2012年5月3日

仏の子 その2

5月3日(木)
 昨日の新聞のコラム欄に、昭和天皇と戦災孤児
との次のような逸話が載っていました。
 陛下が昭和24年に佐賀県に行幸された時の
お話です。
{寺では境内に孤児院を造り、戦災孤児40人を
養っていた。陛下は部屋ごとに足を止められ、子供
たちに笑みをたたえながら腰をかがめて会釈し、声を
掛けて回られた。ところが、最後の部屋では身じろぎも
せず、厳しい尊顔になる。一点を凝視し、お尋ねになった。
 
 「お父さん、お母さん?」 少女は2基の位牌を抱きしめて
いた。女の子は陛下のご下問に「はい」と答えた。大きく頷かれた
陛下は「どこで?」と、たたみ掛けられた。
「父は満ソ国境で名誉の戦死をしました。母は引き上げ途中で
病のために亡くなりました。」「お寂しい?」と質された。少女は
語り始めた。
 「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は
亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっと
また会うことができるのです。お父さんに、お母さんに会いたいと
思うとき、御仏様の前に座ります。そして、そっとお父さんの、
お母さんの名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも
私の側にやってきて抱いてくれます。だから、寂しいことは
ありません。私は仏の子供です」
 陛下は女の子の頭を撫で「仏の子はお幸せね。こらからも
立派に育ってくれよ」と仰せられた。見れば、陛下の涙が畳を
濡らしている。女の子は、小声で「お父さん」と囁いた。
陛下は深く深く頷かれた。}
 心の奥底まで響くお話ですね。

2012年2月26日

祝一周年

2月26日(日)
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 今日は午後から「蔦禪会(ちょうぜんかい)」という坐禅会でした。
ちょうど一年前の、梅が咲いている今頃、第一回目を行いました。
あれから時が経つのは早いもので一周年を迎えることができました。
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蔦禪会とは変わった名前ですが、英語のアイビーの日本語訳が蔦(つた)です。
アメリカ東部のハーバード大などの名門私立大学8校からなる連盟を
アイビーリーグといいます。みな伝統的な大学で、校舎が蔦に覆われている
ことが多いことからその名がついたそうです。
 たまたま、円覚寺の別の坐禅会に参加されていた、アイビーリーグ出身の
Bさんから坐禅に関心のある同窓生向けの坐禅会をやりたいとの
お話をいただき「蔦禪会坐禅会」が生まれました。
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 始めた時は、これ一回限りでまさか一年も続くとは全く想像も
していなかったのですが、毎月1回ずつ重ねて、今日の日を
迎えられてなかなか感慨深いものです。
 参加者はBさんやJさんがアイビーリーグの同窓会にネットで募集
して来る方とあとは縁故の方で様々です。会は、最初に坐り方の説明
をして15分くらいの坐禅を2回と途中「歩く坐禅」をして最後に30分くらい
円座になって参加者の自己紹介と質疑応答をします。BさんやJさんが
通訳をしてくださる中で会が進んでいきます。毎回15名ぐらいの方が
参加くださり国籍も様々です。
 今日、参加された中に、外国人向けのガイドをしている方がいて、
「欧米の方で禪に関心のある人は多く、禪について尋ねられる
ことが多いので参加しました。」とおっしゃていました。
 本当にこれからが楽しみな坐禅会です。
 

2012年2月22日

第3回居士林だより編集会議

2月22日(火)
昨日は白山道場・龍雲院で居士林だより製本化の編集の
打ち合わせでした。Tさんが装丁案を作成してくださいました。
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今朝、管長様にタイトルについて相談したところ、
「いろはにほへと」(ある日の法話より)がいいだろうとの
ご助言をいただきました。
 短くまとめた約30編の法話と円覚寺の風景や花などの
写真がたくさんちりばめられている内容となっています。
 順調にいけば6月中には出来上がる予定です。

2012年1月30日

第二回居士林だより編集会議

1月30日(月)
 今日は、午前中、白山道場・龍雲院で「居士林だより製本化編集会議」の
2回目の会合でした。今まで居士林だよりに掲載した管長様の提唱
三十数話とそれに写真を織り交ぜていく方針です。
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 白山の檀家さんであり、デザイン関係のお仕事をされている
田中さんがサンプルをいくつか作って下さいました。
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 これから提唱の内容になるべく合うような写真を選んで
どこにどう配置するかなどの作業にはいります。
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なるべくシンプルに提唱(お話)と写真だけが基本となっています。
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 こちらも田中さんが作って下さった表装のサンプルです。
  会議には、管長様も途中から出席くださいましていろいろと
 助言をいただきました。有り難うございました。
  
 遅くとも、7月の夏季講座には間に合うように作業を進めています。
皆さん、こうご期待ください!
 

