2015年6月20日

深いいのちの大本ではみんな一つにつながっている。

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ー宗務本所を背景にー

半制大攝心 初日

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 坐禅をするときは、最初、数息観といって自分の呼吸を数えることから始めますが

だからといって、この数を数えることにいつまでも執着してしまってはだめで

随息観といって数すら数えることも忘れて呼吸と一つになっていくことが

肝心です。

 よく坐禅をすれば無(む)になると言いますが、これはただ単に何も無くなるわけ

ではなく、むしろ、平等一枚、みんな、区別差別なくなって、一つながり、一枚になった

世界のことを言います。それを無や空(くう)と呼んでいるのです。

 みんな平等一つながりの世界に目覚めるのが、昔の人の言葉にある「天地同根 万物一体」と

なるわけです。これをたけのこのたとえでいうと、地上からだけ見れば、長く伸びた竹もあれば

短い竹もあり、その姿は様々だが、地面に目を向けてみれば全部一つにつながり合っているという

ことです。

円覚寺開山・仏光国師の有名な「臨剣の頌(じゅ)」の中に「喜得す、人空法

亦(また)空なることを」という言葉があります。私も剣を突き付けているあなたも

みんな一枚、深いいのちのおおもとではつながっている。だからいくら大刀を振り回した

ところで斬ることはできませによという意味の言葉です。

 私たちは、坐禅をして平等一枚の世界を体験して初めて、平等にものを見ることができ

周りのものに対する真の慈悲が出てくるのです。

 お釈迦様は、法華経譬喩品第三の中で「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、

悉く是れ我が子なり」と仰せになりました。一枚になったところから見るとこういうものの

見方が出てくるのです。。

2015年5月26日

臨済の三句、三玄三要

月並大攝心 最終日

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 『臨済録』に三句、三玄三要とあります。これを穿鑿をするときりがない

のですが、私なりに味わってみたことをお話します。

まずは、臨済の三句

 第一句は、もう理論の隙間も入らないところ、それが喝一喝、棒でぴしゃっとたたく

払子を立てる。うんともすんとも言う隙間がない。それではっと気がついた人は仏祖と同じ。

 第二句は迷いを断ち切るはたらき。喝や一棒、それだけではなかなか気づかないから、

趙州の無のように「ムー」とやって迷いを断ち切る。麻三斤や隻手に成り切るのも迷いを

断ち切るため。そうして気がついた人は立派な指導者になれる。

 第三句は、いろいろなたとえ話、解釈、説明をする。五蘊皆空とは何ぞやとか

一切は無常であるとか一一説明をしてようやくわかるようではしょうがない。

 次に三要ですが

 第一句は、真仏・真清浄。心の本体がきよらかで無一物であると気がつく世界です。

第二句は、真法。心の光、仏心・仏性が燦然と光り輝いている世界。

第三句は、真道。処々無碍の光。その時その場で滞りなくはたらくことのできる智慧です。

 われわれの修行でいえば、第一句は、無字一枚になりきる。心の中がからっぽ、一点の自我の

かけらもない世界です。心清浄の極みを体得する。

 そうしてみると第二句の真光明、万事が光の中にあり何とも周りが光り輝いて見え、

何を見ても何を聞いても有り難くなる。ごはんを見たらご飯が有り難く、お茶を飲んだら

お茶が有り難く思うようになる。

 そういう心境になれば、第三句、現実にはたらいていって、どんな人やどんな物事に応対しても、

穏やかで和やかで、ひっかかることなくとえらわれることなく慈悲の光を持って接していくことができる。

 私たちの禅の修行はというと、最初、無になり、そして万事有り難く思い、最後は何に対しても

穏やかに和やかに接していくという順にあるのですが、私は、その順は特にこだわらずにどこから

入っても良いと思います。

 何も見ても聞いても有り難い気持ちから入って、そして、心の本体、無一物に気がつき

最後はいろいろな人に和やかに慈悲心を持って接していくのでもよいですし、あるいは

現実の様々な人と滞りなく、とらわれなく、ひっかかることなく穏やかにニコニコと

接していくことから入って、万事が有り難いと気がつき、そして心の本体は無一物であったと

気がつくこともあると思います。

 この三句、三玄門、三要の三つはもともと一つであって、どこから入っても皆仏様の姿に

他なりません。

 ただ、私たちがこうして修行するからには、真仏の本体をまず体得することがやはり近道です。

真の仏とは、お互いの心において、全く交じり気のない無一物の極みに達した所です。

それを体得するしていただきたいと思います。

2015年5月25日

今ヨリナキ二

月並大攝心 6日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

『臨済録』に出てくる問答です。

{ある僧が問うた、「仏法ぎりぎり肝要のところを伺いたい。」

師は払子を立てた。僧は「かーつ」と一喝した。師は払子でその僧を打った。}
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ー払子(ほっす) もともとインドでは蚊や虻を払うのに用いていたー

