足の裏を拝む
毎月二回行っている布薩の儀式においても、仏さまの名を唱えながら、五体投地を繰り返します。
円覚寺の布薩では、百回の五体投地礼拝を繰り返すようにしています。
五体投地というのは、『広辞苑』にも載っています。
「〔仏〕両膝・両肘・額を順に地につけて、尊者・仏像などを拝すること。
最高の礼法。接足礼。頂礼。」
と書かれています。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「五体とは全身のこと。全身をその前に投げ伏して仏や高僧、師匠(guru)などを礼拝(らいはい)する、インドにおいて最も丁重な礼拝(らいはい)の仕方。
現実には仏像や仏塔、僧侶に対して額と両肘、両膝を地に着けて礼拝する。
仏典にはしばしば「…の両足に頭を以って敬礼して…」という表現が見られる。
チベットにおいても最高の礼拝の様式として尊重され、多くの巡礼者や参拝者がこれを行う」
と書かれています。
要は、両膝、両肘、そして額の五カ所を地面につけて礼拝するのであります。
仏像や師匠に対してとありますように、仏さまだけでなく、師匠に対しても五体投地を行います。
今でも我々臨済宗の修行において重要視されている独参という、禅問答の時にも、必ず老師の前に行くときにこの五体投地を行っているのです。
五体投地は、「頂礼」とも言います。
「頂礼」を『仏教辞典』で調べてみると、
「古代インドにおける最高の敬礼法で、尊者の足下にひれ伏し、頭の先を地につける。
仏教でも仏の両足に頭をつけるのを<頂礼仏足>といい、両手両足頭を地につける五体投地(ごたいとうち)は最上の敬礼法とされる。」
と書かれています。
これは、仏さまの両足に頭をつけると書かれているのです。
仏さまのおみ足を礼拝するのであります。
「仏足石」というのが『広辞苑』にも解説されています。
そこには
「釈尊の足形を石面に刻んだもの。
インドには古くからこれを礼拝する風習があり、西域から唐を経て奈良時代に日本にも伝わり、各地で模刻された。
奈良薬師寺にあるものは、長安の普光寺のものを写して753年(天平勝宝5)に造られた現存最古のもの。そのそばに仏足石歌碑がある。」
と書かれています。
これはお釈迦様のおみ足をかたどったもので、仏像ができるまでは、菩提樹や法輪と共に礼拝の対象となっていました。
もっともこれは仏教に限ったことではなく、ヒンズー教やジャイナ教にも足跡を崇拝する習慣があるのだそうです。
チベットで行われている五体投地は、体全身をまるごと床に預けて、両膝両肘額を全身と共に地面につけるものであります。
禅宗で行っている礼拝は、まず両膝をついて、それから両肘をついて、正坐してお辞儀をするような姿勢で、額を地面につけて、更に両手の平を上に向けて、少し持ち上げるのであります。
この両手に仏さまのおみ足をいただいて拝むのであります。
手の平の上におみ足をいただくのですから、仏さまがお立ちになっている状態ならば片足ずつ、手の平の上に乗せていただくことになりますし、お椅子にお座りになっていらっしゃるとしたら、両足を両手の平の上にいただくことができます。
長らく修行道場では、何でもさっさと素早く行うことをよしとしていましたので、この五体投地礼拝もまるで体操のようにさっさと行う習慣がありました。
近年は、やはり礼拝でありますので丁寧に行うようにしています。
というのも私が初めて円覚寺に修行に来た時に、当時の師家であった足立大進老師の前で礼拝したときに、手を持ち上げるとき、心がこもっていないとご指摘されてことが印象に残っているのであります。
仏さまのおみ足をいただくという気持ちを込めないといけないとお教えいただいたのでした。
たしかにただ急いで両膝、両肘、そして額をつけて、手の平を上に向けて持ち上げることをさっさと行っていました。
仏さまのおみ足をいただくという実感は乏しかったのでした。
この頃は、仏さまのおみ足をいただくのだという気持ちで行っていましたが、先日その思いを更に一層強く学ぶことがありました。
一月の終わりに、西園美彌先生に講習を行ってもらった時でありました。
今回は足指、そして足の裏の感覚をしっかりと学ばせてもらいました。
この「感覚」というのが大事だと学びました。
「感覚」があると体が変わり、心も変わってくるのです。
西園先生は、実に高度な素晴らしい教え方をなされます。
腰を立てるとか、背筋を伸ばすとかいう表現でなさるのではなく、いろんなワークを行って、足指、足の裏の感覚が戻ってきて、自然と足で地面を押して立つ状態になっていくように導いてくださるのです。
毎回教わって感動するのですが、足の指を独自のトレーニングすることによって、自然と股関節も柔らかくなって、開いて足を組めるようになるのです。
トレーニングを行う前と後では、足を組んで坐っても全然違うのであります。
足指をトレーニングして足を組んで坐ると、実にいつまでも坐っていたいような思いになる姿勢ができているのです。
こういう指導の仕方ができれば理想であります。
そして今回は足の裏の感覚をひたすら学んだのでありました。
まず手と足の裏とを握り合うのですが、これを行うと足が冷たく感じます。
手の平の感覚の方が強いので手が足を冷たく感じるのです。
しかし、足の方は手の平をあたたかく感じているはずなのです。
それが、足の裏の方はなかなか感じないのです。
足の裏の感覚が鈍っていることを実感させられました。
そこで西園先生は、修行僧の足の裏に手を置いて、ゆっくり足を上げ下げするということを実践してくださいました。
足の裏で手の平を吸い付けるような感覚を持つようにという指導なのです。
これを何度も行いました。
その時に、西園先生が修行僧の足元に伏して、足の裏に手を載せているお姿が、まさに仏足頂礼のお姿そのものでありました。
修行僧の足というのは、ひび割れあかぎれ、そして煤で真っ黒になっています。
とてもきれいというものではありませんが、その足を手に乗せて、ゆっくり持ち上げてくれているお姿が礼拝の姿だったのです。
このことを何度も繰り返すと、足の裏の感覚がかなり鋭くなってきました。
足の裏で相手の手の平を感じることができるようになりました。
そうして、両足で立ってみると、初めて大地に立ったような感動なのです。
足の裏で地面をしっかりと押して立ち上がっているという感覚なのです。
力むこともなく自然と両足で立って、腰も無理なく立っています。
足の裏の感覚を取り戻すことでこんなにも変わるのかと感動したのでした。
そして足の裏を拝むという礼拝の原点も学び直すことができたのでした。
横田南嶺