳という長命でありました。

かたや巌頭和尚はというと、一時期船で渡し守をやっていたのでした。

『祖堂集』には次のように書かれています。

「二人は袂を分ったあと、先生は鄂州で廃仏にあう。

ひとり湖辺で渡し場の船頭となる。

湖の両岸にそれぞれ一枚の板がおいてある。

もし誰かが渡るときは、板を一つたたく。先生はオールをたてていう、「誰だ」

答、「あちらに渡りたいのだ」

先生はすぐに船をこいででてゆく。」

というのであります。

大悟しながらもものにこだわることなく飄々として暮らしていた事が分かります。

しかし、最期は哀れでありました。

こちらも『祖堂集』にある柳田先生の訳文です。

「先生は、ふだんから前もって一言されていた、

「このおやじがゆくときは、ひと声大きくわめきたててゆくぞ」

中和五年きのとみのとし(八八五)、天下は乱にかかり、凶賊がのろしをあげる。先生は、四月四日に借りをかえして没した。

賊刃にかかるとき、一声大きく叫ぶと、四方の山に避難していた人々は、すべてその声をきいた。

春秋は六十歳、出家のとしは四十四である。」

というのであります。

賊に襲われて死ぬという最期だったのです。

この話を我が国の白隠禅師が知って、大いに失望落胆されたのでした。

『白隠禅師年譜』には次のように書かれています。

こちらは 禅文化研究所から出版された『白隠禅師年譜』にある芳澤勝弘先生の訳文を参照します。

白隠禅師が十九歳のときです。

清水の禅叢寺で学んでいたときのことでした。

「慧鶴は岩頭和尚の行を詳しく知るために、『五家正宗賛』で調べたところ、「一日、賊大いに至り、以て供饋無きを責む。遂に刃をさす。師、神色自若たりて、大叫一声、終に数十里に聞こゆ」とあった。

これを見た慧鶴は大いに煩悶した。 「盗賊の難すら避けることができないようでは、どうして地獄の業を逃れることができよう。岩頭和尚は禅門の鸞鳳のごとき人ではないか。

その岩頭和尚でさえも、こういうことならば、自分など、どうして地獄の苦報を免れることができよう。こう考えてみれば、参禅学道などは何の益もないではないか。

ああ、仏法はウソ話で信ずるに足らん」と。」

と嘆いたのでした。

一時期修行の熱意も失いかけていたのですが、『禅関策進』を読んで再び発憤して修行なされました。

そして二十四歳のとき、高田の英巌寺で坐禅していて悟りを開いたのでした。

『白隠禅師年譜』から芳澤先生の現代語訳を引用します。

「ある夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。

かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。

さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、

「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい」と。」

という体験をなされたのです。

巌頭和尚が、賊に襲われて亡くなったとばかり思っていたけれども今もまめ息災だと気がついたのでした。

まめ息災の「まめ」は『広辞苑』によると「身体の丈夫なこと。たっしゃ」なことです。

息災は、仏教語で、「仏・菩薩の力などによって災厄を消滅させること」から、更に「身にさわりのないこと。達者。無事。」という意味があります。

巌頭和尚は今も丈夫で、達者だと気がついたのでした。

さて、厳しい寒さが続きますが、皆様もまめ息災でありますようにお祈りしています。

 
横田南嶺

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