 臨済禅師の一喝や何気ない払子を立てるはたらきの中に仏法の大意が見事に

活きています。掃除をしているとき、草を取っているときなど

何気ない日常の動作の一つ一つに仏法の教えが余すところ無く表れています。

 そういうことを頭で考えるのではなくしてピタッと一つになっていく。

というところが臨済禅師の教えの要です。

 昨日、『臨済録』を貫く教えを四つにまとめてお話しました。

一、他所に求めるな。大切なものは自分の外にあるのでない。

二、自らを信じよ。大切なものはこの身に全部備わっている。

三、自ら仏であると気がつけ。

四、そう気がついた人を無事の人という。

 
 それらをさらに一言で言い表したのが喝一喝であり、端的に表現したのが

今日の問答の中に出てくる払子を立てることであります。

 柳宗悦さんが仏法の極意を三つ上げられています。

一、今ヨリナキ二

二、ココニゾアリニ

三、タダコソヨキニ

 今より他はない、昨日の過ぎたことにはとらわれない。仏法は今ここにある。

阿弥陀様はどこにいるのか?今ここに阿弥陀様がはたらいている。天地一杯の

いのちはどこにあるのか?今、ここにはたらいている。臨済禅師が払子を立てる

のはここを表しています。

 それを体得するにはどうしたらよいのか?その答えが「タダコソヨキニ」です。

念仏を唱えるのであれば、ただ唱える。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と

ただ唱える。われわれ禅宗であるならば、ただ坐る。ただ、呼吸をする。

ただ、息を吸い息を吐く。ただ、大地のどん底から息を吸い上げるつもりで吸い込んで

今度は、天地一杯にただ吐き出していく。ただ、天地一杯に成り切っていくばかりである。

 ただ今より他にない、ここにある、ただ行じるばかりである。そこに生きた仏法の

はたらきがある。それを表したのが払子を立てるはたらきに他なりません。

2015年5月24日

天地一枚

月並大攝心 5日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

臨済禅師の教えを要約すれば、次のようになります。

一、もう外に向かって求めるな。

二、自らを信ぜよ。素晴らしいものは自らの内にある

三、あなた自身こそが仏に他ならない

四、そのように気がついた人が無事の人である。

何かを得ようとしているうちは、真の安心、安らぎ、無事は得られない。

なんとはなれば、満足を得ようとあくせくしている自己自身が何とも

不確かな、無常、無我、早晩死を迎えるものにすぎないからです。

 真の喜び真の安心は、自分とこの世界、天地宇宙が一枚になったところです。

一枚になるというのは間違いで、もともと一枚であった、最初から一枚であります。

 私たちは自我意識を起こして自分は世界と別々だと色づけ、考えて迷いを生じます。

天地一枚ということを体得するには、頭であれこれと分け隔て考えるとますます

行き詰まってしまう。

 ですから臨済禅師は「外に向かって求めるのを止めよ」と言っている。外に向かって

頭で考えるのを止めて、下っ腹、丹田に自分の中心があると思って、呼吸をするときは

丹田に気が充実するようにやる。

 そうすると自分と大地とが一体となる。大地よりまるで木が生えているように、

この自分が生じている、大地と地続き一枚であるとおなかに力を込めて体感をする。

それが天地一枚のいのちであります。その天地一枚のいのちのことを端的に表そうと

したのが喝一喝です。もう外に向かって求めるな。自らを信ぜよ。素晴らしいものは自らの内にある。

あなた自身こそが仏に他ならない。そのように気がついた人が無事の人であるといことを

一言でまとめたものがこの喝一喝なのです。天地一枚のじこであることを一文字で

表現したのが趙州の無です。

{吐けば天 吸えば大地と一如なり かくてこの身は 天地一枚}

 吸うときは大地の底から息を吸い上げるがごとく大地と一体。