2012年1月17日

百丈忌

1月17日(火)
 今日は、百丈懐海禅師がご遷化された日です。今朝方、
佛殿での百丈忌の法要に行って参りました。百丈和尚は
、日本で言う奈良時代から平安時代の頃の、中国・唐の
禅僧です。そのような昔の方の法要がなぜ今に至るまで
禅宗寺院で行われているのでしょうか?
 それまでの仏教教団はものへの執着・所有欲・蓄財を断つために
生産行為や労働行為を戒律で禁じていました。托鉢などの信者さんからの
ご供養で成り立っていたのですか、教団が大きくなるとなると
それではまかえなえなくなるという問題に直面しました。
 
 そういう状況の中で百丈和尚は、畑仕事をして自ら食料を
生産することや、それまで「雑用」と考えられていた掃除・洗濯
炊事などを、お経を読むことや坐禅をすること同じように
大切な修行であると「意識改革」をして問題を解決したのでした。
 ある人が百丈和尚に尋ねました。「今までの戒律に背いて
草を斬り木を伐り、地を堀り土をたがやすことは、罪の報いを
うけることになりませんか?」と。答えて云く
「罪があるか罪ないかはそれは本人の心がけ次第だ。」と。
 そしてそれまで戒律で禁じられていた労働行為等を修行として
認めるのと同時に、「ならば何でもあり」とならないように
はどめとして「百丈清規」という生活規則を定めました。
 それが僧堂・専門道場で生活規範となり現在に至るまで
脈々と守られています。僧堂の生活はお経を読むことや
坐禅をするはもちろん、食事の仕方やお風呂の入り方に
いたるまで、普通でしたら「当たり前」のことが、ほとんど
「儀式化」、つまり作法にのっとって行われます。
 「儀式化」することで食事など一つ一つの行為が
おざなりにするのではなく意識して丁寧にするようになります。
 食事をする、お風呂に入るなどの日常の「当たり前のこと」が
大切な行為として再発見されるような気がします。確かに作法に
慣れるまでは非常に窮屈に感じるかもしれませんが。
 百丈和尚が仰せになったように同じ事していても
心がけ次第でそれが「修行」にもなり、はたまたたんなる
「雑用」になる。まさに私達めいめいの心がけ次第であります。
 百丈和尚がご遷化されてから千年以上経ってもなお
その精神は今・現在に生き続けています。本当に
すごいことですね。
 
 
 
 

2011年12月26日

出会いの不思議

12月26日(月)
 昨日の日曜説教会のお話の中で管長様が触れられた「出会いの不思議」
についての全文を紹介します。この文章は中学のスクールカウンセラーを
されている方が中学生に向けて書かれたものです。
 {鎌倉に円覚寺という、鎌倉時代から続くお寺があります。そこで、
毎月一度行われている説法は、円覚寺老師の、「生まれたこと、
今こうして生きていること、こうして巡り会うことのできたご縁に感謝
しましょう」という言葉から始まります。
 
 「ふーん」と聞き流してしまうそうなきれいな言葉ですが、たとえば今、
皆さんの教室で、となりに座っているクラスメイトと、どれだけの縁が
あると思いますか?人と出会うというのは、実は一人一人が、もの凄い
確率で奇跡的に出会っているのです。
 現在、世界の人口はおよそ69億人と言われています。つまり
地球上で特定の誰かと出会えるのは、69億分の1。仮に日本だけでも
1億3千万分の1。宝くじの1等に当たる確率は、1億分の1程度らしい
から、今までの出会いは、宝くじの1等に当たるよりも遥かに貴重な
ものなのです!
 この長い人類の歴史の中でたまたま偶然同じ時代を生きていて、
たまたま同じ地球に生まれて、たまたま同じ日本で育ち、たまたま
同じ県にいて、そのうえ同じ中学校にいて、しかも隣に座っている。
 そう考えると、人が出会うというのは「たまたま」や「偶然」という言葉で
片付けてしまうには、あまりに天文学的な確率だとおもいませんか?
今、自分の隣にいる人というのは、いわば選ぶ抜かれたよりすぐりの
精鋭なのです。AKBのオーディション合格どころの騒ぎではありません。
 「出会い」の不思議がわかってもらえましたか?自分の周りの人達は
皆、気の遠くなるような確率の中、何かしらの「縁」があって出会っています。
だからこそ、別れが待っているとしても、出会えたことを感謝し、大切に
したいと思います。これからも、いったい何人の人達と、どんな出会いが
あるか楽しみですね!}
(後記)
  今の中学校は、このようにカウンセラーの方がいらっしゃて
 悩み事の相談など聞いてくださっているようですね。そういう
 話を聞いてもらえる、相談をうけてもらえる人の存在って
 子ども達はもちろん誰にとっても本当に貴重だと思います。
 
 

2011年12月20日

本になります。

12月20日(火)
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今日は白山道場・龍雲院の留守番でした。白山のイチョウがまぶしかった!
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 さて、この居士林だよりがありがたいことに本になることになりました。
今日ここ白山で記念すべき第一回目の打ち合わせをしました。
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 白山の檀家さんでデザイン関係のお仕事をされているTさんと
居士林・学生坐禅会出身で出版のお仕事をされているMさんと
編集のMさんそして私の4人でこれからどう進めていくのかを
話し合いました。管長様の提唱と四季折々の写真を中心とした
読みやすい本を考えています。管長様の教えが少しでも多くの
人々に伝わりますように工夫していきたいと思います。
こうご期待!

