2012年1月30日

第二回居士林だより編集会議

1月30日(月)
 今日は、午前中、白山道場・龍雲院で「居士林だより製本化編集会議」の
2回目の会合でした。今まで居士林だよりに掲載した管長様の提唱
三十数話とそれに写真を織り交ぜていく方針です。
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 白山の檀家さんであり、デザイン関係のお仕事をされている
田中さんがサンプルをいくつか作って下さいました。
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 これから提唱の内容になるべく合うような写真を選んで
どこにどう配置するかなどの作業にはいります。
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なるべくシンプルに提唱(お話)と写真だけが基本となっています。
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 こちらも田中さんが作って下さった表装のサンプルです。
  会議には、管長様も途中から出席くださいましていろいろと
 助言をいただきました。有り難うございました。
  
 遅くとも、7月の夏季講座には間に合うように作業を進めています。
皆さん、こうご期待ください!
 

2012年1月17日

百丈忌

1月17日(火)
 今日は、百丈懐海禅師がご遷化された日です。今朝方、
佛殿での百丈忌の法要に行って参りました。百丈和尚は
、日本で言う奈良時代から平安時代の頃の、中国・唐の
禅僧です。そのような昔の方の法要がなぜ今に至るまで
禅宗寺院で行われているのでしょうか?
 それまでの仏教教団はものへの執着・所有欲・蓄財を断つために
生産行為や労働行為を戒律で禁じていました。托鉢などの信者さんからの
ご供養で成り立っていたのですか、教団が大きくなるとなると
それではまかえなえなくなるという問題に直面しました。
 
 そういう状況の中で百丈和尚は、畑仕事をして自ら食料を
生産することや、それまで「雑用」と考えられていた掃除・洗濯
炊事などを、お経を読むことや坐禅をすること同じように
大切な修行であると「意識改革」をして問題を解決したのでした。
 ある人が百丈和尚に尋ねました。「今までの戒律に背いて
草を斬り木を伐り、地を堀り土をたがやすことは、罪の報いを
うけることになりませんか?」と。答えて云く
「罪があるか罪ないかはそれは本人の心がけ次第だ。」と。
 そしてそれまで戒律で禁じられていた労働行為等を修行として
認めるのと同時に、「ならば何でもあり」とならないように
はどめとして「百丈清規」という生活規則を定めました。
 それが僧堂・専門道場で生活規範となり現在に至るまで
脈々と守られています。僧堂の生活はお経を読むことや
坐禅をするはもちろん、食事の仕方やお風呂の入り方に
いたるまで、普通でしたら「当たり前」のことが、ほとんど
「儀式化」、つまり作法にのっとって行われます。
 「儀式化」することで食事など一つ一つの行為が
おざなりにするのではなく意識して丁寧にするようになります。
 食事をする、お風呂に入るなどの日常の「当たり前のこと」が
大切な行為として再発見されるような気がします。確かに作法に
慣れるまでは非常に窮屈に感じるかもしれませんが。
 百丈和尚が仰せになったように同じ事していても
心がけ次第でそれが「修行」にもなり、はたまたたんなる
「雑用」になる。まさに私達めいめいの心がけ次第であります。
 百丈和尚がご遷化されてから千年以上経ってもなお
その精神は今・現在に生き続けています。本当に
すごいことですね。
 
 
 
 

2011年12月26日

出会いの不思議

12月26日(月)
 昨日の日曜説教会のお話の中で管長様が触れられた「出会いの不思議」
についての全文を紹介します。この文章は中学のスクールカウンセラーを
されている方が中学生に向けて書かれたものです。
 {鎌倉に円覚寺という、鎌倉時代から続くお寺があります。そこで、
毎月一度行われている説法は、円覚寺老師の、「生まれたこと、
今こうして生きていること、こうして巡り会うことのできたご縁に感謝
しましょう」という言葉から始まります。
 
 「ふーん」と聞き流してしまうそうなきれいな言葉ですが、たとえば今、
皆さんの教室で、となりに座っているクラスメイトと、どれだけの縁が
あると思いますか?人と出会うというのは、実は一人一人が、もの凄い
確率で奇跡的に出会っているのです。
 現在、世界の人口はおよそ69億人と言われています。つまり
地球上で特定の誰かと出会えるのは、69億分の1。仮に日本だけでも
1億3千万分の1。宝くじの1等に当たる確率は、1億分の1程度らしい
から、今までの出会いは、宝くじの1等に当たるよりも遥かに貴重な
ものなのです!
 この長い人類の歴史の中でたまたま偶然同じ時代を生きていて、
たまたま同じ地球に生まれて、たまたま同じ日本で育ち、たまたま
同じ県にいて、そのうえ同じ中学校にいて、しかも隣に座っている。
 そう考えると、人が出会うというのは「たまたま」や「偶然」という言葉で
片付けてしまうには、あまりに天文学的な確率だとおもいませんか?
今、自分の隣にいる人というのは、いわば選ぶ抜かれたよりすぐりの
精鋭なのです。AKBのオーディション合格どころの騒ぎではありません。
 「出会い」の不思議がわかってもらえましたか?自分の周りの人達は
皆、気の遠くなるような確率の中、何かしらの「縁」があって出会っています。
だからこそ、別れが待っているとしても、出会えたことを感謝し、大切に
したいと思います。これからも、いったい何人の人達と、どんな出会いが
あるか楽しみですね!}
(後記)
  今の中学校は、このようにカウンセラーの方がいらっしゃて
 悩み事の相談など聞いてくださっているようですね。そういう
 話を聞いてもらえる、相談をうけてもらえる人の存在って
 子ども達はもちろん誰にとっても本当に貴重だと思います。
 
