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臨済宗大本山 円覚寺

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2013.04.03

どこでどう転んでも

4月3日(水)
 管長様が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 私たちは、どこでどう転んでも不可思議ないのち、仏心をいただいている。
どこでどういても、そのまま解脱・悟りの姿に他ならない。しかし、そのことに
気づかずに外に向かって求めてしまう。それが迷いのおおもとであると
臨済禅師は繰り返し説いています。
 私たちが眼に触れるものはみな真理をありのままに表しています。みな
私たちにいのちの尊さ、すばらしさです。
 松尾芭蕉に次の俳句があります。
{このあたり 目に見ゆるものは 皆涼し}
目に触れるものはみな仏心そのものなのです。
 私たちは普通、外に見える木や花と私たちのいのちが相隔たったもの
別もののように見てしまう。しかし、このいのちの世界や意識・心の底を
深く究明していくと、気づくところはいのちは一枚であるという
ことです。
 私たちのいのちも花や鳥など動植物のいのちも別ではない、切り離して
考えることはできない。いのちというものはみんなつながりあっている。
もっと深く見ると一枚のいのちをこうして生きているのです。
 浄土宗・西山上人の歌に
{南無阿弥陀仏 ほとけの御名と思いしに 唱うる人の姿けり}
というものがあります。仏様のお名前だと思って一生懸命唱えて
いたけれどその唱えている姿が阿弥陀様であったという歌です。
 その仏様を手を合わせて拝んでいるその人の心こそが阿弥陀様の
心そのものなのです。阿弥陀様の心と私たちの心は、一枚に続き
あっている、決して隔たりはないのです。
 お浄土もよそやどこか遠くにあるように思うが、決してそうではない。
どこでどう転んでもそこが安心のところです。
 白隠禅師坐禅和讃の通りです。
「当処すなわち蓮華国、この身すなわち仏なり」です。
 みんな尊い仏様のいのちをいただいてこの仮の宿に生まれて
きている。仏教は、その仏様のいのちに目覚める教えであります。
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井戸 <僧堂> 現役です!
 
 
 

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