2015年9月10日

むさぼりの衣、いかりの衣

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<今、境内では酔芙蓉が見頃です。護国塔にて>

横田南嶺老師が先日の淡青坐禅会(9月2日)で提唱したことをまとめてみました。

 明治期の円覚寺の禅僧、釈宗演老師は、次のようなことを仰せになっています。

「人間は、みんな、一人一人、生まれながらに、その本体は、観音様である。

中身はみな誰一人例外なく観音様であるけれど、貪りという上着、瞋りという

上着、愚かさという上着を着てしまっている。そして、その上着を脱ごうとしない。

 その上着を全部脱いでしまえば、一人一人が観音様であるはずなのに。」

 今、世の中で様々な事件が起こり、「随分、ひどいことをする奴もいるものだ、

そんな奴には仏心なんてあるわけがない」と思われることが多々あります。

それでも、本体は観音様である、仏心であるというのが仏教の教えです。

 貪欲、むさぼりの心を基として、少しでも自分のむさぼりの心を妨げられたり

邪魔をされると、相手に瞋り、憎しみの心となり、本当は、中身は仏心である

はずなのに余計な上着を着こんでしまう。

 悟りだ、菩提だ、涅槃というのも余計な上着です。様々な縁によっていろいろな

衣を着こんでいる私たちですが、全部、脱ぎ捨ててしまえば、自分が観音様であった

と気が付くはずです。

2015年8月5日

石鞏和尚 「矢を見よ!」

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ー百日紅(サルスベリ) 法堂跡にてー

横田南嶺老師が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 唐代の禅僧、馬祖道一禅師の教えをよく表す代表格に石鞏(しゃくきょう)和尚が

