「渓のせせらぎは仏さまのお説法」
とある事情によって左遷された蘇東坡が、弟の蘇轍(そてつ)の元に旅をしていました。
その途中、廬山で常総禅師に参禅しました。
そのときに、心を持たない山や川でも説法をするのかという問題を公案として与えられました。
蘇東坡は、数日間坐禅してこの問題に取り組みましたが、答がでません。
やむなく禅師のもとを辞して廬山を下る途中で、往路でも通った渓谷にさしかかった時に、
急流の音を聞いて気がつきました。そこで作られたのがこの詩です。
渓声(けいせい)便(すなは)ち是れ広長舌(こうちょうぜつ)、
山色(さんしょく)豈(あ)に清浄身(しょうじょうしん)に非ざらんや。
夜来(やらい)八萬四千(はちまんしせん)の偈(げ)、
他日如何(いかん)が人に挙似(こじ)せん。
意訳すると、「渓のせせらぎは仏さまのお説法だ。山の色は仏さまの清らかなお姿だ。
夜通し聞こえるせせらぎは仏さまの説かれた経典である。これを将来どのようにして人に伝えられようか」
となりましょう。
ゆく道の時と景色も同じ渓谷でしたが、蘇東坡の心が開けたのでした。
古来山や川も成仏するのかと論議されることがあります。しかし、これは何も山や川が仏であるというよりも、
川のせせらぎを聞いても仏さまのお説法の聞こえる、山を見ても仏さまのお姿であると
見ることのできる心が開けたことを表していると私は思うのです。
後に日本の道元禅師が、「峰の色、渓の響きもみなながら わが釈迦牟尼の声と姿と」と詠われています。
(平成30年11月21日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)