2016年12月11日

管長 12月の日曜説教会 映像

 今日、円覚寺・大方丈にて行われた日曜説教坐禅会の映像です。

今回も、この寒い季節にもかかわらず、500人近い方々が集まりました。

 キリスト教の女性と結婚した在家居士の結婚式に出席されたお話や

坂村真民さんの詩を例に上げて、大切なことは、どんな宗教に属して

いるかではなく、どんな生き方をするかなどをお話されました。

2016年4月10日

管長 日曜説教会 映像

 今日は、円覚寺派管長・横田南嶺老師による日曜説教会が大方丈にて

行われ、500人に近い老若男女が集まりました。

 また、横田南嶺管長による、その場で揮毫入りの新刊本の販売が

行われ、220冊以上を参加者の方がお求めになりましまた。

2015年8月9日

感謝の極みに

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ーしいちゃん 総門入口にてー

今日の日曜説教会で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

 生かされていることに感謝をしましょうといつもみなさんに申し上げて

いますが、実際に私を含めてどれほど深く感謝が出来ていますでしょうか。

 感謝よりも普段の生活の中では、ほんのわずかな自分の思うようにならない

ことがあるとそれに対して不平不満ばかりを言って暮らしていないでしょうか。

 ガンになり幼い子どもを残して亡くなったお母さんと手紙のやり取りをして

いました。その方の手紙に「どんな病気でもどんなに苦しくても、今、私は

生きています。それがすべての答えであります。」という言葉がありました。

 私は今一度、この言葉をかみしめて、生まれたことの不思議、今こうして

生きている、生かされていることの不思議を味わってみたいと思います。

 さて、お盆という行事は、目連尊者が自分のお母さんを供養したいという

思いから始まりました。目連は、お母さんが餓鬼の世界に堕ちてしまって、

それを救うにはどうしたらよいかとお釈迦様に相談されてました。

お釈迦様は、「みんなの力で供養をすれば、あなたのお母さんは救われる」

と仰せになりました。

 それでは、私たちは、この話から何を学べば良いのでしょうか?