います。石鞏和尚は、もともと猟師であって鹿を追いかけて、たまたま、馬祖道一禅師が

いらした庵の前を通り過ぎました。

 猟師の石鞏は、馬祖禅師に尋ねました。「鹿が過ぎたのを見ませんでしたか?」と。

馬祖曰く「お前はいったい何者であるか?」

石鞏曰く「ご覧の通り、猟師でございます。」

馬祖「お前は鹿を射ることができるか?」

石鞏「はい、矢で射ることができます。」

馬祖「それでは、いっぺんに1本の矢で何匹の鹿を射ることができるか?」

石鞏「1本の矢では1匹の鹿をいるのが精々です。」

馬祖「そんなことでは、鹿を射ることができるとは言い難いぞ」

石鞏「それでは、和尚様は1本の矢で何匹の鹿を射ることができるのですか?」

馬祖「わしは、1本の矢で群れ全体の鹿を射殺すことができるぞ」

石鞏「群れ全体を射るとは何ということでしょうか。私もあの鹿もことごとく

   命がございます。どうして、1本の矢で群れ全体を射殺す必要があり

  
   ましょうか」

馬祖「お前、そのことがわかっているのであれば、自分自身を射たらどうか」

 ここで「自分自身を射る」ということや、「1本の矢で鹿全体の群れを射る」

ということは、私たちの様々な悩み苦しみ、108どころではない、数えきれない

煩悩の、そのおおもとの一つを射殺してしまえということを意味しています。

 おおもとの一つを射殺してしまえば、すべての悩み・苦しみはおさまるのです。

そのおおもとはいったい何か?それが我欲、自分さえ良ければよいというわがままな

思いなのです。この自我の一念を射ることができたなら、あらゆる悩み苦しみは

ことごとくなくなるのです。

 石鞏はそのことに気が付いて長い間かけて苦しんでいた無明、煩悩を今日ことごとく

皆おさめることができたのでした。そして、その場で髪を剃って馬祖禅師の弟子に

なりました。

 それからというもの石鞏和尚は、もともと猟師出身でありましたから

修行僧が来ると常に弓と矢を持って導きました。修行僧がやってくると

その僧に向かっていきなり、矢をつがえて弓を引き絞って「矢を見ろ!」とやった

のでした。

 そんなものでしたから、修行僧は皆、恐れをなして帰っていきました。今の時代で

言ったら、いきなり鉄砲を突きつけられたり、むき身の刀を抜いて「さあ、どうだ」と

言われるようなものです。

 30年間それが続きました。石鞏和尚が「矢を見よ!」とやると皆逃げていく。

 ところが、そこに三平(さんぴょう)という人が現れて終止符が打たれることに

なります。いつものように石鞏和尚が「矢を見よ!」と引き絞ると、三平は、着ている

ものの胸をはだけて「さあ、どうぞ射てください!」と言って、さらに

「こんな矢は人を殺すだけの矢ではございませんか。あなたは、曲がりなりにも

和尚様であるならば、人を活かす矢はいかがでございましょうか」と言ったの

でした。

 石鞏和尚は「30年して今日やっと人を得たわい!」と弓矢を捨ててしまったのでした。

 馬祖道一禅師の頃の、禅の活き活きとしたはたらきを表している問答であります。

2015年3月4日

三毒の他に仏なし

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ー選仏場ー

 円覚寺派管長・横田南嶺老師が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 むさぼり、いかり、おろかさという三毒を離れて、それらを全部捨ててしまえば、

