2015年7月9日

よく調える

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ー山百合(ヤマユリ) 山内・黄梅院にてー

制末大攝心 5日目

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 どんな人も仏心を持っているということは、お釈迦様が説かれた真理です。

しかし、悪いこともしても、何ら反省をしないもいます。そんな人にも

仏の心があるのか?と思われるかも知れませんが、そういう人にも仏心が

あるということはまごうことのないことです。

 仏心とは人間の善悪の世界を超えた大きな働きであるからです。

ただし、お釈迦様は、いかにどんな人にもこの仏心があるとはいえ、

心を調えなければならない、欲望に振り回されてはいけないということを

繰り返しお説きになりました。

 眼でみたもの、耳で聞いたもの、鼻でかいだもの、舌で味わったもの、

体に触れたもの、それら五欲に振り回されてはいけない。

 あたかも杖で牛を飼い馴らすように、牛がよその畑に行って勝手に他人の

作物を食べないように。常に杖で持って制御する、調御するようなものです。

 五欲をほしいままにするほど恐ろしいものはない。自然災害は一時的なもの

ですが、五欲による禍は一瞬では終わらない、一代限りでも終わらない、

禍は累世に及んでしまいます。

 火山噴火、地震、洪水と自然災害は怖ろしいものですが、しかし、

最も恐ろしいものは、制御することができなくなった人の心こそ

恐ろしいものはありません。

 同じ一つの心が、よく調えておけば仏になり、五欲をほしいままにすれば

魔にもなる。そこのところを私たちは、よく弁えておかねばなりません。

2015年7月8日

一切唯心造

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ー山百合(ヤマユリ) 山内・黄梅院参道にてー

制末大攝心 中日

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 私たちがどのように迷いの世界を転じていくのかを盤珪禅師の言葉を

もとに説明してみたいと思います。

 盤珪禅師は「不生の仏心」ということを説かれました。皆、銘々、

親から産みつけてもらっている、生まれ備わっているのは不生の仏心である。

この不生の仏心が備わっていることに気が付かない故にものに迷ってしまう。

 この不生の仏心、霊妙不可思議な仏心が自分に備わっていることを知らない、

これを愚かさという。その為に外の世界に迷ってしまう。

 盤珪禅師はまた、修行ということは、この自分の体において尊くてけがれのない

仏心がどのようにして迷いを引き起こしていくのかをよく批判をして観るべきだと

お説きになっています。

 この本来は仏心である心がどのように迷いの世界となり悟りの世界となり、

浄土となり穢土となるのか?この原因を盤珪禅師は、自分の身の贔屓(ひいき)にある

と言い表しています。いわゆる、依怙贔屓です。外のものよりもこの自分の身を

贔屓する、可愛がる。

 しかし、贔屓の根本を見てみるともともと生れついた時は人を憎んだりねたんだり

するなどの悪念は毛筋もなかった。生まれた時は仏心一枚であったのに成長するに

従って悪念がついてきて人々を憎しみねたむ思いが湧いてきて地獄の心を作り出す。

 自分を可愛がることから、他人を認めない、他人を気に入らないという思いを

起こし本来持って生まれた尊い仏心を地獄に変えてしまう。

 また、人に腹を立てて怒りの心に燃えてしまうのも、この尊い仏心を一瞬のうちに

修羅の道へと変えてしまう。また、あれが欲しい、これが欲しいもっと欲しいという

欲望が私たちに尊い仏心を一瞬にして餓鬼の世界に変えてしまう。

 さらに、いつまでも「こんなはずではなかった」と後悔し、「これから

どうなるだろう」とあとでなく思い迷うことで私たちの心に畜生の世界を

作り出してしまう。

 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道輪廻の世界も本当のところ

皆、私たちの一心がこの世界を作り出しているのです。「一切唯心造」とは

ここの所を言っています。

 本来はきれいな心を持って生まれてきたにもかかわらず、外からの縁や

様々な習慣によって尊い仏心を自分で地獄、餓鬼、畜生に変えてしまっている。

 盤珪禅師は、この様子をよく観察し分かれば良いと説かれているのです。

2015年7月6日

迷いと悟りの違い

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制末大攝心 2日目

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 迷いと悟りの違いとは何でしょうか。迷っている人も悟っている人も外から