お経の話には、それぞれ深い意味があります。

 最近、若い和尚さんのお説教を聞く機会があり学んだことがあります。

それは、目連のお母さんが餓鬼の世界に堕ちたということは、母親は

たとえ自分がどんなに飢えて、どんな苦しもうともわが子が立派に

成長すればよいという親の愛情、深い思いを表しているということでした。

 また、母を供養することは自分一人でできない、みんなの力を合わせて

供養しなさいとお釈迦様が仰せになったのは、人は一人の力ではなしに

大勢の力をいただきながら生きていることができることを表していると

いうことも学びました。

 今日、紹介した幼い子どもを残して亡くなったお母さんの思いも

目連のお母さんの思いと同じで「たとえ、わが身がどんな病気で苦しもうとも

この子だけは幸せに生きてもらいたいという一念の愛情であると思います。

 あとに残された人たちは、家族や身内や近所の人など大勢の方々の力に

支えられて生きていくことができる。そのようなことの思いが込められて

いるのがこのお盆のお施餓鬼の意義なのだと学びました。

 私が察するに、この若くして幼い子どもを残して亡くなったお母さんは、

ガンという重い病気に蝕まれているという、自分の置かれた状況に対して

不平不満を言わずに感謝をして受け止めたのだと思います。

そして最期の最期まで今生きていられるということに感謝を

していたのだと。

 そしてその感謝の果てにきっと一つの真理に目覚めたのではないかと

思われてなりません。感謝の極みには、必ずこの愛情というものが

あふれてくるものであります。仏教の言葉では、それを慈悲と言います。

 幼いわが子に対する愛、旦那さんに対する思い、育ててくれた両親に

対する愛情。それら愛情や慈悲の心は決して死にはしない、なくなりは

なない、不滅であるという真理にこのお母さんは到達したのではないか

想像されるのです。

 仏心は生き死にを超えて生き通しである。仏心というと少し遠いことの

ように思いますが、お釈迦様はあたかも母親が自分の命をかけてわが子を

守るような心、そういう思いやり、いくつしみのこそ仏心であると

親切にお説きになりました。

 仏心は永遠に死ぬことはなく、ずっと生き通しに生きている世界です。

それが、坂村真民先生が「私が死んでも、花が咲いていたらそれが私かも

しれない。蝶が飛んでいたらそれが私かもしれない、私はいたるところ

いろんな姿をして生き続ける」という内容の詩で表現されている世界です。

 感謝の極みは、愛情の気持ち一つになる。この愛の心は死ぬことがない。

この体はたとえ朽ち果てようとも、あらゆる姿形になってわが子を守り

続けるんだとという真理にこのお母さんは目覚めたのだと私は信じたい。

 こうして私たちがめぐり合うことができるということはどんなにか

有り難いことであるか。このお母さんも最期のとなる手紙にいたるまで

元気になって円覚寺に来て直接お話を聞きたいと願っておりましたが

かないませんでした。

 また、もっと生きたいと思っていてもそれさえもかなわない大勢の人たちも

います。そういう中でこうして私たちは生きて生かされています。

 いろいろなお世話になった人たちのことを思うのと同時に生きたくても

生きることがかなわなかった大勢の人たちの思いを汲んで、私たちは

精一杯、一日一日を生きねばなりません。それこそが亡くなった方への

一番の供養であるとしみじみと思うのであります。

2015年8月7日

肚を据える

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 円覚寺の境内には、高砂百合が咲き始めました。護国塔にて。
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妙香池にて。

 横田南嶺老師が日曜説教会(6月14日)で提唱されたことをまとめてみました。

南禅寺の柴山全慶老師の言葉があります。「何も悩まない、苦しまないと

無理に力む必要はない。むしろ、どんなに苦しもうと一点の疑いなく肚が

据わっていることだ。そうであるならば、どんな死に方を迎えようとも、

それは一段の風流である。」

 それでは、どんと肚が据わるとはどういうことでしょうか?

 松原泰道先生は、大勢の前で話をするときなどに緊張しない、あがらない方法は

何かについて言及されています。緊張しないように、あがらないように努力する

よりも、あがっても良いのだと肚を据えなさいと仰せになっています。

 仏心の教えも同じです。みんな仏様のいのちに帰ると聞いたからといって

それで安心して、安らかな気持ちになって、さも、平然としていることでは

決してありません。

 上がっても良い、苦しんだって良い、悲しんだって良い。どんなに緊張しても

どんなに苦しんでも、どんなに悲しんでも、それは全部仏心の中だと受け止める

ことができれば、本当に肚を据えることであります。

 悲しまずに平気でいることは無理なことです。泣いたって良い、叫んだって良い、

それが全部、柳宗悦の歌のように「吉野山、転びてもまた花の中」と受け止めることが

一番、肚を据えるということではないでしょうか。

 松原泰道先生の話にはもう一つ落ちがあります。話をする時はいくらあがってしまって

良いといっても、緊張して思うようにいかなくて失敗することがある。しかし、

死ぬということは大丈夫だ。必ず死ぬから、力む必要はないと仰せになりました。

 生きている時というのは、お互い、命のある限り精一杯、一日一日を生きて

参りたいと思います。与えられた命、賜った命です。 

 松原先生はまた次のようなことも説かれいます。「小さいことでも少しでも

悪いことを避けて、善いことにつとめる。どんなささいなことでも人には

良くしてあげよう。これが御仏の教えであります。」と。

 少しでも人様のお役にたてることができるように精一杯努めることが

肝心です。そうしたうえで、もし、何らかの事情でお迎えがきた時が

松原先生が申しておられるように「有り難うの一言が周りを明るくする、

おかげさまの一言が自分を明るくする」を実践をする時であります。

 「有り難う」「おかげさま」、これが仏様の精神です。どんなに

悲しんでも、どんなに苦しんでも、どんなにもだえようとも、

そこが御仏の真っ只中であり、どこにいても「吉野山、転びても

また花の中」であります。このことだけは、肚に据えて一日一日を

つとめて参りたいと思います。

<お知らせ>

 明後日、8月9日(日)は、日曜説教会(場所 大方丈)が開催されます。

9:00~10:00 法話(円覚寺派管長・横田南嶺老師)

