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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.09.20
今日の言葉

絆を取りもどす

諏訪中央病院には、一昨年にほろ酔い勉強会に招かれてゆきました。

漢方医の桜井竜生先生と、「怖くない死を迎えるために」~禅僧と漢方医と住民と病院職員で考える終活講座~という勉強会を行ったのでした。

諏訪中央病院の須田万勢先生にお招きいただいたのでした。

病院でしかも僧侶が死について話をするという、珍しいことが起こったのでした。

こういう機会は、二度とないだろうと思っていましたが、昨年もまたお招きされました。

昨年は、「死」についてではなく「生きる」ことについて話をして欲しいということで、「人生百年時代をどう生きる」というテーマでありました。

死についての話も難しいものですが、この百年時代について話をするのも難儀でありました。

死については、誰しも例外なく、訪れるものでありますが、いくら「人生百年時代」といっても、誰しもが百年を生きるわけではありません。

それでも、一昨年同様に桜井先生と共に務めさせていただきました。

ただ昨年は残念ながらコロナ禍にあって、諏訪にうかがうことができずに、それぞれの場所でリモートで講演と対談を行って配信したのでした。

これは今でも視聴することができます。

今年もお招きいただきましたものの、コロナ禍であることは変わりなく、ギリギリまで開催について病院の方が検討してくださったのでした。

その結果、聴衆は入れないことにして、講演と対談を配信することと、講師を外部から招くことはだいじょうぶというご判断になりました。

私の方は、先方が大病院でありますので、病院側の決定に従うことにしました。

というわけで、今年は諏訪中央病院まで出向いて、そこで桜井先生と須田先生とそれぞれが講演をして、最後に三人で鼎談をしたのでした。

ライブ配信ではなく、後日「諏訪中央病院のYouTube公式チャンネル」で公開される予定です。

また公開の日が決まりましたらお知らせいたします。

今年のテーマが、「『絆』をとりもどす」でありました。

「絆」という言葉がよく使われるようになったのは、あの東日本大震災からでありましょう。

2011年3月11日大地震が起こり、大津波が町を襲いました。大災害でありました。

そして、そこに日本中から或いは世界から、多くの人がボランティアに駆けつけました。

私が懇意にしている気仙沼の和尚なども、津波で寺の建物をすべて流されてしまいました。多くの檀信徒もまた亡くなったのでありました。

この世にこんな悲しみがあろうか、こんな苦しみがあろうかと思う大災害でありました。

その震災から三年ほど経った時に和尚はこんなことを仰いました。

「震災で私達は多くの物を失った。かけがえのない家族や仲間、多くの財産を失った。しかし、それ以上のたくさんの人々のまごころをいただいた。」というのでありました。

たくさんの人々のまごころ、こういうのを絆というのでありましょう。 
 
その年に9月に私の故郷の熊野では、大水害がありました。紀伊半島大水害であります。

その水害でご主人を亡くされた方とご縁をいただいています。

その奥様が、水害から三年経った頃、こんな事を書かれた手紙を頂戴しました。

「今回の事がきっかけに新しい絆がうまれたり、昔の絆が復活してお互いに支え合い思い合うつながりの中で生活の質がより深くより豊かになっていく不思議に驚いています。支えていただいた私どもが他の方の支えになれるように足元からゆっくり観音さまのこころを広げていけるように暮らしていきたいと願っています。」

という内容でした。

そこから、私はよく、「ささえあい、おもいあい、つながりの中で生きる」という言葉を法話などで使わせていただくようになりました。

こういうのが、震災や災害のあと大切にされてきた絆というものだと思います。

そうして「絆」ということが大切にされるようになると、こういうこが起こりました。

ある方がお亡くなりになって、戒名をつけるのに、絆という字を入れて欲しいというのでありました。

戒名に、こういう字を使って欲しいと頼まれることはたまにあるものであります。
お亡くなりになった方や、或いはご遺族の思いのこもった文字でありましょうから、そういう場合は、出来る限り、その意志を尊重して使ってあげるようにしています。

ところが、この「絆」を使って欲しいと頼まれた時には困りました。

どうしてかというと、お経の中に出てくる「絆」というものは、あまりいいものでないのです、善い意味で使われるということはあまり見あたらないのであります。

「苦縛」とか「繋縛」という言葉がございます。

「苦しみや悩みにつなぎしばられること」であり、「心が煩悩(ぼんのう)につながれ、しばられていること」心が何かにとらわれていることを言います。

絆は断ち切るべきものとして説かれることが多いのです。

ともあれ、絆には、私たちを支えるよい意味もあれば、私たちを苦しめる悪い意味もあるということを申し上げて話を始めたのでした。

絆は、人と人との絆を言うことが多いと思いますが、「天に星、地に花、人に愛」という武者小路実篤さんの言葉を紹介して、天との絆、大地に咲く花や草などとの絆もあるという話をさせていただいたのでした。

私の次に、桜井先生が講演をされました。

桜井先生は、お話の冒頭に、東洋医学では絆というのは不健康のもとだとすばり仰いました。

そして、人が死にゆく時の過程を話されました。

人が死んでゆく時というのは、それまで関わってきたものを捨ててゆく課程だというのです。

その捨ててゆくのに順番があるというのでした。

一番に捨てるのは、金銭的な損得だというのです。

こういう欲望などははじめに消えてゆくのだそうです。

二番目には、異性への関心が消えてゆくのだそうです。

三番目には家族や肉親への執着が消えてゆくのだそうです。

そのようにとらわれていたものが次々と消えていって、最後に残るのは自然との対話だというのでした。

自然の風にあたりたい、夜空に輝く星を見たいというようになるのだそうです。

桜井先生は、人間が社会制度を作り上げてその中で生きなければならなくなると、ストレスが大きくなって、寿命も短くなるのだと話をされていました。

最後には須田先生が、医学の立場から、絆について興味深い考察を披瀝して下さいました。

そうして最後に三人で語り合ったのでした。

絆には、大切にする絆もあれば、人を苦しめる絆もあります。

この際、無くてもいい絆と、大切な絆とを見分ける眼を持ちましょうと私は申し上げたのでした。

三人の鼎談のあと、控え室で桜井先生と話をしていて、桜井先生が、一人がいいということもあれば、一人が寂しいということもあるのが人間だと仰いました。

やっぱり一人がよろしい雑草

やっぱり一人はさみしい枯草

と山頭火がこの両方を詠っていますが、絆も必要な時もあり、無い方がよい時もあるものなのです。

 
横田南嶺

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