見たら同じように道を歩いている。悟った人は今こうして歩いているものこそ

仏であると気が付いて喜んで歩いている。一歩一歩を喜びをかみしめて歩きます。

 それに対して迷っている人というのは、こうして一生懸命に歩いていけば

そのうちどこかに悟りがあるかしらと思って歩いている。

 外から見たら同じように見えますが、その心の有り様によって

迷って歩いているのか、悟って歩いているのかの違いだけの話なのです。

 今、こうして歩いているものが仏の命そのものである。

今、こうして一呼吸一呼吸しているものが仏の命そのものである。

今、こうして話を聞いているものこそ仏の命そのものであります。

 このように気が付いてそれ以外に自分の外に仏だの悟りだというものを

求めることがないことが大切です。

 もし、とりわけ特別なことをして仏に成れると思ったならば、

例えば、念仏をしたら、やがて仏に成れるや、一生懸命写経をしたならば

仏に成れるなどというように、それらはみな、あくまで本心に気が付き

目覚める為の行(ぎょう)であるということを知らねばなりません。

 坐禅であろうと写経であろうと念仏であろうとみな本心に目覚める為の

一つの手段であり、それ自体にとらわれてしまっては本末転倒になって

しまいます。

 どれだけ長い時間坐ったら仏に成れるとかどれだけお経を書いたらば

仏に成れるとかどれだけ念仏を唱えたならば仏に成れるとかいうように

その行にとらわれて仏を求めたならば、その素晴らしい本来の仏ですら

迷いの張本人となってしまいます。

2015年7月5日

浩然の気

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ー半化粧(ハンゲショウ) 山内・黄梅院にてー

今日から、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、制末大攝心(1週間に及ぶ坐禅集中修行期間)に

入りました。

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 お互いのこうしてしている一呼吸一呼吸ですが、吐く息も吸う息も

もうこの大宇宙いっぱいの気を呼吸しているのであります。

 『孟子』という書物に浩然の気という言葉が出てきます。

「我れ善く吾が浩然の気を養う。・・・その気たるや、至大至剛以て直。

養いて害すること無ければ、則ち天地の間に塞がる。」

 この心というものは、この上なく大きくこの上なく広い。ただ、まっすぐな

素直な心で、余計な考えや思いを交えないようにしてそのまんまに

養っていけば、この気というものは自然と天地に満ち溢れるものである

と説かれています。

 この一呼吸一呼吸が天地いっぱいの一呼吸である、こういうところに

目覚める、気づくことが大事であります。

2015年6月26日

6月28日は円覚寺を再興した大用国師のご命日です。

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ー江戸時代後期、円覚寺を再興した大用国師誠拙禅師の頂相ー

半制大攝心 最終日

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

これは逸話であり、言い伝えでありますから、どこまで本当かはわかりませんが、

大用国師誠拙禅師(江戸時代後期の禅僧)は、26、7歳の時に白羽の矢が立って

円覚寺へ招かれて行く。その若さの誠拙に当時、どてらを着て博打をするものも

いるほど荒廃していた円覚寺を再興しろと言われてやってきたのだ。

 誠拙はそのあまりにひどい様子に落胆して師匠である月船和尚のところに

帰ってしまう。帰ってきた誠拙を見て、師匠は一言「お前さんを見損なった」と。

その一言で誠拙はお師匠さんの意図がわかった。

師匠は、どういうわけで自分をあんなに荒廃した円覚寺に送りだしたのか?

