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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.01.24
今日の言葉

みこころのままに

円覚寺で作っている卓上カレンダーがあります。

今年の一月には

長閑さや 願いなき身の 神もうで

と書きました。

この句は、先代の管長が好んで揮毫されていたものです。

もっとも今の時節は、願いなきどころではなく、なんとか早くコロナの感染症が収束してくれますようにと願うばかりであります。

この言葉を揮毫した頃は、まだ去年の夏でありました。

ワクチンの接種が進んで、来年の正月の頃には、コロナも収束しているかもしれないと思ったのでした。

たとい、まだコロナ禍と言われる中にあったとしても、いつの日か「願いなき身の神もうで」ができますようにという思いを表したということができます。

石田梅岩の石門心学を学び、その心学の教えを広く伝えようとされている知人がいます。

「心学」といってもよく分からない方もいらっしゃるかもしれません。

『広辞苑』を調べてみると、

「江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して、その教旨を平易な言葉と通俗なたとえで説いた一種の庶民教育。
修錬のために静座などを重んじ、社会教化には道話を用いる。石田梅岩を祖とする石門心学に始まり、手島堵庵・中沢道二・柴田鳩翁らが活躍、各地に心学講舎が作られた。」

という説明があります。

ではその石田梅岩というのはどういう人かというと、これも同じく『広辞苑』には、

「江戸中期の思想家。通称は勘平。石門心学の祖。

丹波生れ。京都に講席を開き、商人の役割を肯定するなど、庶民を教化。著「都鄙問答」「斉家論」「石田先生語録」など。(1685~1744)

と解説があります。

京都の亀岡の方であります。

江戸時代の日本人が高い倫理観をもっていたのは、このような心学の影響が大きいと思います。

その心学を現代において見直し、広めようとされている知人です。

その知人から教わったことであります。

広島の心学者である奥田賴杖(一七九二~一八四九)の『心学道の話』のなかにある話です。

「古い句に、「長閑さよ願ひなき身の神詣」と申す句が御座りますが、是が誠の君子の行いじゃ。

また銘々どもは「さわがしや願ひある身の神詣」というもので、願いなければ、神仏へも、滅多に、頭は下げぬ気じゃ。」

というものです。

たしかに願いばかりをしていては、さわがしやということにもなりましょう。

更に吉田松陰が野山獄で妹宛に書いた手紙に、

「仏法信仰はよい事じゃが、仏法にまよわぬ様に心学本なりと折々御見候へかし。心学本に、「長閑さよ 願ひなき身の神詣」。神へ願ふよりは身で行うがよろしく候」(岩波文庫『吉田松陰書簡集』)

という文章もあることを教わりました。

長閑さや 願いなき身の 神詣

この句をよく揮毫されていた先代の管長からは、神様にお参りするときには願い事ではなくて、感謝だけすればいいのだと教わりました。

それで私もいつも神社にお参りするときには、ありがとうございますという気持ちでお参りしています。

たしかにたくさんの願い事をお聞きになる神様もたいへんなことでしょう。

そこで私一人くらいは、ありがとうございますという感謝の気持ちだけでいいのではないかと思っているのであります。

願いなきというと、無願ということであります。

無願というと山門のことを思います。

寺には山門があります。

円覚寺にも大きな山門があるのです。

この山門は、山の門と書く場合と三つの門と書く場合があります。

円覚寺のホームページでは、三門(山門)と書いています。

「三門は三解脱(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払って涅槃・解脱の世界である仏殿に至る門とされています。」と解説されています。

そこで岩波書店の『仏教辞典』で調べてみます。

「三門」と書かれていて

「寺院の山号にならって、<山門>とも書く。

禅宗寺院の仏殿の前にある門。南都六宗寺院の中門にあたる。

三門は、空・無相・無願の<三解脱門>を象徴するといわれる。

これは、仏殿を解脱・涅槃(ねはん)にたとえ、そこに到達するために通らなければならない門である三解脱門にたとえたものである。」

ということであります。

仏殿が悟りを表し、そこに至るための三解脱を表しているのです。

では三解脱とは何かというと、『仏教辞典』には、

「三解脱門」として

「悟り(解脱(げだつ))に通ずる入口となる3種の瞑想のこと。

<三三昧(さんざんまい)>ともいう。

3種の瞑想とは、あらゆるものが実体を持たず(空(くう)、

特徴を持たず(無相)、欲求に値しないこと(無願)を瞑想する禅定である。

全てのものに実体がないことを、存在論的・認識論的・心理学的にそれぞれ指摘している。般若経(はんにゃきょう)を始めとして、大乗仏教の経典・論書の中に広く用いられる術語である。

アビダルマ(阿毘達磨(あびだつま))仏教では、我(が)・我所のないことを観じるのが空三昧、五官の対象・男女の特性ならびに有為(うい)法の生・住・滅といった相を観じないのが無相三昧、三界での生存を願わないことが無願三昧であるとされる。

一方大乗仏教では、一切法の空を観じるのが空三昧、一切法の無相を観じるのが無相三昧、一切法に対して求めるところのないのが無願三昧だとされる。」

というのであります。

達磨大師の説かれた二入四行にも、無所求行というのがあります。

達磨大師は、「求むること有らば皆苦なり、求むること無くんば則ち楽し」という経典の言葉を引用して説かれています。

臨済禅師もまた、求める心がやんだ時が無事だと説かれたのでした。

では何も願わない、何も求めないというのであれば、どうして祈るのかと思われるかもしれません。

鈴木大拙先生の『無心ということ』のなかに、

「私の無心というのは(中略)たとえばキリスト教的に言うと、「御心のままに」というようなことなのです。神の御心のままにならせ給えという、そう「まかせ」主義のところのあるのを宗教的と言います。」

という言葉があります。

また坂村真民先生に
 
 祈り
最後は
み心のままにと
祈るほかはない

という詩もございます。

やはり最後はみこころのままにというしかないのだと思います。

そこで私は神様にお参りするときには、ありがとうございますという気持ちと、あとは「どうぞみこころのままに」とお祈りしています。

 
横田南嶺

みこころのままに

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