吐くときは天一杯に広がっていき天と一つになる。そういう気持ちで

丹田呼吸を繰り返していけば、かくてこの身は天地一枚であります。

 この天地一枚になっていれば賓主歴然です。賓の立場になっても

天地一枚、主の立場になっても天地一枚、表舞台で活躍しても裏方に徹して

かくれていてもそのまま天地一枚、元気なときも病気の時も、得意の時も

失意落胆しているときも天地一枚、そこまで納得してこそはじめて

賓主歴然が言えるのです。

2015年5月23日

喝一喝の示すもの

月並大攝心中日

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 『臨済録』に次のような問答があります。

{ ある僧が臨済禅師に問いました。「仏法ぎりぎり肝要のところは何ですか?」

臨済禅師はすかさず「かーつ」と一喝した。}

 質問した僧というのは、仏教学で学ぶべきことを学び尽くした上で

この問いを発しています。それに対する臨済禅師は、もうこれ以上言葉で

示すことのできないところを一喝で示しています。これを言葉で表現しようと

してしまえば、かえって相手を迷わすことになってします。

 「指月」というたとえがあります。あらゆる仏教の教えはお月様を指す

指のようなもの。ところが私たちは指がさしている月(悟り)を見ようとせずに

指(教え)にとらわれてしまう。

 お釈迦様の悟りは、今日のような広い青空のようなものとよくたとえられます。

虚空・大空、天気は、時々刻々移り変わっていく。一日として同じ状態であることは

ない。だから法は無常、つまりいつ生まれるともいつ滅するともわからない、

不生不滅と説くことができます。

 また、虚空・大空はどこかへ去ってしまうこともどこかから来ることもないから

不去不来という言葉で表現できます。あるいは、虚空・大空はずっと永遠に生き通しに

生きている、永遠のいのちであるとも説くことができます。

 さらにこの虚空・大空は太陽の光と空気と相まって私たちを育み生かしてくれる

大きな慈悲のはたらきと説くこともあります。

 しかし、どのこと一つとってもその言葉だけをみていたのでは、いつまでたっても

虚空・大空そのものはわからない。だから、もう言葉で穿鑿することを捨てて

直にこの虚空・大空を見なければなりません。

 直接この大虚空と一枚、一体になっていく。なれというよりも、もともと

大宇宙、大虚空と一枚であります。

 その様子を示したのが臨済禅師の喝一喝です。天地一枚の一喝、いのちです。

大空も譬喩にすぎません。大空よりも広く高く大宇宙にいっぱい充満している

それが喝一喝です。

 大虚空、大宇宙、天地一枚のいのち、不生不滅の仏心、そのものをこれ以上なく

直接表現したものが臨済禅師のこの喝一喝なのです。

2015年5月22日

何を伝えようとしてるのか?

月並大攝心3日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

『臨済録』を読んでいると臨済禅師が矢庭に喝一喝をしたり棒でひっぱたいたり

礼拝したり、あるいは払子を立てたりします。初めての人が読むと臨済禅師が

何をやっているのかさっぱりつかみどころもなく検討もつかないのではないか

と思われます。

 しかし、臨済禅師はそれぞれにきちっと何かを伝えようとして喝一喝したり

棒でたたいたり、礼拝したり払子を立てたりしているのです。

 臨済禅師が何を伝えようとしているのか?これを常に見定めておかねば

なりません。昨日お話した「赤肉団上に一無位の真人有り」はそれを表現した

一つです。各々の体には本当に素晴らしい自分がいる。それは不生不滅、

それでいて何もないかと思えば、いつも穏やかでいつも静かで慈悲に満ちている。

素晴らしいもう一人の自分がめいめいの中にいる。

 伝えたいことを一無位の真人という言葉で表現していますが、その端的をさらに

表現しようとしたのが喝一喝です。

 何ものとも言いようのないもの、不生不滅なるものは何であるか?