誠拙にしてみれば、あんなひどいお寺を再興することは不可能だと思い

師匠の月船和尚にしてみれば、そんなひどいところだからこそ、あなた

誠拙にしかできないと送り出したのにそれをおめおめと逃げ帰ってきて、

見損なったと思ったのだ。

 誠拙は師匠のその気持ちを察して、踵を返して円覚寺に戻り再興に

心血を注ぐ。それから10年の歳月が経ち僧堂(修行道場)の基盤が

作られ、修行道場がはれて開かれたのが、誠拙36歳の時でした。

2015年6月25日

報身仏

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ー僧堂 宿龍殿前の水甕に中に咲くスイレンー

半制大攝心 6日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 お釈迦様の悟りの世界は、本来、姿・形がなく、言葉では表現できない

純粋ないのちそのものでありますが、それでは一部の人にしかわからない

というので、どんな人にもわかるように姿・形を作って物語をつけてあげたのが

阿弥陀如来や観音菩薩、薬師如来などの報身仏です。

 その姿を見てその物語を聞けば誰でもお釈迦様の悟りの内容がわかるように

できている。阿弥陀如来は無量、不生不滅のいのちを表しているし、観音菩薩は

限りない慈悲を表しています。

病気で苦しんでいる人、誰も看取る人がいなくて苦しんでいる人に

そこに薬を持って駆け付けて看病してあげたいという慈悲の心、悟りの心を

わかりやすく表したのが薬師如来です。

 このようにお釈迦様の悟りの世界を具体的な姿と物語で表したのが報身仏なのです。

 それらはもとをただせば本心本性であるから、私たちの心の本体なのです。

今、目の前でこうして話を聞いているその心の素晴らしさを表しています。

銘々、こうして話を聞いている心が観音様や薬師様のような素晴らしい心と

なって働くのです。

 銘々の心がそのまま無量の阿弥陀様そのものなのです。

2015年6月24日

一大事因縁

半制大攝心 5日目

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 原始仏典にお釈迦様が説かれた「山上の説法」というものがあります。