 

2011年12月20日

本になります。

12月20日(火)
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今日は白山道場・龍雲院の留守番でした。白山のイチョウがまぶしかった!
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 さて、この居士林だよりがありがたいことに本になることになりました。
今日ここ白山で記念すべき第一回目の打ち合わせをしました。
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 白山の檀家さんでデザイン関係のお仕事をされているTさんと
居士林・学生坐禅会出身で出版のお仕事をされているMさんと
編集のMさんそして私の4人でこれからどう進めていくのかを
話し合いました。管長様の提唱と四季折々の写真を中心とした
読みやすい本を考えています。管長様の教えが少しでも多くの
人々に伝わりますように工夫していきたいと思います。
こうご期待!

2011年11月18日

如意団摂心

11月18日(金)
 今晩から明日の午前中、居士林で如意団単独攝心が行われます。
如意団というのは、一橋大学の坐禅会のことです。昔、一橋の学生が
円覚寺山内のお寺・如意庵に寄宿して参禅をしていたことからその名が
つけられたそうです。
 夕方に居士林に集合して、坐り方や基本的な作法を説明してから、
坐禅をして10時前には就寝します。翌朝は4時に起きてお経を読んで
坐禅。終わっておかゆを食べて朝の掃除です。9時から管長様のお話を
拝聴します。終わって、管長様と参加者との座談会のようなものがあり
解散となります。
 一時期は円覚寺でこうして攝心をすることも途絶えていたのですが、
数年前から今の形式の一泊の摂心会として復活しました。
 今回の参加者は13名です。先月、管長様がわざわざ国立の一橋大学まで
赴いて坐禅の指導や交流をされました。それの効果でしょう、例年よりやや参加者
の人数も多いです。管長様が「これからの時代は、人が坐禅に来るのを待っている
のだけではだめだ。こちらからも積極的に行かないと。」とおっしゃられていました。
 若い世代にも坐禅を広めていくことが、これから本当に重要になってくるのだと
思います。そして、若い人の中にも坐禅をしてみたいという「需要」があることは
最近、土曜坐禅会などを通してひしひしと感じます。
 「次の世代に坐禅というすばらしいものをどう伝えていくか?」とても重要な
課題です。
 
  

2011年11月17日

住職研修会

11月17日(木)
 今日と明日と円覚寺に於いて四派合同住職研修会が行われます。
四派は、建長寺派、方広寺派、向嶽寺派、円覚寺派のことです。
これらの和尚様方が集まっての勉強会です。
 
 「震災後の日本・世界を考える」をテーマに講師の方をお招きし
お話を聞いて、これから私達はどうあるべきか?を考えていきます。
 13時半から開会式でお経をあげます。そして、管長様が始まりにあたって
垂示をなさってくださいます。
 ちなみに今回の講師は、元NHKのキャスター・宮崎緑さんです。
  講題は、「いざ鎌倉から世界をみる」(仮題)です。
 また、建長寺派能満寺住職 松本隆行師がスジャータプロジェクトという
被災者支援のNPO法人の報告を行います。被災現場で活動をされている
和尚様です。
 お話を聞いた後、質疑応答・ディスカッションなどがあります。
 