 それは、生き通しのいのちであるという言い方もできる。春には草木が花を咲かせ

秋には実をみのらせる。これが生き通しのいのちです。私が今こうして話を聞いている。

これも生き通しのいのちです。

 何とも名前のつけようない、とらえようのない、言葉では表現しようないが

しかし、今、確かにこうして生きている。生きてはたらいているものを何とも

言いようがないので喝一喝に示すしかなかったのです。

 その喝一喝のところに、その生きてはたらいているものを確かにつかんで

もらいたい。そこに生き通しのいのちを確かに感じてもらいたい。

それが臨済禅師が一番伝えたいことなのです。

 それを見て取ることができなければ、何の意味もない禅問答になってしまう。

逆にそれさえはっきりしていれば、これから読んでいく臨済録中の問答も

活き活きとした生き通しのいのちの見事なはたらきとして見て取れることができるのです。

 

2015年5月21日

姿・形のない真の自己

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ー甘茶ー

月並大攝心2日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

姿・形のない真の自己に目覚めることが何よりも大切です。

{形無き 自己に目覚めて 不死で死し 不生で生れ 三界を遊戯}

久松真一先生の歌です。

 姿・形のない、生まれることもなければ、死ぬこともない

常に浄らかで常に穏やかで常に安らかである、いつもニコニコほほ笑んでいて

誰に対しても慈悲の心で接することのできる素晴らしい主人公をめいめいが

備えています。

 それに何とかお目にかかることが肝心です。

 その手段は、単布団の上にしっかりと坐り腰骨を立て、頭であれこれと考えるのではなく

おへその下、下っ腹に重心を置いて気力を込め、只今の一呼吸に成り切っていく。 

 そして無字三昧になれば、万法、主人公、無位の真人があきらかになってくるものです。

2015年5月20日

賓主互換 相手の立場になって

 今朝から円覚寺僧堂では、月並大攝心(1週間の集中坐禅期間)が始まりました。

僧堂師家である横田南嶺老師が今日、提唱されたことをまとめてみました。

 カウンセリングというと患者さんのお話を聴いてなんとかその方の

心を癒す、治療する、もとに戻すというイメージがありますが

しかし、究極のところは、カウンセラーが逆に患者さんからカウンセリングされる、

癒されることだと最近、知りました。

カウンセラーが患者をカウンセリングしてやろうでは、まだまだで、

立場が逆転して、その患者さんにこちらがカウンセリングされて

そうして一つになっていく。

 これを聴いて、 臨済録に出てくる「大悲千手眼のはたらき」そのものだと

思いました。その話は以下です。

 {ある日、師(臨済禅師)は河北府へ行った。そこで知事の王常侍が説法を請うた。

師が演壇に登ると、麻谷が進み出て問うた、「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが本物ですか。」

師はこの問いを受けて、「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが本物ですか、さあ言ってみよ。」