「比丘たちよ、一切は燃えている。熾然として燃えている。なんじらは、

このことを知らねばならぬ。・・・眼は燃え、眼の対象は燃えている。

耳は・・・、鼻は・・・、舌は・・・、身は・・・、意は・・・。

それは貪欲(むさぼり)の火によって燃え、瞋恚(いかり)の火によって燃え

愚痴(おろかさ)の火によって燃え、生・老・病・死の焔となって燃え、

愁(うれい)、苦(くるしみ)、悩(なやみ)悶(もだえ)の焔となって

燃えるのである。」

 また、原始仏典がもととなりそれより後の時代に成立した大乗経典である

法華経には「三界は安きことなし、猶火宅の如し。衆苦充満して、甚だ畏怖

すべし。常に生老病死の憂患あり。是(かく)の如きの火、熾然として

息(や)まず。如来はすでに、三界の火宅を離れて寂然として閑居し、

林野に安処せり。今、此の三界は、皆我が有なり、其の中の衆生は、

悉く是れ我が子なり、而も今此の処は諸の患難多し、唯我れ一人のみ、

能く救護を為す。」とあります。

 お釈迦様が仰せになりたいことは、「三界が燃えているから救わねばならない。

救うということは、その中にいる一人一人がむさぼり、いかり、おろかさの火に

自分が燃えているのだとまず気が付かねばならないということです。

ほとんどの人は自分が燃えていることすら気が付いていない。

 それに気が付いたら「三界の火宅を離れて寂然として閑居し林野に安処せり」

です。それが我々のこの坐禅の修行です。しかし、修行をしてそこで終わって

しまってはいけない。苦しんでいる三界を他所に自分だけ逃れて涼しい顔を

していたのでは法華経の教えではありません。

 「今、此の三界は、皆我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ我が子なり」

とあります。三界は「有」である、つまり自分のもの、自分の家である、

その中で衆生は今、火がついて苦しんでいる。のたうち回って苦しんでいる

一人一人が我が子である。それを救ってあげなくてはならない。

 法華経の中に「大事因縁」ということが説かれています。

「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと

欲するが故に、世に出現したもう。・・・是れ諸仏は唯一一大事因縁を以ての

故に世に出現したもうとなづく。」

 僧堂に長いことゴロゴロとしていて、公案を一通り終わったからといって

大事了畢だとその後をのんびり暮らしておればよいのではない。

むさぼり、いかり、おろかさに人々が燃えているのをほおっておくことが

できますか。今の時代を見て小さいところでは家庭、近所、街、大きいところでは

国と国との間で憎しみ、妬み、いかりの火に燃えているではありませんか。

 燃えている人を救うということは、その人に「仏知見を開かしめ清浄ならしむ」

ことに他なりません。一人一人に智慧の眼(まなこ)、仏心の眼を開かしめ

もう外に求めるのをやめて、お互い憎しみに振り回される必要がないという

真理に目覚ましめることです。これが一大事因縁です。

 お寺が何やら歌ったり踊ったりなどのイベントをしていて、気を付けなく

てはならないことは、ともに燃えてしまいかねないかということです。

 それには、まず、自分自身の仏心の眼がいかなるものかはっきりとさせて

自分だけに終わらずに、三界は火宅の如しですから、まさに燃えている一人一人に

仏知見を開かしめる、それが我々がこの生涯をかけて取り組まなくてはならない

一大事因縁です。

 

2015年6月23日

今尋ねているものは何ものか?

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ー蔵六庵入口より仏殿をのぞむー

半制大攝心 中日

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 臨済禅師や唐に時代の修行の様子というのは、自分の本心本性を看よという

ことを直接説かれました。時代を経るにつれて、その為にはどうしたら良いのか?

ということで、坐禅や呼吸を調えることや数息観、随息観、公案などが段々と

増えてきました。

 しかし、それらが増えてきて、枝葉末節にとらわれて、今度は一番のおおもとである

本心本性をあきらかにすることが疎かになっていやしないかです。

 臨済禅師1150年の遠諱が来年に近づいていますが、臨済禅師に対する一番の報恩底は

このおおもとである本心本性に私たちが気が付くことであります。

 唐の時代のお話です。大珠慧海禅師が馬祖道一禅師のところに修行に行きました。

馬祖云わく「どこから来たのか?」慧海答えて「大雲寺より来ました」

馬祖云わく「何しに来たのか?」慧海云わく「仏法を求めて来ました。」

すると馬祖は「あなたは素晴らしい宝を持っていながらそれに気が付かずに

いったい、何を求めようというのか?私はあなたに教えるようなものは

何もない。」と言われました。

 そう言われても慧海にはさっぱりわからない。そこで「私の中にある宝とは

いったい何ですか?」とお尋ねになりました。

 馬祖答えて云わく「今、あなたは私に何でしょうか?と訊いている。

その訊いているものこそ、あなたの素晴らしい宝である。

そこにあらゆる仏法がすべて備わっていて何も欠けるものはない。

そんな素晴らしい宝を持っていながら何を自分の外に向かって求めようというのか?」

 そう言われて慧海は「今、尋ねようとしたものは何ものであるか?」と自分の内側に

向かって求めた。それで一変に宝である本心本性に気が付いた。

 己の心に三世の諸仏も歴代の祖師もあらゆる仏法もすべてが備わっていて

何も欠けたるものはない。何も外に向かって求める必要はないと、こう気が付いた

のでした。

 昔の人の修行はこういうものです。こういう心こそが禅の本質であります。

 坐禅をするのも数息観をするのも無字の工夫や公案をするのもみんな己の

本心本性をあきらかにするためです。この訊いているものは何ものか?

