2016年11月13日

管長 11月日曜説教会 映像

 今日は、円覚寺・大方丈に於きまして、円覚寺派管長 横田南嶺老師による

日曜説教会が行われ、今回も500人近い方々が集まりました。

皆様、ぜひ、ご視聴くださいますように。

2016年9月11日

管長 9月日曜説教会映像

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今日は、円覚寺大方丈に於きまして、横田南嶺管長による日曜説教会が行われ

今回も500人近い大勢の方々が参加をされました。動画は、↓です。ご覧ください。

2016年8月30日

管長 第四日曜説教会映像

 先日28日に行われた日曜説教会での横田南嶺老師による法話映像です。

通常、第四日曜日の日曜説教会は、円覚寺派布教師の和尚様が月替わりで

行いますが、今月は、特別に横田南嶺老師がお話をなさいました。

 皆様、ぜひ、お聞きになってください。

 今回の日曜説教会には、関東致知若獅子の会(人間学の月刊誌「致知」の読書会)の

若者30数名も参加され、坐禅終了後、横田南嶺老師との懇談会が行われました。

2016年8月14日

管長 日曜説教会 映像

 今日は、円覚寺・大方丈において、横田南嶺管長による日曜説教会が行われ

500人に近い方々が参加をされました。皆様、ぜひ、ご覧になってください。

2016年7月10日

管長 7月・日曜説教会の映像


 
 今日は、円覚寺・大方丈において、横田南嶺管長による日曜説教会が行われ

500人に及ぶ大勢の方々が参加をされました。

 横田南嶺管長は、明後日の7月12日が円覚寺に縁が深い

鈴木大拙居士の没後50年ということで、大拙居士について

お話をされています。

 管長が以前、NHK「こころの時代」の聞き手である金光寿郎さんに

お会いした時に、「番組が始まって60年、数多くの宗教者や学者に

取材をしてきましたが、一番の人は誰ですか?」と尋ねると、金光さんは

「それは大拙先生」と即答をしたというエピソード。

 また、大拙先生に御付きの方が「阿弥陀様の本願は何ですか?」と尋ねると

先生は、窓の外を指さして「本願が昇ってきたよ。」と言われた。そこで

御付きの方が、窓の外を見るとちょうど朝日が昇っている光景が広がってた

などのお話を紹介されています。

 横田南嶺管長は、最後のまとめで「よく坐禅をなさる人は、今の自分に

足らないものがあると思い込んで、今よりももっと何か特別な力、例えば

いつも動揺しないとか、特別な能力を身につけたいと思われる方も

いらっしゃると思います。

 決して、それは否定するものではありませんが、確かに静かに坐禅をする

ことで冷静に判断することができるようになるかもしれない。

 しかし、もっと大切なことは、もっと単純なことであって、

今、こうして坐っている、今、こうして生きている、今、こうして

血が通って私は生きているんだというこのこと自体の素晴らしさに

気が付くことであります。

 様々な呼吸法がありますが、それらを詮索するよりも、この呼吸を

していること自体が素晴らしい仏様のいのちである、仏様の願いが

今の呼吸に表れている、この呼吸に生きていると感じることが大切です。

 ところで、私は以前お会いした数年後に、金光さんに「それでは、

2番目は誰ですか」と尋ねました。金光さんは、竹部勝之進さんという

在家の詩人の方を教えてくださいました。

 私が注目をしたのは、「わが身に頭が下がる」という言葉です。

わが身に頭が下がる人は、何ものもおそれない。老いようが病気に

なろうが、死を迎えようが。自分のこの体を有り難い、自分のこの

いのちを有り難いと心から頭が下がると何ものも恐れない。

 この体が仏様、このいのちが仏様のいのち、それを賜って今、

生きているこのことの有り難さ、素晴らしさに気が付いた時に

恐れるもの、不安になるものは、消えてなくなると竹部さんは

詠っているのです。

 どうか、皆さんも、自分の手を見て、これは誰が作ったものでもない、

仏様の手、いのちなのですから、人様に親切にするように使わなければ

なりません。

 皆さんの目は、仏様の目でありますから、人の悪いところ見て批判する

目ではなく、人の良いところを見てあげる目でなくてはなりません。

 皆さんの耳も仏様の耳でありますから、人の悩み苦しみを聞いてあげる耳で

なくてはなりません。

 この仏のいのち、体を精一杯使っていこうというのが大切なところで

あります。」とお話をまとめられました。

2015年9月8日

仏様のような顔になりなさい。

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<酔芙蓉(スイフヨウ) 大方丈裏庭にて>

 横田南嶺老師が、先月の日曜説教会(8月23日)で提唱されたことをまとめて

みました。(昨日のブログの続きです。)

 生まれた時というのは、みんな仏様のような顔だったのにいつの間にやら

今のような眉間にしわを寄せて難しい顔になってしまったのか。

延命十句観音和讃の中の「むさぼりいかりおろかにも ほとけのこころ見失い 

さまようこぞあわれなる」の状態になってはいないでしょうか。

 鏡で自分の顔をご覧になる時に、お化粧やひげのことばかりではなく、

そこに親のいのちが伝わっている、親の面影がある、さらには、もともとは

仏様のいのち、仏様の顔であったと感じてみてはいかがでしょうか?

