2014年12月7日

涼しい風

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-山門と紅葉-

臘八大攝心 最終日

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

「相送って門に当たっては脩竹あり 君が為に葉葉清風を起こす」という言葉は

禅の世界ではよく出てきます。

道元禅師も本来の面目、本来の自分と題して

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」という歌を詠んでいます。

この歌の最後の「すずしかりけり」が素晴らしいといわれたのが坂村真民先生です。

真民先生の詩にはこの涼しさを詠っている詩がいくつかあります。

 {仏教は涼しい風である

 涼しい人 それが 仏身である}

良寛さんの詩は涼しい 一遍さんの念仏のすずしい

西行も芭蕉も きれをもっている

私もこの涼しさが好きである。

 真民先生には「涼しい風」に関してこういう逸話があります。真民先生は40代の頃、四国・宇和島の大乗寺に

毎朝、坐禅に通われていた。たまたま、そこにアメリカの青年が来た。真民先生は「どうして

こんな四国の片田舎にアメリカの青年が禅をやるためにやって来たのか」と不思議に思って

いた。

 ある時に地元の宇和島城を案内していたら、城に上る途中にあった竹林のとこで

その青年が立ち止まってじっと竹を見ている。そして真民先生の方に振り返って

何を言い出すのかと思ったら「これがわかるか?」と言った。

 するとその竹林から涼しい風が吹いてきた。そして、その青年は「この風が禅だ」と

言いいました。真民先生はびっくりしてこんな青年はもう日本をさがしてもどこにも

いないだろう、アメリカの青年だからわかるまいと決めつけてはいけないと反省

させられたそうです。

 もう一つ、真民先生には「涼しい風」に関して忘れられない話があります。

戦後間もないたいへんな時代に真民先生家族は四国に移ることとになってはじめて

真民先生のお母さんを九州から連れて行くことになりました。四国渡る船は小さな

木の船で夜通し揺れている。真民先生の3ヶ月の赤ん坊は泣いてまわりの人からは

うるさいと責められて夜一睡もできない。

 ようやく四国の港に着いて、普通ならこれだけたいへんな思いをしたのだから

えらい目にあったとかと愚痴の一つもでるところ、真民先生のお母さんは一言

「御大師さんの国の風は涼しいね」と言われたのです。

 この涼しさが禅であり仏であります。真民先生の詩の大きな柱の一つになっている

ものであります。

(後記)

 明日は、成道会(お釈迦様がお悟りを開かれた日)です。

円覚寺では、午前10時から仏殿に於きまして

円覚寺派管長 横田南嶺老師をはじめ和尚様、臘八大攝心を終えた雲水さんが

出席をされて盛大な儀式が行われます。どなたでもご自由の拝見することができます。

 皆様のご来山をお待ちしております。

 
 

2014年12月6日

その人が光ってくる

臘八大攝心 6日目

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

滋賀県彦根にある摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。

 その昔、また諸国を修行して歩いていた大師が、挫折しそうになって、この峠にさしかかったとき、

白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、

斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと気がついた大師は、自分の修行の未熟さを恥じ、

さらに修行に励んだというものです。

 後に再びその場所を訪れた大師が詠んだ歌が

「道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし 人もこそあれ」

です。
 
 我々の修行もこうして円覚寺開山・無学祖元禅師の語録を読んでいると、なお、この上があるか

なお、この上があるかと実感をさせられます。しかし、ただ、呆然と仰ぎ見て立ちすくんでいるのでは

意味がありません。

 今、こうして我々がやっていることは決して無意味ではありません。

 坂村真民先生に「鈍刀を磨く」という詩があります。

{鈍刀をいくら磨いても 無駄なことだというが

何もそんなことばに 耳を借す必要はない

せっせと磨くのだ

刀は光らないかも知れないが 磨く本人が変わってくる

つまり刀がすまぬすまぬと言いながら

磨く本人を 光るものにしてくれるのだ

そこが甚深微妙の世界だ

だからせっせと磨くのだ}

 我々の修行もかくのごとくです。自分らのようなものが修行をしたって仏光国師や祖師方には

到底及ぶまいが、せっせと磨けば、刀は光らない合かもしれないが磨く本人を光るものにしてくれる。

 公案(禅の問題)もわかる、わからないにあまりとらわれてはいけない。それよりも一生懸命

一呼吸、一呼吸の無字に没頭する。わかる、わからないではなく、一呼吸一呼吸、一生懸命に

拈提していけば、その人が変わってくる、その人が光ってきます。

 だからせっせと磨くのです。

<後記>
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本日午後一時から円覚寺の方丈で、臨済会主催による「禅をならう会」が催されまして、
南嶺老師が仏光録を提唱してくださいました。
お寒い中70名程の方々にご参加いただきました。
ご来場賜りましてありがとうございました。