仏になるのかというとそうではありません。「三毒の様子を自分自身よく観察すれば、

即ち仏性なり」です。「三毒、迷いの他に別に仏性なし」なのです。

 例えば、氷のように凝り固まっているままでは、のどが渇いて水を求めている人には

何の役に立たない。だからといって、それを捨ててしまう必要もない。氷をとかせれば

同じものがのどを潤すいのちの水に変わります。

 心も同じです。三毒という固まりをとかして、執着をほどけばそれがそのまま仏心、仏性です。

 大勢の人のいのちを奪ったあの津波の海とたくさんの魚やわかめが捕れる海とは、別物では

ありません。同じ一つの海です。津波のような目に遭おうとも「もう、あんな海はいらない」と

津波を起こした海を全部捨てて、新しい海を求める必要は全くありません。荒波がおさまれば

そこではまた、魚やわかめを収穫することができるのです。

 私たちの心もむさぼり、いかり、おろかさの三毒に燃えて執着して凝り固まってしまうと

迷いの状態にあるといい、逆に坐禅をして静かに心をおさめれば、同じ心がそのまま

仏の心となるのです。何も仏を外に求める必要はない。 

 迷い、固まりがとけて心が静かに穏やかになれば、その心を仏、慈悲と呼んでいるのです。

ですから、三毒の心も仏の心も同じ一念、同じ心なのです。

 それでは、この一念をいかにしておさめていくか?であります。その一番の手だては

迷い、執着が起こる様子を自分ではっきりと観察して知ることです。それが迷いを

離れる方法です。なぜなら、迷っているということは、迷いの中にあって、自分が

迷っていることすらわからない状況をいうのですから。

 こういう風に迷い、執着が起きてくるのかと自分で客観的に冷静に観察をする。

そうすれば執着から離れとらわれることがなくなります。自然と何もひっかかることの

ない穏やかな心になっていく。それが私たちが持って生まれた仏心・仏性です。
 
 本来の心になればあらゆる分けへだて、差別はなくなります。

今の世の中は、憎しみ、ねたみ、報復といった心が凝り固まっている状態です。

凝り固まっているから、お互いに衝突をしてしまう。

 凝り固まったものをといていかなくてはなりません。何ものにも執着しない心を

育てていくことが大切であります。

2015年2月5日

妙な世の中になった

 円覚寺派管長 横田南嶺老師が、昨日、居士林で行われた淡青坐禅会で

提唱されたことをまとめてみました。

 本を読んで学ぶことは決して悪いことではありませんが、しかし、

読んで得た知識に執着してしまったり、とらわれてしまってはいけません。

自分が本を読んで得た知識というのは、全体のほんの一部分でしかない、

全体のわずかな一部分にふれたに過ぎないということがわかるように

ならないと自分の得た解釈だけにとらわれててしまい、執着となり

はてには、他人との争いとなってしまいます。

 詩人・坂村真民さんに「妙な世の中になった」という詩があります。

「妙な世の中になった」

{昔は本を読んだら賢くなったが

今は読めば読むほど

おかしくなる本が多くなった

食べ過ぎ

読み過ぎ

みな何かに毒されて

自己を失ってしまう人が多くなった

薬を飲んで

却って悪くなり

本を読んで

却って気が狂い

妙な世の中になった・・・}

 (坂村真民全詩集第7巻 p151)

 臨済禅師に「人惑を受けることなかれ」という言葉あります。

「何はともあれ、ものについてまわってはいけない」という意味です。

 もちろん学ぶことを全部否定するわけではありません。大事なことは

「学ぶことによって何に気がつき、何を得ていくか?」であります。

 あまりにも様々な情報があふれ過ぎている現代は、まさに

「食べ過ぎ 読み過ぎ みな何かに毒されて 

自己を失ってしまう人が多くなった 薬を飲んで 却って悪くなり 

本を読んで 却って気が狂い 妙な世の中になった」という

真民先生の表現通りとなってはいないでしょうか。

 「人惑を受けることなかれ」が難しい環境です。電車に乗れば

ケイタイ電話などをチャッチャチャッチャといじって、何やら

ああいったものに振り回されて却って自己を見失っているとしか

見えない人たちを大勢見かけます。

 それでも、やはり「人惑を受けることなかれ」です。時には、やはり

ケイタイなどの電気を切って静かに自己を見つめることも大切です。

時には本を閉じて何ものも求めることなく、ただ、自分が今、呼吸している

ことだけを味わって静かに自己を見つめて坐ることが、今日のような

情報社会にあってはますます必要なのではないでしょうか。

 そうでなければ、自分の得たわずかな知識に執着し、とらわれ、はてには

争いが続いてしまいます。

2014年11月6日

地獄から逃れる方法

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-参道-

 横田南嶺老師が昨日、居士林で行われた淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

私たちの煩いや悩みというのは、およそ自分の心のはたらきであり、自分で自分に迷わされて

いるのです。

 三界唯心、迷いの世界は私たちの心が作り出すのです。華厳経に「 心は工(たく)みなる

画師の如し」とあります。ちょうど私たちの心は、絵描きさんのように様々なものを描く。

 おもしろいたとえ話があります。ある人が絵描きさんにきれいな極楽の絵を描いてくれ

と頼みました。次に、凄まじい地獄の絵を描いてくれと言いました。そして両方の絵が

描き上がるとある人は、絵描きさんに尋ねました。「極楽や地獄を描くのに筆を換えたか?」

絵描きさんは「極楽も地獄も同じ筆で描きました。」と答えました。

 そこである人は言いました。「1本の筆で極楽を描くこともできれば、地獄も描くことが

できる。人間の心もそれと同じである。」と。

 私たちが見たり聞いたりしている世界、世間も自分の心が描き出した幻、夢のようなもの

なのです。

 五祖法演禅師(?~1104)は、地獄から逃れる方法は2つあると仰せになっています。

嫌だ!と言って逃げるか、それとも、地獄を楽しんでしまうかです。本当の修行というのは

地獄さえも楽しんしまうことです。

 地獄に行ったら地獄の鬼と仲良くいっしょにご飯を食べてともにお酒を飲んで楽しむように

なれ。そして、地獄といよいよお別れになったら鬼たちから惜しまれるようにして悠然として

出て行けるようになれと。

 この世界に置き換えても同じです。この世界に生まれたからには、地獄のように厳しい状況で

あろうと、この世を楽しんで、好い人悪い人ひっくるめて大勢の人ととにかく仲良くして

最後は大勢の人から惜しまれこの世と別れをするようでなければいけない。

 「地獄に入るも園観(公園、歓楽の花園)に遊ぶが如く」です。私たち住む世界は夢、幻の

世界です。夢、幻とわかった上で楽しんでいくことが本当の修行です。

{平成26年11月5日(水) 淡青坐禅会 臨済録提唱より}

2014年9月4日

紫式部

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紫式部という名前の植物です。白い玉の白式部もあります。素敵な名前をつけてもらって