 穏やかな顔、明るい顔、素直な心になれば、みんな、きっと、誰一人、

例外なく仏様のお顔になるはずです。

 お隣の建長寺さんに開山・蘭渓道隆禅師の鏡が伝わっています。この鏡を

見ると観音様の姿が映るという鏡です。これは、各々、一人一人が観音様の

いのち、観音様の心をいただいている、観音様のお姿が、本来の私たちの姿

であるということを表しています。

 松原泰道先生がお亡くなりになる前に、私に最後に言われた言葉があり、

今でも忘れられない言葉があります。車いすの先生が私の手をとって

言われたことは「明るい顔になりましたね。」でした。

 それは、「明るい顔、穏やかな顔、仏様のような顔になって生きよ!」という

先生の最後の教えであると受け止めています。

 明るい顔、穏やかな顔になるには、いかに深く感謝することができるか、

ここにかっかっているのではないかと思います。親、ご先祖様、仏様の

いのちをいただいているということに対する感謝の深さです。

 こういう話は、何回聞いたとか、何年通ったとかいうことが重要なのでは

なく、どれだけ深く感謝をすることができるかにかかっています。

 それがお互いの顔に表れてくるのではないでしょうか。鏡を見るたびに

思い出して欲しいことであります。

2015年9月7日

けさ秋や見入る鏡に親の顔

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<雨上がり、秋海棠(シュウカイドウ)・黄梅院にて>

横田南嶺老師が、先月の日曜説教会(8月23日)で提唱されたことをまとめて

みました。

 俳人・村上鬼城の俳句に「けさ秋や 見入る鏡に 親の顔」というものが

あります。じっと、鏡の中の自分の顔を見ていると、そこに親の面影がある

という意味の俳句です。

 親だけではありません、自分の顔の中には自分が会ったことのないご先祖様の

姿、面影も偲ぶことができるのです。先日、法要の為に檀家さんのお宅に訪問して、

その家の居間にかけてあるご先祖の遺影写真を眺めていると今の当主に

そっくりだということに気が付きました。

 私の顔、私の顔と思っていても、この顔は、決して自分で拵えたものでは

ありません。これは、ご先祖様から永永と伝えられてきたいのちの結晶で

あります。

 「盆参り いのちのリレーに 手を合わす」という俳句があります。

お盆の時期にお墓参りをして、ご先祖様からいのちのバトンを受け継いで

今日まで繋がっている、このリレーに手を合わすということを詠っています。

 松原泰道先生が100歳の誕生日を迎えられた朝、ある若い出版社の方が

取材で先生に質問をしました。「100歳を迎えられて、まず、何を思いますか?」

先生は即座に「母のことです」とお答えになりました。そして「自分は3歳の時に

母を亡くしました。自分はもともと体が弱かったが、特別、何か健康法をしてきた訳

ではありません。こんな自分が100歳という長生きができたということは

若くして亡くなった母が自分の寿命を私にくれたんだと思っているんです。

だから、100歳を迎えた朝、真っ先に思ったことは、母に有り難うということでした」

と話されました。

 このいのちのリレーというのは、親ばかりではなく、私たちが直接知らない、

親のまた親、またその親と限りなく代々、受け継いできたことです。

その素晴らしいいのちが今ここにこうして生きて働いているわけです。

 親のまた親とずっと遡っていけば、もうはかり知れない、もう言葉で

表すことも姿形で表現することもできないもので、それを大いなるいのち、

仏様のいのち、仏そのものという言い方をするのです。

 そのような見方をしてみると、私たちが今生きているこのいのちは

親を通していただいた仏様のいのちであります。

 私たちの顔を鏡に映してみれは、親の面影ばかりではなく、それこそ

ご先祖様もあり、もっと大事なことは、仏様の顔や面影も本当はそこに

表れているはずです。

(後記)

 次回の日曜説教会は、9月13日(日)9:00 場所 大方丈にて

開催されます。どなたでも参加することができます。

皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2015年3月3日

母を念(おも)えば

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ー居士林の庭の梅も満開ですー

 円覚寺派管長・横田南嶺老師が日曜説教会(平成26年5月11日)で提唱されたことを

まとめてみました。

 坂村真民先生が90歳を越えてから書かれた「母を念(おも)えば」(坂村真民全詩集第8巻p232)

