2019年3月17日

花園大学卒業式 三月十六日 総長祝辞

本日はご卒業おめでとうございます。新しい元号に変わるという新しい時代に旅立ってゆかれる

皆さまに心よりお祝い申しあげます。

花園大学は仏教の中でも、臨済宗、臨済禅のこころを建学の精神としています。

臨済という方は、恒に自ら主体性を持って生きるように説かれました。

どんなところであろうと、そこで自ら主体性を持って生きてゆくことが、

真実の道だと説かれています。
 
最近、ある書物を読んでいてこんな言葉が目に入ってきました。

「アメリカ合衆国から自分第一(ファースト)という個人主義が

輸入されて恐ろしい勢いで跋扈しはじめた。

この思想の勢いは防止することができない。

ナニモ個人主義カニモ個人主義といちいち自己を中心にして割り出す。

これが高じてくると危険思想にもなるのです。」 というものであります。

 これは今読んでも何の違和感なく受け入れられるのですが、実は今からちょうど

百年前一九一九年に出された本にある言葉です。

著者は、本大学の第二代学長である釈宗演老師という方です。

百年前から自分ファーストという言葉を用い、個人主義の危険性にまで指摘さられていることに驚きました。

自分を大事にすることは必要ですが、あまりに自分ファーストでは行きづまります。

 釈宗演老師は、「自分ファースト」という思想に対して、日本人の思想として

中心にならなければならないのは感恩の精神、

おかげさまと恩に感ずることと説かれています。

 自分一人で生きているのではない、大自然の恵みや、

多くの人のおかげさまで生きていらえると気がつくことによってこそ、

大きな力を得られるものであります。

 どうぞ、このおかげさまでという心を持っていただきたいと思います。

そして皆さまに前途洋々たる未来の開かれんことを願っています。

2019年3月7日

大用国師誠拙周樗禅師二百年大遠諱報恩大摂心


三月四日から、円覚寺僧堂において大用国師二百年の大遠諱の報恩大摂心が行われています。

関東地方の僧堂、建長寺、瑞巌寺、平林寺、龍沢寺、臨済寺向嶽寺、の六つの僧堂の雲水が

集まって摂心を行っています。

五日には、大用国師の語録『忘路集』を開講して六日には鎌倉市内を托鉢し、

夢窓国師のお寺である瑞泉寺様にお参りしました。

そのあと点心を東慶寺様でいただきました。

2019年2月15日

涅槃会


 今日、円覚寺仏殿では、横田南嶺管長をはじめ、和尚、雲水が参列し

涅槃会(お釈迦様のご命日法要)が厳かに営まれました。

涅槃会にあたって横田南嶺管長が作られた偈(宗旨をうたった漢詩)。

意訳

 あらゆる徳を具え、光り輝く身体をもった

お釈迦様は、この日にお亡くなりになった。

 人間界も天上界も皆悲しみにくれた。

 しかし、涅槃の道には、生まれることも死ぬこともない。

寂滅の場である沙羅双樹には、また、春が来て花が開くであろう。

2019年2月4日

僧堂 沢庵漬け


 今日、円覚寺僧堂では、午後3時頃から、沢庵漬けの作務が行われました。

この大根は、1月に行った三浦半島での大根托鉢で供養いただいたもので、

現地の円覚寺派のお寺の境内で数週間、干させていただいた後、

今日、軽トラックでそれを取りに行き、僧堂に搬入をしたものです。

大根のへたを切る作業をする雲水さん。


横田南嶺老師が、大根をきれいに敷き詰め、ぬかをかけて、段々に積み重ねていく

作業をしています。

ぬかに入れる塩の量で、塩分が多く長期保存が可能な長漬け、中漬け、浅漬けと

3種類の樽を作っていきます。


 添加物や保存料が一切入っていない沢庵漬けは、素朴な味でとても美味しく、

1年を通して、僧堂の食事に出されます。

2019年1月14日

成人式を迎えられた皆様へ (管長よりお祝いの言葉)

【「成人祝賀の会」が1月14日に円覚寺大方丈においても開かれました。以下は、横田南嶺管長より成人式を迎えられた皆さんへ贈られたお祝いの言葉です】

成人式の法話

 皆さん、成人おめでとうございます。本日は多くの方からおめでとうとお祝いいただいていると思います。私達も心からお祝い申しあげます。
 不思議なこともあるもので、最近自分の勉強の為にと、茨木のり子さんの詩集を読んでいました。すると、今ちょうど読んでいた詩が、今朝の毎日新聞のコラムで新成人に送る言葉として紹介されていたのです。全くの偶然ですが、こういうこともあるものです。
 どんな詩かというと、一部紹介します。

 大人になるというのは
 すれっからしになるということだと
 思い込んでいた少女の頃
 立居振舞の美しい発音の正確な 
 素敵な女の人と会いました


 という一節から始まります。大人になるということは、経験を積んで人格を完成させるというよい意味と共に、純粋さを失って世間に馴れてしまうと悪い意味で使われることもあります。「すれっからし」というのは、世慣れした悪い意味です。 でも詩人の茨木さんは、ある女性との出会いから教えられたというのです。何を教えられたかというと、