この一字をあきらかにする以外にはない。

2015年6月22日

大海原を観よ

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ー仏日庵の白壁を背景にー

半制大攝心 3日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

『臨済録』に「古(いにしえ)の先徳の如きは、皆人を出(い)だす底の路有り」という

言葉があります。この「人を出だす」には、人を迷いの世界から出してあげる、導いて

あげるという意味があります。

 様々な方法を用いて迷いの世界から出してあげる一つの方法が我々の坐禅です。

手を組み足を組み腰を立てて呼吸を調え、長く息きを吐く。これらはみなすべて

心の本性本質に気が付かさせる為の道の一つなのです。

 心にあれこれと思いが浮かんでくる。多くの人は、その浮かんできた思いが自分自身であると

思い込んでしまっている。そして自分探しなどといって浮かんできた思いを追い求める。

浮かんできた思いの中のどれが本当の自分かと探し求めても、どれをみてもそれは

一つの映像にしかすぎません。その時の状況によって浮かんできた一時の思い

にしか過ぎないのです。

 たとえば、それらの思いは、大海原にぽかぽかと浮かんでくる一つ一つの泡のような

もので、それらにいちいちとらわれ引きづりまわされるてはいけません。

 私たちの見性・解脱の道は、その泡が浮かんでくるおおもとの大海原を観るところに

あります。

 それで坐禅をし、数息観をする。これは頭の中に浮かんでくる様々な思いに自分が

とらわれ引きずりまわされないようにする訓練のようなものです。呼吸を一生懸命数えて

おればいろいろな思いが浮かんできたとしても3~4分と長く続く思いはないのです。

みな一時的で生じては滅していきます。

 よく無常という言葉が言われますが、それはさかんだった平家が滅びたとか立派だった建物が

朽ちたというような歴史物語や物の世界や外の世界のことばかりを言っているのはありません。

それでは心の解脱にはつながりません。

 この心が無常なのであります。自分の観念、思いがこれが無常なのだと観ていかねば

なりません。ずっと思い続けているような念はありはしないのです。みな浮かんでは

消えていく。この心の流れの上において、浮かんでくる思いは、ただ、生じては滅して

だけのものです。この生じては滅し終わったところにもとの本体である大海原のごとき

本心本性に目覚めたならば、それが涅槃寂静であり、

お釈迦様の教えの根本なのです。

 実際に心の細かい変化をじっと見通していくのが修行の本質です。

諸行無常の「行」というのは、単純に物の世界や外の世界と訳していいものではありません。

心の変化も含まれるのです。お互いの心の変化をよく見続けていってこれは一時的で一過性の

映像に過ぎないととらわれないことです。

 様々な思い考えというものは、生じては滅っするものに過ぎない。この生滅が終わったところに

大海原のような私たちの本心本性、微動だにしないところに気が付き目覚めるのが涅槃寂静

本当の安らぎなのです。

2015年6月21日

今、女(なんじ)は画(かぎ)れり

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ー山門2階から仏殿をのぞむー

半制大攝心 2日目

横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 自分にとって不遇であり不快な状況こそ今まで培ってきた修行の力を試す好機となります。

嫌だ嫌だといってこの状況から逃げようとすればするほど苦痛は多くなるもの。

こういう時こそ「よし!もうこうなったら」と肚をそえてこの逆境の中にドン坐ることが肝心です。

 釈宗演老師も言われたごとく「この三千世界を伽藍となして大きく坐れ!」の気構えです。

小さな単布団の上にチョコンと坐るのではなく、この天地・大宇宙をひっくるめて

一枚の単布団として坐れです。その上で自分がこの天地の主人公となったつもりで

微動だにしない。こういう覚悟でドン坐るのです。

 我々がいつも素読をしている『論語』(雍也第六)に

「冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず、力足らざればなり。

子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女(なんじ)は画(かぎ)れり」

とあります。

 孔子は、自信をなくしている弟子に対して

「それは、あなたの力が足りないからではない。今までこうして修行をしてきたことは

あなたが十分に力がある証拠ではないか。ただ、あなたが自分で自分の能力に見切りを

つけてしまって、自分はダメであると思い込んでいるに過ぎない。」と励ましています。

「今、女(なんじ)は画(かぎ)れり」あなたの心の可能性は、無限大なのに自分で限りを

してしまっている。そこに気づきなさいと。

 私たちの心の可能性は無限大であります。志を奮い起こして坐禅に参じてもらいたいと

思います。

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