しあわせものです。黄梅院にて。

昨日、横田南嶺老師が淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 何の姿・形のないものこそ真の仏様です。この虚空・空間は何の姿・形もなくいたるところに

行き渡っている。そういう虚空のような広い心の中に浮かぶものは、雲のごとく幻のごとく

みな移り変わるものに過ぎません。

 そのように移り変わっていく中で大切なものなんであるか?それは、お互い、人と人とが

信じ合うこと、思いやり合おうこと、いくつしみ合うことであり、そういうものを大切に

守っていくことが肝心です。

 私たちは姿・形あるものだけを「これこそ!これこそ!」と思いこんで右往左往していますが

身近なところでは、お互いのこの体も必ず移り変わっていきます。

 それでは姿・形のない真の仏のいのちとはいったい何でありましょうか?

実はそのように問うまでもなく、私たちは姿・形のない仏のいのちを只今、現在生きているのです。

この生きているいのちは生き通しであり、たとえ、姿・形が消えてもずっと生き通しなのです。

 大空を見ると雲が浮かんでは消えて浮かんでは消えてを繰り返しています。どこに視点を置くか

が重要です。浮かんでは消え、移り変わる雲を見て一喜一憂するか、どんな雲が浮かぼうが

消えようが大空には何の違いもないと見ていくか。

 安らかな安心が得られるか、愁い苦悩が起こるかはその違いです。同じものを見ても

雲だけを見れば移り変わりやがては消えてしまうと嘆き悲しむことになるが、逆に

雲がいくら移り変わろうがあの大空はずっと変わることがないと見れば生き通しです。

 この移り変わることない大空こそ我々の本心であると気がつくことが大切であります。

2014年7月2日

求める心

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横田南嶺老師が今日の淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

私たちは坐禅をしたりお経や語録を学んで修行をし、迷いを抜け出ようと一生懸命努力します。

しかし、こうした修行をし悟りを得ようと計らう心こそが生死迷いの元であり、地獄の業を造り出すものであると、臨済禅師はおっしゃいます。

何故でしょうか。

居士林でも、「坐禅中です お静かに」のような貼り紙を外に出したりします。しかし静寂を求め、うるさいと言って分け隔てをする心で周りを見ては、迷いになります。

土は、上を馬が通っても牛が通っても汚いなどとは思いません。この土のように、選り好みしないこと、余計な計らいをしないことこそが無心なのです。

無心は、得ようとして得られるものではありません。

これ以上に一体何を悟る必要があるのか。
求める心を止(や)めよ。

今こうして話を聞いているもの、もって生まれたこのいのちこそ、そのままで十二分に貴いのだ。
そのことに気づくことが大切であると、臨済禅師は説いてくださいます。

2014年5月9日

心は絵師のように

横田南嶺老師が先日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 心が外に向かって働くと迷いの世界を作り出す。ちょうど映画館で映写機が

スクリーンに映像を映し出しているようなものです。ありもしない世界を映し出して

いるのだけれども、我々はあたかもそういう世界があるように思って感動したり

笑ったりする。それらは映写機が作り出す幻影にしかすぎない。

 私たちの迷いの世界もこれと同じで、私たちの心が作り出す幻影にすぎません。

見たり聞いたりして様々なものを心に描いて見とれているようなものです。

大切なのは、その絵を描いているものは何ものか?ということです。

 心の作り出したところの様々な映像に振り回されるのではなく、

その見たり聞いたり感じたりして働いているものはなにものか?