 初々しさが大切なの 
 人に対しても世の中に対しても
 人を人とも思わなくなったとき 
 堕落が始まるのね
 堕ちてゆくのを
 隠そうとしても 
 隠せなくなった人を何人も見ました


 何事も慣れるということは大事ですが、初々しさを失ってしまうと、大切なものを見失ってしまうことになります。そこで次のように茨木さんは詠いました。

 大人になっても
 どぎまぎしたっていいんだな
 ぎこちない挨拶 
 醜く赤くなる 失語症 
 なめらかでないしぐさ
 子どもの悪態にさえ傷ついてしまう 
 頼りない生牡蠣のような感受性
 それらを鍛える必要は
 少しもなかったのだな


 という事に気がつかれたのです。そして更に言いました。

 あらゆる仕事 
 すべてのいい仕事の核には
 震える弱いアンテナが隠されている 
 きっと……


 初々しい、純粋な心を失わないでいることが大切だと思います。慣れてきて純粋さを失うことが大人になることだとは思って欲しくありません。

 新聞のコラム記事には、もう一つ茨木さんの詩が紹介されていました。
「倚(よ)りかからず」という七十三歳の時の詩です。

 もはや できあいの思想には倚りかかりたくない
 もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや  できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない
 ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば それは 
 椅子の背もたれだけ


 という詩です。私どもは禅の教えを学んでいるのですが、この詩は禅の教えにも通じるところがあります。既存の思想や宗教など、なにものにも寄りかからずに、自分の目で見て自分の耳で聞いて、自分の足で立つのです。寄りかかるのは椅子の背もたれだけだと茨木さんは詠いましたが、その背もたれにも寄りかからずに、腰骨を立てて姿勢を正して生きてまいりたいものであります。

 姿勢を正して、心のうちからあふれてくるのがまごころです。それを「至誠」と申します。この偽りのない誠の心をよりどころとして欲しいと願います。そんな思いで皆さまに「至誠」の二文字を色紙に揮毫しましたのでさし上げたいと思います。
式典に先立ち 新成人ほか参列者で読経管長のご法話新成人代表のお二人より感謝の言葉大方丈前にて記念撮影:『至誠』の色紙とともに

2019年1月3日

大般若転読


 横田南嶺管長が元旦に仏殿にてお唱えになった歳旦の偈。

お正月の3が日は、開山堂と大方丈にて、大般若転読の祈禱の儀式が行われました。

開山堂での大般若転読の様子。


大方丈での大般若転読の様子。

2019年1月1日

僧堂 歳旦の儀式


 円覚寺僧堂では、元旦の2時半から歳旦の儀式が行われました。


杖を持ち、歳旦の偈(宗旨をうたった漢詩)をお唱えになる横田南嶺老師。


歳旦の偈。

賀扇三拝。

横田南嶺老師の新年にあたってのご垂示。


祝礼。梅茶と蓬莱(ほうらい)と呼ばれる柿、栗などのお菓子が出されます。

2019年1月1日

僧堂 新年初の朝課


 歳旦の儀式引き続き、新年初の朝課(読経)となります。


 韋駄天の前で読経する雲水。

 回向文を読み上げる雲水。

 寒さの為、読経中は、白い息となる。

 魚鱗(木魚)を打つ雲水。

2018年12月27日

僧堂 餅つき


 今日は、夕方から、円覚寺僧堂では、毎年恒例の餅つきが行われました。

横田南嶺老師や雲水さんなどが、お正月に向けて、鏡餅や伸し餅を作りました。

四人一組で杵でのこねの作業。

せいろのもち米を均等にのばしています。

鏡餅を作る横田南嶺老師。

よいしょ!の掛け声の中、餅をつく雲水。

釜にお湯を足す雲水さん。


出来上がった鏡餅を整える。

釜からせいろを持ち上げる。


掛け声を掛ける雲水さん。


つきあがったばかりのお餅をきな粉、あんこ、大根おろしをつけて食べます。

2018年12月8日

成道会


 今日、円覚寺・仏殿では、10時から成道会(お釈迦様のお悟りを開かれた日を

記念する法要)が行われ、横田南嶺管長をはじめ、臘八を終えたばかりの雲水、和尚、また、多くの

一般参列者が集まり、法要が厳粛に営まれました。

管長が大定力で唱えた成道会の偈(宗旨をうたった漢詩)。

意訳

お釈迦様は、身を正して山のそびえるように坐ったが、まだ、迷いの夢から

目覚めてはいない。

 臘月の明け方に明星をご覧になられた。その星のきらめく光が澄み渡って、

お釈迦様の眼に届いて悟りの眼が開けた。

 山を下りてきてみれば、なんとどこもかしこもすばらしい香りに満ちている

ではないか。

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