2014年12月5日

光と闇

臘八大攝心 5日目

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 この臘八大攝心で提唱しているのは、円覚寺開山・仏光国師・無学祖元禅師の御修行時分の

話です。この時代の禪僧の中でもご自分の修行時代の体験をこれほどつぶさに記しているのは

他に例のみない程で外の世界からも注目をされています。

 仏光録(無学祖元禅師の語録)を拝読するとどこでどういう人に会い、そこでどういうふうに

修行をしてどのような体験をしたのかがつぶさに書かれています。それは私たち、今日修行するもの

にとっても、今読んでも全く色褪せるものではございません。

 物の世界、科学の世界の実験か何かであるなら、何百年前の資料といのは今日においては

ほとんど役に立たないでしょう。しかし、私たちの世界においては、この宗教体験というもの、

修行の上における実体験というものは、700年前の仏光録を今読んでも、全く色褪せることが

ない。これは宗教、心の世界の素晴らしいところです。

 仏光国師はたいへんな苦労をして宗教体験をされました。光と闇と申します。

 光というものは闇がなければ、光はありません。悟りというのも迷いがなければ、悟りもない。

悩み苦しみがなければ悟りという喜びもないのです。何の問題意識もない、何の悩みもない

ところに、どこかから悟りがふってくるという道理はないのです。

 必ず陰と陽の法則です。悩みが深いほど大きなものが得られるのです。仏光国師は17~22歳の、

普通の人なら青春を謳歌しているとき、人間のもっとも活力のあふれる時期を一歩も僧堂の門の外に

出ずにただ、ひたすら無字の修行をだけに取り組まれました。

 深く悩み苦しむ中で、1年が過ぎ2年が過ぎ3,4年と経ちました。この絶望のどん底に落ちた

体験があったからこそ宗教体験をされたときの喜びは一入(ひとしお)ならぬものでありました。

 修行というものは骨折りして苦しむことであります。そして骨折りして苦しみ悩んだ分だけ必ず

得ることがある、これが道理です。何かを失うこと、苦労をすること、骨を折ること、これを

惜しんではいけません。

(後記)

 さて、今週末(12月6,7日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月6日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

最初に坐り方の説明をしますので、初めて坐禅を経験したい方にお勧めです。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

●12月7日(日) 8:00~9:30 日曜坐禅会(今回は坐禅のみとなります。) 

於 円覚寺・大方丈

となっております。

 また、12月6日(土)  13:15~16:00 禅をならう会 於 円覚寺・大方丈

も開催されます。「禅をならう会」(会費:500円 途中退出はできません。)は臨済会が主催の坐禅会です。

詳しいタイムスケジュールは、

1 受け付け(  ~1:15)
2 初心者指導(12:45~13:10) 参加希望者は定刻までに集合
3 開会挨拶(13:15~1:20)
4 成道会(13:20~  )
5 横田南嶺老師による提唱(13:30~   )
6 講了 (  ~14:15)
7 小憩 (  ~14:40)
8 坐禅・経行・質疑応答 (14:40~  )
9 茶礼 (15:45~16:00)
10 閉会 片付け、清掃後解散

以上です。参加希望の方は当日、大方丈玄関までお越しください。

 紅葉は、今週末が最期の見頃となるでしょう。皆様のご来山をお待ちしております。
 

2014年12月4日

苦行6年

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-僧堂の侍者寮前に掲げられている釈迦苦行像の写真-

臘八大攝心 中日

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 白隠禅師は、お釈迦様の苦行6年、達磨様の面壁9年を生涯、胸に刻んで修行をされました。

