2017年6月30日

8月17日 夜の初心者向け坐禅体験会 満員御礼

おかげさまで、満員となりましたので、募集を締め切らせていただきます。

2017年6月30日

8月17日 夜の初心者向け坐禅体験会 参加者募集中


居士林(円覚寺の在家修行道場)山門
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居士林堂内

 最近、世間では、仏教瞑想に対する注目の高まりか、居士林で毎週土曜日に開催

されている土曜坐禅会・初心者の部(13:20~14:20)には、大勢の

方々が参加をしている現状があります。

 そこで、居士林では、夜間の初心者向けの坐禅会を設けました。

 この坐禅体験会は、2時間というゆったりとしたプログラムで、呼吸への意識の向け方、

経行(歩行禅)、足を組んで坐禅をし、最後に参加者の方に自己紹介と質問、

また、その方の現状などを話していただくなどの懇談会といった内容となっています。

(また、椅子での参加も可能です。)

日時: 8月17日(木) 19:00~21:00

    月に一度以上の割合で開催する予定です。

    今後のスケジュールについては、当「居士林だより」にてお知らせします。

場所: 居士林

定員: 12名

申込み:engakuji.kojirin@gmail.com  宛てに 件名「◯月◯日の夜の初心者向け坐禅会希望」にて

    ①氏名 ②住所 ③電話番号 ④年齢 ⑤職業 ⑥坐禅歴 ⑦参加動機 を記入して

    お送りください。

参加費: 大人 1000円 学生・子供 500円

  * 夜間開催ですので、会社帰りのサラリーマンや学生・子供の習い事としても参加できます。

  * 定員に制限がありますので、応募人数を超えた場合は、諸条件を考慮して、キャンセル

   させていただく場合もございます。ご了承ください。

  * 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2017年6月30日

文月・7月の詩


 横田南嶺老師揮毫。坂村真民さんの詩です。

 7月の円覚寺公式カレンダー。

2017年6月30日

6月30日現在 円覚寺境内のアジサイ情報④


 円覚寺境内のアジサイもほぼ満開となり、今週末あたりが最後の見頃と

なるでしょう。皆様、ぜひ、ご来山の上、お参りくださいますように。

2017年6月29日

7月1、2日 どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会


 
 さて、今週末(7月1、2日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

7月1日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間の坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

(近年、参加者の増大により、特に初心者の部は、最大収容人数130人が

満員になることもあります。ツアー等に盛り込むなど、団体(7名以上)での

参加は、ご遠慮くださいますように宜しくお願い致します。)

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 7月2日(日)

●8:05~9:50 日曜坐禅会 場所 宗務本所(信徒会館2階)

8:05~8:20 坐禅

8:30~9:30 横田南嶺老師による「盤珪禅師語録」という禅の語録の提唱

9:30~9:50 坐禅

という内容です。初心者の方には、8:10~20の間で、足の組み方などを説明しますので、

 必ず、時間までにお越しください。

2017年6月27日

「正統と異端」 一日一語148


 横田南嶺老師が昨日の僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 今日、我々の白隠禅(白隠禅師の系統の禅)というのは、