10:00~11:00 坐禅

 どなたでも参加することができ、毎回、500人に近い老若男女が

参加されています。

 皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2015年8月6日

ささやかな幸せに

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ー居士林の有志の方々が集まって布団を干してくださいました。 居士林にてー

 横田南嶺老師が先月の日曜説教会(7月12日)で提唱されたことをまとめてみました。

心療内科医の海原純子先生が新聞に次のようなことを書いていらっしゃいました。

{毎日、寝る前に心の中で「有り難う」と感謝をすること。それはその日にあった

些細なことでよい。今日お昼お弁当がおいしかったとかいれていただいたお茶が

美味しかったとか・・・一つ一つ思い出して、それに対して短い感謝の言葉を

心の中で唱えてみる。そうすると気分がすっきりして爽やかな心になれる。}

 私たちは、ほんの一つか二つ自分の思うようにいかないことがあると

まるで、周りのすべてが闇になって不幸のどん底に落ちたように思いがち

です。しかし、冷静に考えてみると結構、身近なところに幸せなことが

たくさんあふれています。

 それに気が付かずにほんの一つか二つの気にいらないことに憎しみの

心を起こしてしまい、それをどうにか抑えよう抑えようとするのですが

それが難しい。

 ですから、それら気に入らないことや憎しみの心に目を向けるのではなく

もっと、冷静に自分の周りを見てみると、朝日が昇っていくきれいだなとか

今朝のお茶は美味しいなとか、健康に散歩をすることができて幸せだ・・・

など実は有り難いことが日常にはたくさんあふれていることに気が付く

はずです。
 
 昼間は、仕事など忙しくてなかなかそういうことに目がいかなくても

せめて寝る前は、憎しみの心は置いといて、身の回りの些細な

ことを思い出して「有り難い、有り難い」と心の中で繰り返していると

心は穏やかな、和やかな心になり、周りに対しても慈悲の心に育って

いくものです。

 戦後70年と言われます。今こうして生きている私たち一人一人が

次の世代に何を伝え残していくのか?大きな責任を持っています。

新聞紙上に少しでも暗い事件が載らないように少しでも明るい言葉で

うめられるように、まずお互いの心をささやかなことに感謝する心に

慈悲で穏やかで和やかな心となるようにして、その心を次の世代へ

伝えていきたいものであります。

2013年10月14日

母は観音様

10月14日(月) その2
 横田南嶺管長が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。
 お釈迦様は、「あたかも母親が自分の子どもをいのちをかけて守るような
そんな気持ちで、あらゆるいのちあるものに接しなさい。あらゆるいのちに
対していくつしみの心を起こす。立っていても、坐っていても何していても
この慈悲の心を失ってはならない」とお説きになっています。
 坂村真民さんにしても相田みつをさんにしても、お二人の根本には
そのお母さんからいただいた愛情があるのだと思います。そのお母さんの
思い・念を伝えたくてたくさんの詩を書いたのだと思うのです。
 相田みつをさんに母のような観音様の心をわかりやすく表現した詩があります。
長い詩ですのでその一部を紹介します。
『二人の門出のために』
どんな話でも どんな悩みでも
だれかれの差別なく
    
「ふうん、そうか、それは大変だろうな……」
    
「さぞ苦しかったろうなあ……」
    
「痛かったろう……こんなになって……」
   
 と、相手の立場になりきって
    
親身に聞いてくれる人
    
それが観音さまです
    
自分のことはいつもあとまわし
    
常に他人(ひと)の幸せを願って生きている人
    
人のために人のためにと
    
ただ黙って動いている人
    
それが観音さまです
    
だから観音さまのまわりには
    
人がいっぱい集まるんです
    
浅草の観音さまのように・・・
 こういう観音様のような素晴らしい心を私たちは生まれながらに
いただいているのです。いのちのバトンという言葉がありますが、
私たちが次の世代に伝えていかなくてはならないものはとは
この観音様の心なのではないでしょうか。
 自分の生きている間にこの観音様の心をしっかりと受け止めて
次の世代に手渡していく。母が自分の子どもを守るようないくつしみ、
まごころというバトンを次世代に伝えていく、その為に我々の一生涯は
意味があるのではないでしょうか。
(後記)
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妙香池に降り立ったサギ 