我々はそれとともに、今日学んだ円覚寺開山・無学祖元禅師の無字6年の修行を胸に刻まなくて

いけません。

 我々は、お釈迦様の苦行を慕って、難行苦行の一端を体験しようとして臘八大攝心をいたします。

お釈迦様の修行の様子は、釈迦苦行像の写真からわかるように最後は断食をなさった。歯と歯とを

噛み合わせて坐り抜くということをなさった。

 この苦行像の写真をよくみるとあの衰え細った体の中でただ、瞳だけ落ちくぼんだ深い井戸に

宿る星のように光り輝いています。もはや、腹の皮をさすれば背骨をつかむことができ、背骨を

さすれば腹の皮がつかめるがごとくです。立とうとすればよろめいて倒れ、体中の毛ははらはらと

抜け落ちたと言われます。

 もう自分ほど苦行をしたものはいないというくらい自分を追い込み、火に焼かれ寒さにこごえ、

只、一人理想を求めて坐り抜いたのがお釈迦様です。

 こうして、私たちの臘八大攝心も、夜も寝ないで修行をするから油断をすると眠ってしまいます。

普段はいくらでも食べてかまわないのですが、おなかにものを入れたら入れた分だけ眠くなるものです。

食べるなとはいいませんが少しは食べるものを節制しなければ眠気に負けてしまいます。

 どうにかこの程度ならやっていけるのではないかのギリギリのところを目指して

自分の限界に挑戦し、どこまでも自分を追い込んでいくことができるのが臘八大攝心の醍醐味です。

 お釈迦様の姿をよく目で見て胸に刻みこむ、無学祖元禅師の無字6年の修行を肝に命じて

この苦行の一端を自分も体験するのです。お釈迦様の御心を指して道心といい、御形を指して

出家という。お釈迦様の御心をいただいてお釈迦様の御姿をならっれ私たちも修行をに励まなければ

いけません。

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-雨の妙香池-

 一雨ごとに葉がはらはらと散り、紅葉も終わりに近づきつつあります。

2014年12月3日

大憤志(だいふんし)

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-妙香池-

 

臘八大攝心3日目

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 修行をする要に「大憤志」という言葉があります。大いに志を奮い起こすことです。

 四十二章経に、「それ仏道を修行するものは、一人と万人が闘うが如し。」とあります。

修行をするということはたった一人で万人の敵と立ち向かうような気持ちでやれと

ことです。

 お釈迦様も「千人の敵に勝つよりも一人の自己に克つものが誠の勝者である」と

仰せになっています。一人で坐れば、いろいろな妄想、分別が次から次へと涌いてくる

ことは言うまでもない。しかし、この妄想、分別を離れることができたら、仏心は自ずから

現前するのです。

 一人で万人と闘う気迫を持って、一人心中にわき起こる百千の妄想、執着と相闘い勝ち得る。

妄想や眠気弱さに負けずに一人で気迫を持って立ち向かうのです。

 その為には、目をカッと見開いて奥歯を噛みしめて、臍下丹田、おなかの下に力を込めて

気力を振り絞る。この一呼吸の間に一念の妄念を交えずに無字を拈提する。一呼吸、一呼吸

ごとに気迫を持って立ち向かい勝ちを得ていただきたい。

2014年12月2日

やればできると信じる

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-大方丈 裏庭-

臘八大攝心2日目

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 私たちが修行をする上で大事なことに大信根(だいしんこん)、つまり信じることが