という詩があります。

{母を念えば

どんな苦労も

じっと耐え

生きる力が

わいてくる

 母を念えば

手足の爪も

母のいのちの

こもるもの

 母を念えば

鳩寿過ぎても

子供なり

・・・}

坂村先生の90歳を過ぎても、なお、お母様を思う気持ちに、私は非常に心を打たれました。

90歳を越えても、母を念えば自分は子供になる。いくたび生まれ変わろうが

どんな風になろうとも母と子のこの絆は変わることがない。

 明日どうなるかは誰にもわかりません。死んだ後どうなるかも、また、誰にもわからない。

しかし、親が子を思い、子が親を思う、こういう心・まごころは、決してかわることがなく

受け継がれていき、消えないものであると真民先生のこの詩から改めて気づかされます。

 よく使う禅語があります。

{此の秋は 水か風かは 知らねども  

      その日のわざに 田草とるなり }

 この秋は台風が来るかもしれないし、予期せぬようなことが起こるかもしれない。

たとえどうなろうとも、私たちは今日の務めである田草を取るのだという内容の歌です。

 明日があることを信じて、親子の愛のように変わることのないものが

あることを信じて、今の自分に与えられた務めをやっていけば自然と

成るように成るものです。

2015年2月27日

これ以上の奇跡はない

 円覚寺派管長・横田南嶺老師が日曜説教会(平成26年6月8日)で提唱されたことを

まとめてみました。

 先日、新聞に「持っている」という題の詩が掲載されていました。

{なぜ、持っていないものばかりを数えるのだろう

なぜ持っているものは数えないのだろう

たぶん それは持っている幸福は当たり前だと思っているから

違うのに

持っている幸せは奇跡なのに}

 人は自分に足りないものばかりを追い求め、逆にすでに自分に備わっているものは

当たり前と思い目を向けようとしませせん。

腰骨を立てて静かに呼吸をして気がつく第一のものは、この「持っているものの幸せ」です。

これに気がつくといくことは、具体的には、感謝の心となって起きてくる。

持っているものを当たり前、人から何かをもらうのが当たり前と思っている人からは、

感謝の心は起きてきません。

 私たちが持っているもの、もらったもので一番何が有り難いかというと、それは

親からこの世にいのちをたまわったことです。これ以上の奇跡、幸せはありません。

どうか無事、健やかにと、両親が祈り願って生まれてきたこのお互いのこのいのち

です。

 森信三先生の言葉があります。「どんな苦しい人生であってもこのいのちを

このいのちをたまわったということ、この世にいのちを与えられたということほど

大きな恩恵は、この地上にはない。この点をはっきり知らすことが真の宗教という

ものである。」

 宗教というと何か特別なことを信じるとか、特別な儀式ををしなければならないように

思われがちです。しかし、それらはあくまで枝葉末節であって、お互いがこの世に

いのちをたまわったこと、これ以上の奇跡がないということを説いていくのが

真の宗教であるということを、森先生は慧眼を持って指摘くださっています。

 このいのちは、誰も作ることができないし、いつ生まれたのかもわからない。

両親を通じていのちをたまわり、その両親も親を通じて・・・と引き継いできました。

それをたどっていくとはかり知ることができないと気づくはずです。