2013年9月9日

生きねばならぬ

9月9日(月)
 横田南嶺管長が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。
 「祈り」という言葉があります。いろいろな説がありますが「祈り」という
言葉のもとはといいますと、「祈り」の「い」は、いのち、生きる、生命力を表し
「のり」というのは、「祝詞」(のりと)という言葉があるように、宣言をするという
意味だそうです。
 ですから「祈り」とは、いのちの宣言をするということなのです。
「いろいろな苦しいこと辛いことがあっても自分はそれにめげずに生きるんだ!
強く生きていくんだ!」と宣言をすることが「祈り」ということの原点なのです。
そして生きていくんだと自分に言い聞かせることによって自然と祈る人の心が
活性化していきます。
 坂村真民先生に次の詩があります。
  
{ 鳥は、飛ばねばならぬ  人は、生きねばならぬ
怒涛(どとう)の海を  飛び行く鳥のように
混沌の世を  生きねばならぬ
鳥は、本能的に  暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も  一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝  私に与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ  人は生きねばならぬ }
 一寸先は決して闇ではありません。闇だ!闇だ!といつも言っている人には
闇が続いてしまうかもしれませんが、光だ!光だ!と信じている人には必ず
光が差してくるものです。「生きねばならぬ」です。
 私はこの「生きねばならぬ」という心を以下のような言葉でまとめてみました。
「明日、どうなるかはわからないけれど、今日一日は笑顔でいよう。
つらいことは多いけれど、今日一日は明るい心でいよう。
いやなこともあるけれど、今日一日はやさしい言葉をかけていこう。」
 これが「生きねばならぬ」の精神です。無常の中で明日を信じて生きていく
ことの精神であります。明日はどうなるかわからないけれど、今日一日、笑顔で
暮らすことは私たちが努力をすればできることではないでしょうか。
 

2013年8月25日

うたたねの・・・

8月25日(日)
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 横田南嶺管長が今日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。
 今月の円覚寺のカレンダーに「うたたねの ひととき 楽し 蓮の上」
という言葉が載っています。これは私が作った歌であります。実は辞世の句に
しても良いと思っています。
 この歌の意味は、人の一生というものは仏様の蓮の上でうたたねをしている
ようなもの、ちょうど孫悟空がどんなに動き回り駆け回っても仏様の手の上で
あるように、私たちもいろんなことをやっても結局は仏様の手の平の上であり
それを蓮の上と表しています。
 そんな蓮の上に懐かれていながら、一時、うとうとと夢を見ている。楽しかった
夢もあれば辛かった夢もある。でも、それは全部仏様の手の平の上のこと。これを
仏心という。
 人の一生というのは仏心という大きな心の上で一時うとうととしていろんな
夢をみているようなものです。夢を見ている間も、「ああ、夢であった」と気づいた
時もすべて蓮の上である。こういう気持ちを表しています。
 本日がご命日である朝比奈宗源老師は、私たちは常に仏心の中にあると信じることが
大事であるという「仏心の信心」を強くお説きになっています。
 私たちは「悟り」を求めて坐禅をするといったり、人の人生であれば何か幸せを
求めて歩いたり旅をしたりするといいますが、どこまでいってもそんな幸せは
つかめるものではありません。
 ふと、こうして歩いていることが実は幸せであったと気がつくことが大事なのです。
私たちもどこかにいつか「悟り」が表れるのではないかと思って坐禅をしますが、
こうして坐禅をしている自体が「悟り」なのです。
 悩み、苦しみが全部抜け落ちて悟りの世界にいくのではありません。いろんな
ことに悩んだり苦しんだりしている今この場所が仏心の中なのです。そう信じて
ゆったりとした気持ちで過ごすことが大切であります。
(後記)
 今日の日曜説教会は当初、別の和尚様が担当でしたが、ご都合により
横田南嶺管長が代わりに法話をされました。
 