2011年11月9日

仏心

11月9日(水)
 前回に引き続き、朝比奈宗源老師の提唱から「仏心」についての
お言葉です。
「われわれは良いことをした時だけ仏心の光だと思うが
そうじゃない。本当は、仏心からいうと、全部良いんだ。」
「だからどんな失敗をしたって、われわれはこの(仏心という)根源から
はずれることがない。また、どんな良いことをしたってほかの人を他所へ
放り出して、自分だけそこに入るなんていうわけにはいきはしない。
<蝦踊れども斗をいでず>という言葉がある。蝦は海老です。蝦が桶の中で
いくら跳ねても、やがて落ちれば同じ桶の中へはいる。人間は、仏心の中で
生まれ仏心の中に住み仏心の中で息を引き取る。生まれる前も仏心、
生きている間も仏心、死後も仏心、絶対に仏心からは離れませんよと、
私がいうのもそこです。」
「きれいな富士山や、美しく咲いた花だけが仏心じゃない。犬の糞も蕗の薹
も仏心だ。慈善をほどこし人に拝まれるような人だけが仏心の所有者か、
そうじゃない、(悪いことばかりしている人や大きな失敗をしてしまった人も)やっぱり仏様だ。
根本は同じじゃ。この世で(どうであっても)この生をおえて還るべきところへ
還ればみんな同じだ。禪とはこういう図太い教えです。」
「人間生きている間は、とかくいわゆる煩悩といわれる意識分別が動く。
ああじゃないか、こうじゃないかなとこう思う。がしかし、ひとたび(死に臨んだら)
どうなるか、一切のはからいも迷いも捨てて、往かんならんです。否応もなく
捨てるのです。捨てるときがくる。法然上人は、人間が生きていればいろんな
煩悩がおこるが、それはお浄土へ往く妨げにはならんと言っておられます。」
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2011年10月19日

入制大攝心

10月19日(水)
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 明日20日から26日まで、円覚寺僧堂(専門修行道場)では
「入制大攝心」となります。僧堂の門には、その看板がかかげ
られています。攝心とは、心を攝(おさ)めるという意味です。
いわば、集中修行期間となります。
ちなみに、10月20日~26日 入制大攝心
      11月20日~26日 月並(つきなみ)大攝心
      12月 8日~15日鶏鳴 臘八(ろうはつ)大攝心
       1月20日~26日 制末大攝心 と呼んでいます。
  攝心中と普段の時では、次のことが変わってきます。
 ○普段は、日中、托鉢や畑仕事などの作務をしますが、攝心中は
  それらをせずに、坐禅に集中します。
 ○普段は、だいたい午前4時に起床ですが、攝心中は3時(臘八は
  2時)となります。
 ○普段は、独参(老師との一対一での禅問答の時間)が朝晩の2回ですが
  攝心中は3~4回となります。管長様は、僧堂師家(修行僧の指導役)も
  兼ねていますので、居士も含めると20人以上の人との参禅を指導されて
  います。
 ○攝心中は毎日、管長様による提唱があります。「武溪集」を提唱されています。
管長様は、攝心中も朝晩、雲水とともに禪堂に坐られています。僧堂を出た
 和尚さんの中にも遠い所から提唱を拝聴に来られたり、禪堂に坐る方もいます。
 現役の修行僧ともども、修行の身であることは、和尚になっても変わりません。
  身の引き締まる時期の到来です。
  

2011年10月1日

彼岸花と・・・

10月1日(土)
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彼岸花とチョウ。<居士林>
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彼岸花と落ち葉。これ、よく見るとおもしろいんです。
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おそらく、つぼみの上に落ちた葉っぱを突き抜けて花を
咲かせているようです。強いですね!
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居士林の庭に咲く一輪の花。スカッとした気持ちになります。
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先週、土日坐の方が居士林のお風呂場を片付けてくれました。
改めて見ても、趣のある五右衛門風呂です。
(後記)
   明日の開山忌宿忌(前日の行事)は、15時に佛殿で始まります。
 

2011年9月3日

地球のことは自分のこと

9月3日(土)
 午前中、管長様のところへ行きましたら、坐禅に来ている人から
管長様に送られてきたという新聞記事を見せていただきました。
管長様は誠に正論だと共感されていましたので、記事の一部を
紹介したいと思います。<朝日新聞9月1日 >
元サッカー日本代表監督岡田武史さんと養老孟司さんの対談です。
 養老「{環境}はどうしてできたかを考えると、{自分をたてた}から。
自分を区切ると、自分の外に環境がある。昔の人はそうは思っていなかった。
死ねば、土に返ると。今の学生に田んぼは将来の君だといっても通じない。
田に稲が育って米がとれて食べると体になる。だから、田は自分の一部。
大気も同じで、なければ即座に死んでしまうのも自分じゃないのか。大気は
自分ではないと、どうしていえるのか。」
 岡田「人類と地球を分けているうちはだめ。人間と自然を分けているうちは。
人間は自分のことでないと必死になれない。」
 養老「自分をたてるというのは脳みそがやっている一種の勝手な区分です。
私というのは意識がないとない。・・・
 岡田「地図があっても、現在地がないとわからない。」
 養老「だから、脳の空間定位の領野に私の定義、つまり現在地が
入っている。地図の矢印(↑)が自分です。そこに環境問題がある。
人間は↑をつけてこれが俺だとやって、その中は無意識にエコひいきする。
・・・」
 岡田「それが自我ですね。宗教でいう悟りというのは、↑が取れたような
状態になると。」
 養老「自分なんて案内板の↑なんだと考えたら楽でしょう。自分は案内板の
一部だと意識しておけば、あまり過大評価も過小評価もしないで済む。」
 岡田「おもしろい。みんながてこずっている自我というものは、地図の中の
ほんの↑なわけですね。」・・・

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