白隠慧鶴禅師ー峩山慈掉(がさんじとう)禅師ー隠山惟烟(いんざんいえん)禅師

ー太元孜元(たいげんしげん)禅師-儀山善来(ぎさんぜんらい)禅師

ー洪川宗温(こうせんそうおん)禅師と続き、我々、円覚寺の法系となる。

 白隠の弟子に峩山慈掉がいますが、この峩山は、この今、講義をしている

『武渓集』をお作りになられた月船禅師のお弟子でした。

 峩山は、月船の下で永田(今の横浜市)の宝林寺内の東輝庵に於いて

月船の下で修行をして、月船の後、東輝庵の第2世を継がれました。

ですから、月船の後継者が峩山であります。

 それが、峩山が白隠の晩年に白隠東嶺のもとに修行に行ったものですから、

今日峩山は白隠の弟子であると言われます。それもそうですが

峩山が白隠のもとで修行をしたのは白隠晩年の話です。

月船の下で育ち、月船の東輝庵の後を継いだという事跡は

ほとんど、今では、紹介されることはありません。

 私に言わしめれば、月船なかりせば、峩山が世に出ることはなく、

峩山なかりせば、白隠の系統は、東嶺、遂翁(ともに白隠の弟子)はいたけれど、

その東嶺、遂翁の系統は途絶えているので、今に伝わっていなかったのではないか。

 月船の偈頌(宗旨をうたった漢詩)の見事さ、格調の高さ、それは、古月系と

言われますが、その当時(江戸時代中期)の日本の禅宗においては、

古月の系統がむしろ禅の主流でした。

 この頃、白隠、白隠と強調をすることは、誠に結構なことであり、

それだけ、白隠のお力、力量というものが大きいものであったのでしょう。

 しかしながら、禅の歴史というものを、正しく冷静に見るならば、

白隠は、本山に住することもなく、生涯を原の松蔭寺で過ごされた方です。

 ただ、その地方で生きた泥臭さというべきか、そこが魅力です。

禅というものは、正統よりも異端といわれるくらいのものが出てくるところに、また、

新たなる魅力が湧いてくるのです。

 こういう点で白隠禅というものの功績や魅力を正しく見ていかなければならない。

あたかも、この当時すなわち白隠が活躍した江戸時代後期から白隠禅が

禅の正統であって、それを代々、墨守して伝えていけば良いというだけの

ものの見方では、十分ではないと思っています。

 ときには、異端といわれるようものも出てくる。禅というもの自体が、仏教学、仏教の歴史から

見れば、異端と言われるものでもありましょう。

 唐代の禅僧方は、当時の仏教学の伝統から見れば、それこそ異端でしょう。

正統から外れたところで、田畑を耕したりしながら、何ものにもとらわれず自由なことを

言っている。が、逆にそういうところに魅力があるのです。

 それが(その後)型にはまってしまって、唐の時代の禅僧方の活き活きとした

言葉が公案という型にはめられてしまって、形式に堕してしまう。すると

もはや、唐代の頃の禅の新鮮味は失われています。

 日本では江戸時代に白隠が出て、今までの停滞していた伝統の型をぶち破ったのです。

しかし、以来、250年が経って、今やこの白隠禅が伝統の権威みたいになっていやしまいかと思います。

 時に異端だと言われるようなものが出てくらいでなければ、果たして、本当の禅の

命脈は伝わっていかないのではないだろうかと危惧します。

 歴史というものを正しく学び認識をするということは、今後、我々が

どのように道を歩んでいったらよいかとうことを教えてくれるものであります。

 確かに、古月系(月船もこの系統)の禅、月船の禅、大用国師(円覚寺中興)の

禅の一流は、格調の高い見事な、五山文学の正統の流れを受け継ぎながら、

関山一流の禅風である己事究明ということも両立せしめた素晴らしいものでした。

 しかしながら、それが形式に堕してしまった。逆に形式をあえてぶち破った白隠禅が

凌駕してしまった。ところが、今、その白隠禅が形骸化した公案の型に嵌まって

しまっているのではないかと思われます。

 その型を破って出てくるものがまだ、出てきていない。

異端と言われるものこそが新しいものを生み出していく。そう思っています。

 それには、まず、白隠禅を徹底的に学んで、学び尽くすこと。学び尽くした上で

更にこの白隠禅をも否定して乗り越えていく者が出てもらいたいと願います。

 それが、新たな禅の歴史を作っていくことだと思っています。

{平成29年6月26日 武渓集提唱より}

2017年6月23日

なぜ、仏典以外の引用があるのか?「一日一語147」

 先日、居士林で開催されたGW宿泊坐禅会(学生坐禅会)の中での

円覚寺派管長・横田南嶺老師と参加者との質疑応答の一つをまとめてみました。

参加者: 2年ほど前から坐禅をしているのですが、一番不思議なのは、

   禅の勉強をしているとよく、四書五経など(仏教以外のもの)の

   出典が出てきます。それは、なぜなのですか?仏教なのだから、

   仏典やお経の中から引用するならわかるけれど、儒教などの中から

   引用をしています。禅というのは、はたして、宗教なのでしょうか?

老師: それは、一神教とは違って、特定の仏教とかいうものがあるという

  のではない。真理をついている、これが真理だと思うものは、何でも 

  取り入れていく。

  (真理を語るには)いろいろな表現の仕方がある。仏典の言葉で納得がいく

  という人もいれば、中国の古典が良いという人もある。論語の言葉のように

  日常的、実践的なもので納得がいくという人もある。

   同じ一つの真理だと思います。それを様々な表現によってしていく。

  こういう風に見る訳ですね。ですから、私らでも、いろいろなものを

  読みます。いろいろなものを読んで、いろいろな言葉や表現を知っている。

   そうすると、いろいろな人に対してそれだけ幅広く(対応できるように)

  なっていく。ですから、日本の禅宗のお坊さんなどは、神道などをよく

  勉強している。私らも、初めて坐禅をした時に、(その時の)老師が言われたことが

  「坐禅をすると日本国中、八百万の神が心中に鎮座するのである」でした。

  「おお!八百万の神が鎮座するのか!それはえらいもんだ!」と思った。

  日本人だと「八百万の神が鎮座まします」というと、有り難いということに

  なりますね。

   ですから、(禅というのは)「こうでなきゃいけない!」という、とらわれがない。

  うちの(宗教の)聖典を暗記していないと処罰するなんていう、そういう考えは、微塵もない。

  良いものは何でも良いものとして(取り入れていく)。こういう見方をするんですね。

2017年6月22日

コーネル大学生との禅問答③ 「一日一語146」



 昨日、当ブログで紹介した円覚寺派管長・横田南嶺老師とコーネル大学生との

質疑応答の第3弾です。

学生: 一つは、禅というものは、あるがままの自分を受け入れると言います。

  もう一つは、何とか修行、トレーニングしてより良い自分になろうとします。

  それは、対立するものだと思いますか?