2013年7月14日

すべてを許し受け入れる心

7月14日(日)
 南嶺管長が日曜説教会で法話されたことをまとめてみました。
「人々は憎み合い、また殺し合った。しかし、大地はこれを愧じて夏草をもって
それを覆うた。」
 これは、インドの詩人タゴール(1861~1941)が箱根にある曾我兄弟の墓
とされる場所を訪れて作った詩です。タゴールは曾我兄弟による仇討ちの憎しみ、怨みは
神(大地)の御心に反するものと表現しました。
 私はそれを以下のように仏教的によみかえてみました。
「人々は憎み合い、また殺し合った。しかし、大地はこれらをすべて許し
すべて受け入れて緑の草をもって覆うた。」
 人の世の苦しみや悲しみ、ねたみ、怨みはあまり良い感情とは言えない。
親を亡くした悲しみ、子と別れる悲しみ、そこから生まれる怨みや憎しみ。
しかし、こういう心なくして人間の心というものもありえないのも事実です。
 仏の心、仏心はこれら人の世の悲しみや苦しみ、憎しみやねたみ、うらみすら
それらすべてを受け入れてくれるものなのです。
 大地が緑の草をもってすべて覆った。大地はどんな嵐も照りつける日差しも
雨や雪もすべてを受け止めて呑み込んで包み込む。そしてすべてを肥料にして
草を茂らせ花を咲かせます。
 私たちの心にもどうしようない苦しみ、どうすることもできないねたみやうらみ
があろうかと思います。また、曾我兄弟の仇討ちのようにその時代に生まれたら
そう生きるしかない悲しみというものもあります。
 それらをすべて受け入れてくれるのが大地の心、仏心の心です。私たちが
誰一人例外なく生まれながらに持っている心なのです。
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<方丈前庭にて> 「はい、どうじょ。」  

2013年6月10日

原点に立ち返る

6月10日(月)
 管長様が昨日の日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。
 心が外に向かってしまうのは迷い。心を内に向けるのが悟りであると
昔の人はそのように言っています。
 坐禅をして今一度、外のものばかりを追い回すのではなくて、「この見ているものは
何ものか?この聞いているものは何ものか?食べたり感じたりしているものはいったい
何ものであるか?」と立ち止まって考えることが必要です。
 私たちは肝心なものを忘れてはいけません。それはこころがあればこそ、
いのちがあればこそものを見ることができ、外の音を聞くことができ、
舌で味わうことができ、呼吸をすることができると言うことです。
 そのいのち、こころは仏様のいのちでありこころであります。
そのいのち、こころの尊さに気がついたなら、これは決して自分ばかりではない
まわりの人もみんな同じ尊いこころ、すばらしいいのちを持って生きているんだ、
また人ばかりではない、草や木や鳥やけものに至るまでみんな同じこころといのちを
持っているのだとわかります。
 今生きてこうしていのちがあるということ、これほど素晴らしいものはないのです。
ただ、普段、便利さを追究すあまり、何でも手間を省いているような生活ばかり
していると、「いったい何が大事であるか?」「自分が何をしようとしているのか?」
という肝心なところを私たちは見失いつつあるのではにでしょうか?
 食べるということ、いのちをいただいているということ、息をしているということ、
こうして生きているとうこと、いのちがあるとうこと、そしていのちをいただいている
ということ。こういう原点に立ち戻るのが私たちの禅の修行であります。
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今日は円覚寺・大書院に於きまして「大坐禅会実行委員会」が開催されました。
臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱記念として平成28年の秋頃に
日本武道館のような大きな会場で何千人もの方にお集まりいただき、大坐禅会を
行うという目的のもと、このような会合が開かれ、様々な意見が交換されました。
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 建長寺の管長猊下をはじめ、各僧堂の老師様など錚錚(そうそう)たるお歴々方
がご出席されました。
 横田南嶺管長からは「今までに坐禅に縁がある方はもちろん、それまで縁のなかった方
にもぜひ参加していただきたい」と仰せになりました。
 「大坐禅会」に対する要望やご意見がありましたら、こちらのブログの
コメント欄にお寄せ下さいますように。参考にさせていただきたいと思います。
 
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 僧堂の雲水さんは、円覚寺境内の梅取りをしていました。この収穫した梅で
梅干しなどを作ります。
 

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