作り主は何ものか?とこころの内に自問することです。

そうするとその作り主は何も足らぬものはないと気がつきます。

不幸な映画を見たからといってその人が不幸になるわけではない。

貧乏な映画を見たからといってその人が貧乏になるわけでもない。

逆に成功した物語を見たからといってその人が成功するわけでもないし

悲惨な戦争物を見たからといってその人が傷一つつくわけででもない。

 私たちのこころというものは何も欠けるものはないのです。

清らかな世界も作ることもできれば、一瞬にしてけがれた世界も作る。

天国も作れば、地獄も作り出す。しかし、これらはこころの作り出す

様々な幻影に過ぎないのです。それに仮の名前をつけて仏だ、菩薩だ

サトリだ、迷いだとよんでいるに過ぎないのです。

 迷いの世界に振り回されずに、「その迷っているものは何ものか?」と

内に問いかける。苦しみに埋没するのではなく、「その苦しいと感じている

ものは何ものか?」と問うことです。

そうして求めていけば、自己本来の仏が光を放ってくる。それのみが真実であり

それ以外は仮のものにすぎないときづくはずです。
 
 

2014年4月2日

心の向きを変える

4月2日(水)
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 法堂跡にて。スズメたちも春の到来を待ちかねていたかのように
仏殿まわりを元気にさえずりながら飛び回っています。
 横田南嶺老師が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 臨済禅師は「今、仏道を修行するものは自らを信じるということが大事である」
と仰せになっています。お釈迦様も「己こそ己のよるべ」「自らを灯火(ともしび)とし
自らをよりどころとせよ」と言われました。
 よりどころとなるのは、各自めいめいの本心・本性のことです。
それは、今、こうして目の前で話しを聞いているもの、これこそが仏なので
あります。それに気づくには心の向きを変えることが必要です。外に向かって働く心を
内に向ける。
 外に向かって働く心というのは、たとえば、今し方、ヘリコプターが轟音をたてて
上空を過ぎる音がしましたが、それを聞いて「あの音はうるさい!せっかく坐禅を
しているのに何だ!」や「あれはいったい何の音だ?何かあったのだろうか?」と
思うのは外に向かっている方向です。
 その流れを変えて自分にこう問いかけてみる。
「その音を聞いているものは何ものか?」と。
そうして心の向きを外から内に変えてみると外の音が何であろうが関心は
なくなってしまうでしょう。
 「今、こうして、聞いているものは何ものであるか?」と自らに問いかけると
「今、こうして聞いているものこそ仏であった!」と気づくはずです。
このことを深く信じることが「自らを信じること」ということなのです。
 こうして信じることができるならもう外の世界に振り回され、惑わされる
こともないはずであります。
(後記)
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 舎利殿の裏手にある六国見山山頂から。山桜が山並みをきれいに
彩っています。向こうに見えるのは鎌倉市街と海です。
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 円覚寺境内・妙香池からみる山桜。

2014年3月5日

いのちのはたらき

3月5日(水)
 横田南嶺老師が淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
人は「悟り」を愛し、「迷い」を嫌います。しかしこの「悟り」というのも
はたまた、「迷い」というのも、単に人が勝手に心に付けた名前にすぎません。
 心には、本当は何も名前はなんかありはしません。ただ、純粋ないのちの
はたらき、こころのはたらきがあるだけです。
 生まれてきた赤ん坊の様子を見ると、わぁわぁと泣いていたり
きゃっきゃと喜んでいたりします。それのどこが悟りでどこが迷い
と言われても、区別はできるものではありません。
 「泣いているところが迷いで上機嫌に笑っているところが悟りである!」
そんな道理は、決してありません。
 泣こうが笑おうが、はいずり回ろうが、天眞爛漫、みんな、いのちの
はたらきでありただ、純粋なこころのはたらきです。
 

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