老師:ああ、融合してやっていく(のだ)。たいへん、良い質問でね。

  禅の歴史というのは、その二つの考えが常に「このままでいいんだ」と

  「いや、努力しなければ」という両方の相剋の繰り返しの歴史です。

  私も長年この問題に悩み続けてきましたが、それが、あるおばあさんの話を

  知って、二か月前に片付いた(解決した)。

   七〇歳のあるおばあさんが言われた。その人は、中学を卒業して就職して

  働くことになっていた。すると、その人のおばあさんにあたる人が

  自分の孫に対して「これから、世の中で働いていく上で、人と比べてはいけない、

  人をうらやましがってはいけない」とお説教をした。ところが、その隣にその人の

  お祖父さんにあたる人がいて、「そんなことは、若い娘には無理だ。人をうらやましがる

  のは当然だ」と言った。

   さらにおばあさんが「これからは人に迷惑をかけてはいけない」とお説教をした。

  すると、お祖父さんが「そんなことは無理だ。人間が生きるということは、人に

  迷惑を掛けることだ」とこう言った。

   そして、そう言われて、娘が五〇年働いて、自分はこのおじいさんとおばあさんと

  二つの教えを聞いたから生きることができたと感じた。もし、おばあさんの教えだけを

  聞いていれば、自分の人生は行き詰ってしまっていただろう。もし、おじいさんの

  教えだけを聞いていたら、自堕落で、わがままで怠け者になっていただろう。

   この二つの教えをバランスよく受け入れて自分は生きることができた。と。

  この二つのバランスをとることを仏教では、中道という。

   そこから、さらに大事な問題であるから、付け加えたい。私の最も

  尊敬しているお坊さんで八八歳になる行者が言われた言葉があります。

   「このままではダメだと努力しなければという気持ちとこれでいいんだ

  という満足感とは、相反するように見えるけれど、これは同時である。」

   歩くのを見ればわかる。「ここにとどまってはいけない」と思って

  片方の足が前に出れば、もう片方の足は、「これでいいんだ」という風に

  支えていてくれる。これが同時であるから、前に進んでいく。

   難しいかもしれないけれど、仏教のたいへん大事な問題です。

   私も長いことやってきて、二か月前にようやく気が付いた。皆さん方も

  やがて、人生はバランスだと気が付くことがあることを願います。

 (終了時間の八時半まであとわずかとなる)

  あなた方といるとずっと話をしていたいと思うけれど、次の予定があるから、これで。

   どうぞ、世界の問題をいくつか言われましたけれど、自分の心に争いを起こさない 

  ように、これだけをお願い致します。終わり!

2017年6月21日

コーネル大学生との禅問答② 「一日一語145」

 昨日、当ブログで紹介した横田南嶺管長とコーネル大学生との質疑応答の第2弾です。

学生①: 人にはいろいろな人生があります。老師が禅を始められてから今に到る迄の人生を

   振り返ってみるとどのような感じがありますか?

老師: 人生は偶々(たまたま)だね。今の偶々ここにいるんだ。

   今の出会いも偶々であって、明日もどこに行くかわからない。

   偶々、円覚寺にいて二十数年過ぎているだけで、(この先)どこに転ぶかは、

   わからない。

学生②: 仏教のお寺も、大きいお寺から小さいお寺まで、また最近ではたくさんの空き寺があります。

老師: よく勉強しているんだね。空き寺(の問題)は、たいへんなのよ。

   あなたは(住職してみては)どうだ?(一同笑い)

学生②:その中でも住職が、お寺の仕事やお寺以外の仕事をしながら、地域との一体を目指して、

  また、近所の人と仲よくする為にお寺を開放したり、場所を貸したりして

  地域コミニティーの一つとしてやっています。そういうことは、これから

  必要だと思いますか?

老師: 必要でしょうね。禅というものは、これという生き方が決まっているわけでは

  ありません。十人いれば、十人の禅の生き方がある。ただし、その人が禅が何であるか

  わかっていればの話でありますが。すなわち、人はみな仏であるということが

  わかって実践していれば、どこにいても、何をやっていても禅だわ。

   昔、(円覚寺境内には)アジサイなんかなかった。たまさか、植えたら、

  (大勢の)人が来るようになった。それで(参拝者から)300円(拝観志納金)もらって

  何とか(寺院運営を)やっているんだ。それも、禅だ。(一同笑い)

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