あります。信じるというのは、何を信じるのか?それは、「お互い、こうしてやればできるんで

ある」ということを深く信じるのです。

 ようやく昨日から臘八大攝心が始まったところですが初めての人は、1週間つとまるのかと

不安に思うであろうし何年もやっているものでも公案(禅の問題)が行き詰まってしまい

自信を失うこともあるかもしれない。

 しかし、信じておいていただきたいのは、「自分もやればできるのである!」ということです。

なぜなら、やればできる力があるからこうして、ここに、円覚寺の僧堂(専門修行道場)で今、

雲水の格好をして禅堂内に坐っているのです。物事というのは、その人ができる能力があるから

こそこういう風に縁が結んでいく。縁が結ばれたということはできることの何よりの証拠です。

 人間、時には死の覚悟することも大切です。そして、たとえ死んでも悔いがないというくらい

覚悟をすればどんなことも乗り越えることのできる力を誰もが持って生まれて来ています。

 この力を信じることこそ大信根です。その力を持っていることを決して自分で見限っては

いけません。
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-妙香池の紅葉を愛でる人々-

2014年12月1日

人間の真価

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-円覚寺山内・黄梅院-

臘八大攝心 初日

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

臘八の時にいつも紹介している森信三先生の言葉があります。

「人間の真価を計る二つのめやす-。一つは、その人の全知全能が、一瞬に、

かつ一点に、どれほどまでに集中できるかということ。もう一つは、睡眠を

切りちぢめても精神力によって、どこまでそれが乗り越えられるかということ」

 坐禅をして呼吸にそしておへその下、気海丹田の一点にどれだけ全身全霊で

やれるか。この臘八は一週間、横にならないわけですから、眠いのはみんな

当たり前です。それをどこまで精神力と気力で打ち克っていくかです。

 私たち、禅宗の坊さんの真の値打ちを計る二つのめやすです。

 また、森信三先生は「すべての一芸一道に身を入れるものはその道に

ひたり切らなくてはいけない。体中の全細胞がその一つのことに向かって

整列するほどでなくてはいけない」とも仰せになっています。歌舞伎や能など

どんな芸能もその名を成すようになるにはその道にひたり切らなくてはものに

なりません。

 全身全霊をもって坐禅に励んでいただきたいと思います。

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2012年12月14日

生きる道のよすが

12月14日(金) 臘八大攝心 提唱最終日 その2
 「明るく生きる心の教え」が本来の仏教であるはずが、
現代においてその教えが本当に活きているか?であります。
 先日、ある雑誌にオウム真理教事件に関わった
ある弁護士さんの記事が載っていました。なぜ、
若者達があんなにもオウムに入ってしまったのか?
 その要因の一つは、日本の伝統仏教に魅力がないということ。
そして、日本のお寺は単なる「風景」「景色」でしかないということ
でした。
 若者が仏教を生きる道のよすがとして求めてきたときに
はたして、それに対応できる伝統仏教の僧侶がどれほど
いるのか?
 このままでは伝統仏教は衰退の一途であり、「風景」「景色」
のままでは存続できないし、その必要もないと書かれて
いました。
 外からはこう厳しく見られているのであります。私達、
伝統仏教の坊さんもまだまだ努力が必要であります。
 皆さん方には、それでもそんな現代社会の中で、
頼りとされるお坊さんになってもらいたい、
私の願いはこの一つです。
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(後記)
 臘八大攝心もいよいよ大詰めとなりました。
明朝は午前6時過ぎから仏殿に於きまして成道会と
なります。
 
 
 

2012年12月14日

仏のいのち 今ここに

12月14日(金) 臘八大攝心 提唱最終日
 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
 何も思わぬは仏の稽古なり。何も思わなくなった所から
わいて出てくるものが仏心であり、真の慈悲であります。
 至道無難禅師いわく
ひたすらに 身は死に果てて 生き残る
  ものを仏と 名をつけにけり
 本当に疲労困憊するまでやる、もうだめだというどん底まで
やる。もう死んでしまうかもしれないという極限までやった
ところで、なお、生き残るものがある。
 その確かに生き残ったもの、息をしている不可思議なもの、
これこそ仏心、如来無量のいのちです。
 お釈迦様は明けの明星を見て悟ったいう。今朝は、双子座
流星群が見えました。星空を見ながら、天地宇宙、悠久のいのち
から見れば、私達の一生涯はまさしく流星のごとしです。
 お釈迦様がお悟りを開かれてから2500年が経ちましたが
この2500年という時ですら、天地悠久のいのちの流れから
見れば一時にすぎません。
 この限りない仏のいのちが今ここにこうして息づいている
ということに喜びと感動を持って明朝の成道会に臨んで
もらいたい。
 こんな歌を作ってみました。
  限りなき 仏のいのち 今ここに
   生きておるなり この一息に
仏のいのち、天地悠久のいのちが今ここに確かにこうして
生きていることに心の底から感動、感謝することが
できますように願います。
 
 

2012年12月13日

今や心よ我に従え!

12月13日(木) 臘八大攝心 6日目
 管長様が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
 自分の心というものを深く掘り下げていくのが私達の坐禅の
修行です。只、己を心を深く深く掘り下げていく。
 お釈迦様はこのことを蟻塚を掘るたとえで説いています。
蟻塚を掘る途中には、かんぬき、水の泡、箱、さすまたなど
いろんなものが出てくる。それらを全部捨てることが肝心です。
 私達の心も、迷い、貪り、怒り、ねたみ、ためらい、不安・・・
など様々なものがわいてくる。心を見ていくとぞっとする一面
恐れおののく一面も出てきます。
 大切なことは、それらを全部振り捨てて、さらに深く深く
掘り下げていくことです。そうすれば、最後に龍を見ると
お釈迦様はお説きになっています。
 龍とは、煩悩、妄想の尽き果てる仏心であります。この龍を
見たら、もうそのままにしておけと。
 心の底を、意識のおおもとを深く深く掘り下げていく修行の
様子です。まさしく、活きた生きものであります。
 いにしえは 心のままに 従いぬ
   今や心よ 我に従え
 
 今までは、煩悩、妄想、迷い、分別、怒りなど様々なものに
自分の心が振り回されてしまっていた。けれども、「今やもう
振り回されることはない!」「オレの言うことを聞け!」という
気力、迫力を持っていただいきたい。
 ある居士の方は「心の底を深く深く掘り下げていくと
汲めども汲めども尽きぬ水が湧いてきた」とう体験を
されました。そういうところを感得してもらいたい。
 自己の心の内側よりふつふつとわいて出てくる確かなもの
をつかんでください。
 参禅は煩悩、妄想、昏沈、睡魔、是非憎愛などとの戦いです。
それらに打ち克って、この臘八を乗り切っていただきたい。

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