すると麻谷は師をひいて演題から下し、麻谷が代わって坐った。師は麻谷の前に進み、

「ご機嫌よろしゅうございますか。」麻谷はそこで擬議した。

師は麻谷をひいて座を下し、自分が代わって坐った。すると麻谷は何も言わずにすうっと

出て行ってしまった。そこで師も座を下りた。}

坊さんの立場で考えるなら、私たちは修行をして檀信徒を教化すると

思っているが、しかしそれだけではうまくいかない。もちろん、教化に

骨折ることも大切ですが、時にはこちらがお檀家さんの立場になり

檀信徒に教化されることも大事であります。これもこの大悲千手眼のはたらきです。

 そうかといって、簡単に相手の立場に立てばいいのかというとそうでもない。

へたをするとことらがやけど、けがをしてしまうから気をつけないといけない。

 お釈迦様が山上の説法で仰せになったように、「世間は燃えている、五欲で燃えている」

です。世間も人は貪欲、いかり、愚痴の火によって燃えている、もだえ苦しんでいる。

 ですからこちらがはっきりとそこから解脱し遁れ出て、無位の真人を明らかにした上で

なければ、ただ単に相手のところに下りて同調していっしょになって燃えて終わってしまい

かなません。

 「大悲千手眼のはたらき」では臨済禅師はいったん座を下りるがまた、もとの座に戻ります。

これが賓主互換のはたらきの奥深いところです。

2015年4月26日

この只今に安住する

入制大攝心 最終日

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ーサツキー

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

朝比奈宗源老師の言葉があります。「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。

これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に

信じ切らねば井戸は掘れぬ。掘れば出ると思うから骨も折れる。だから我々の修行もそれと

同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」

 人はみな仏心を持っている。これはお釈迦様が難行苦行の末にお悟りになられたことです。

修行をしてそれをはっきりさせるのが大事なところであります。

 お釈迦様も悟り、代々の祖師方もはっきり「人はみな仏心を持っている」と言っています。

ですから、まずは「この私にも仏心、仏性が備わっている」と信じ切ることが大切です。

 仏とはどこにいるのか?臨済禅師は「今こうして生きて、はたらいているものを信じろ」と

仰せになっています。今そこにあなたが坐っていれば、坐っているものが仏です。

今そこで話を聴いていれば、聴いているものが仏です。今そこで歩いていれば、歩いているものが

仏なのです。なるほど「仏とはこれである!」と一念はっきりすることが信であります。

 その信さえあれば仏に成ることにこれ以上近づいたことはない。たちまち信じることができたら

大安楽の境地に到ることができます。今こうして話を聴いている、今こうして足が痛い、

今、こうして風を感じている、「なるほど仏とはここにおったわい!」と気がつくはずです。

 我々は誰もがお釈迦様とも阿弥陀様とも少しも異なることのない仏心を持っています。

 しかし、この尊い仏心を持ちながら、我々は、自分で凡夫、無知蒙昧のものに成り下がり、

そして何ものかを外に求めてしまっている。経典の言葉、偉い人の教え、仏道・・・と

いろいろなものをたよりとしてそれにとえらわれている。それは誠に残念で不甲斐ないことです。

 そこで臨済禅師の「そんなことしていて埒があくか!」と喝一喝が出るわけです。 

各々の仏心に目覚めろという痛烈な手段が臨済の喝であり徳山和尚の棒であります。

 「束縛を離れろ、外に向かって求めるな、自己の仏心を信じ切れ」です。

只今(だだいま)こうして坐っている自分に仏の教えはすでに備わっている。それ以外

ない。外に求める必要はない。この只今に安住する、只今にドン坐るのです。

 只今に全部備わっている、こういう大安楽の気持ちになって生きる、それが

臨済禅師の宗旨の根本です。そのことを信じて行じていき、「なるほど!」と

気がついて、さらにそれを人に対して説いていく。これが私たちの宗旨で

なければなりません。

2015年4月25日

身を殺して以て仁を成す

入制大攝心 6日目
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ー雪ノ下ー

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 自分の心の本心、本性を明らかにする、それが修行の眼目です。

ところが、私たちの心には五蓋(ごがい)といって、本心に余計なものが

覆い被さっている。

 昔から「坐禅をするのは五蓋を除くなり」と言います。五蓋とは、

一、貪欲(とんよく) – おなかがへったら少しでも食べたい。少しでも寝たい、休みたい

二、瞋恚(しんに) – いかり、腹立ち

三、惛沈睡眠(こんちんすいみん) – 心が疲れたて、沈んできて、ぼやっとしたり、とろーんする

四、掉挙悪作(じょうこおさ) – 心がそわそわ、ふらふらして落ち着かない

五、疑(ぎ) – こんなことして何になるにかしらという疑い。

です。それらは決してあなたの本心ではありません。それは本心を妨げている妄念、妄想です。

 さて、「己こそ己のよるべ」「各々が主人公である」という言葉や、臨済禅師の

「随処(ずいしょ)に主と作(な)る」とう言葉も、自分自身の主体性をはっきり言っています。

これをはき違えて、自分の我が儘勝手をすることが主となるということでは決してありません。

 修行に嫌気がさしてしまうような気持ちに覆われたとしても、そんなふわふわした気持ちが

あなたの本心ではない。それは五蓋の一つに過ぎないのです。
 
もし、自己の本心を見ようと思うならば、まず、この五蓋を取り除かなくてはならない。

そして本心に目覚めて正しい智慧を持たなければ、正しい判断はできない。

坐禅もろくに組めない。腰骨一つろくに立てらえない。呼吸一つ定まらないような

状態で何の判断ができますか。

 『論語』に「身を殺して以て仁を成す」とあります。あまり、人にこういう言葉を勧めることは

憚れるものですが、時には自分ばかりの都合を考えることなく、どうあるべきか?を考えなければ

ならないと思います。

 恩に報いるというと古いことと思われるかもしれない。しかし、自分の行いによって

せめて両親や師匠に迷惑が掛かることだけは、慎まなければならない。私も自分のことで

師匠の名前に傷がつくことだけは避けなければならないと思っていたものです。

 恩に報いるというと容易なことではないが、せめて、親や師匠に迷惑をかける、傷をつける、

これだけは守らなければならないことです。

 自分が辛いこと、苦しいことは、少々、耐えて「身を殺して以て仁を成す」です。

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