2011年11月18日

如意団摂心

11月18日(金)
 今晩から明日の午前中、居士林で如意団単独攝心が行われます。
如意団というのは、一橋大学の坐禅会のことです。昔、一橋の学生が
円覚寺山内のお寺・如意庵に寄宿して参禅をしていたことからその名が
つけられたそうです。
 夕方に居士林に集合して、坐り方や基本的な作法を説明してから、
坐禅をして10時前には就寝します。翌朝は4時に起きてお経を読んで
坐禅。終わっておかゆを食べて朝の掃除です。9時から管長様のお話を
拝聴します。終わって、管長様と参加者との座談会のようなものがあり
解散となります。
 一時期は円覚寺でこうして攝心をすることも途絶えていたのですが、
数年前から今の形式の一泊の摂心会として復活しました。
 今回の参加者は13名です。先月、管長様がわざわざ国立の一橋大学まで
赴いて坐禅の指導や交流をされました。それの効果でしょう、例年よりやや参加者
の人数も多いです。管長様が「これからの時代は、人が坐禅に来るのを待っている
のだけではだめだ。こちらからも積極的に行かないと。」とおっしゃられていました。
 若い世代にも坐禅を広めていくことが、これから本当に重要になってくるのだと
思います。そして、若い人の中にも坐禅をしてみたいという「需要」があることは
最近、土曜坐禅会などを通してひしひしと感じます。
 「次の世代に坐禅というすばらしいものをどう伝えていくか?」とても重要な
課題です。
 
  

2011年11月17日

住職研修会

11月17日(木)
 今日と明日と円覚寺に於いて四派合同住職研修会が行われます。
四派は、建長寺派、方広寺派、向嶽寺派、円覚寺派のことです。
これらの和尚様方が集まっての勉強会です。
 
 「震災後の日本・世界を考える」をテーマに講師の方をお招きし
お話を聞いて、これから私達はどうあるべきか?を考えていきます。
 13時半から開会式でお経をあげます。そして、管長様が始まりにあたって
垂示をなさってくださいます。
 ちなみに今回の講師は、元NHKのキャスター・宮崎緑さんです。
  講題は、「いざ鎌倉から世界をみる」(仮題)です。
 また、建長寺派能満寺住職 松本隆行師がスジャータプロジェクトという
被災者支援のNPO法人の報告を行います。被災現場で活動をされている
和尚様です。
 お話を聞いた後、質疑応答・ディスカッションなどがあります。
 

2011年11月9日

仏心

11月9日(水)
 前回に引き続き、朝比奈宗源老師の提唱から「仏心」についての
お言葉です。
「われわれは良いことをした時だけ仏心の光だと思うが
そうじゃない。本当は、仏心からいうと、全部良いんだ。」
「だからどんな失敗をしたって、われわれはこの(仏心という)根源から
はずれることがない。また、どんな良いことをしたってほかの人を他所へ
放り出して、自分だけそこに入るなんていうわけにはいきはしない。
<蝦踊れども斗をいでず>という言葉がある。蝦は海老です。蝦が桶の中で
いくら跳ねても、やがて落ちれば同じ桶の中へはいる。人間は、仏心の中で
生まれ仏心の中に住み仏心の中で息を引き取る。生まれる前も仏心、
生きている間も仏心、死後も仏心、絶対に仏心からは離れませんよと、
私がいうのもそこです。」
「きれいな富士山や、美しく咲いた花だけが仏心じゃない。犬の糞も蕗の薹
も仏心だ。慈善をほどこし人に拝まれるような人だけが仏心の所有者か、
そうじゃない、(悪いことばかりしている人や大きな失敗をしてしまった人も)やっぱり仏様だ。
根本は同じじゃ。この世で(どうであっても)この生をおえて還るべきところへ
還ればみんな同じだ。禪とはこういう図太い教えです。」
「人間生きている間は、とかくいわゆる煩悩といわれる意識分別が動く。
ああじゃないか、こうじゃないかなとこう思う。がしかし、ひとたび(死に臨んだら)
どうなるか、一切のはからいも迷いも捨てて、往かんならんです。否応もなく
捨てるのです。捨てるときがくる。法然上人は、人間が生きていればいろんな
煩悩がおこるが、それはお浄土へ往く妨げにはならんと言っておられます。」
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