私たちはそのはかり知ることの出来ないいのちをこうしていただいて生きているのです。

 こうして話を聞くことができることは、どんなに不思議で奇跡であることか。

こう気がつくことができたなら、それは自分だけではない、隣に坐っている人も

かけがえのないいのちをいただいて生きていると実感出来るはずです。

 人間だけではない、草木からネコや犬など動物にいたるまであらゆる

生きとし生けるものが、尊いいのちをいただいているとわかってきます。

このはかり知れないいのちのことを、私たちは、神様や仏様、阿弥陀様などと

呼んでいるのです。このいのちが私たちの体の上に働いているから、こうして

生きているのです。

 そう気づくと周りの人に対して、人だけではなく、草木や動物までいのちあるものは

大事にしていこうという本来備わっている心の働きが必ず涌いてきます。その働きが

慈悲心なのです。

 外のもの、自分にないものばかりを求めがちでありますが、そうではなく、

心の向きを変えて自分を見つめる、今、自分に備わっているものに目を向ける。

今、自分はこんなにも素晴らしいいのちをいただいている、なんと幸せなんだという

根本に立ち返るのです。

 おなかの底からふつふつと湧いてくるいのちの喜びに目覚めて1日1日、お互いの

いのちを大切に、ましてや、傷つけることなく損なうことなく暮らしていく。

お互い、一人では弱い存在です。だからこそ、お互いに助け合い、声を掛け合い

生きていきましょうというのがお釈迦様の教えであります。

2015年2月26日

真の御利益(ごりやく)とは

 円覚寺派管長・横田南嶺老師が日曜説教会(平成26年7月12日)で提唱されたことを

まとめてみました。

 昭和29年9月26日、青函連絡船 洞爺丸が台風の為に沈没し死者・行方不明1155人という

海難事故がありました。松原泰道先生はこの洞爺丸に乗る予定で切符まで購入していました。

松原先生は北海道を講演旅行をし終えて摩周湖あたりを観光して、函館にて洞爺丸に

乗って本土に帰る予定でした。

 ところが、先生が函館につくと修業時代の先輩が突然やってきて「今、台風が近づいているから

早く帰れ」となかば、強引に洞爺丸より一便早い船に乗せられたそうです。

そして、明くる朝東京に着いてみて洞爺丸が沈没したことをお知りになりました。

 この大惨事の事故の後、新聞記者の方が松原先生を取材されました。記者は

いろいろなことを先生に訊いた後、先生にこう言いました。

「やはり、先生さすがですね。信心深い人はこういう御利益があるのですね。」

それに対して先生は言われました。

「私が死んで他の人が助かったのならば、それは御利益というけれど、私が助かって

大勢の人が亡くなったことを御利益とは言わない。」

 この話は、松原先生から直接聞いた話です。私は非常に感銘を受けて

決して忘れることのできない言葉の一つです。

 その洞爺丸には、たまたま、3人のキリスト教の宣教師も乗っていて、3人、力をあわせ、

悲鳴の渦のなかで逃げまどう乗客に救命具を配り、着用に手間取る子どもや女性を必至に助けました。

ある宣教師は、救命具のない学生を見つけ、「あなたの前途は長いから」といって救命具をゆずり、

また、別の宣教師は、子どもづれの母親に自分の救命具を与え、最後まで励まし続けたと伝えられています。

そして、2人の宣教師は亡くなってしまいました。事故後、しばらく経って宣教師のご子息の方は

「父は泳ぐことができなかった」と告白されました。松原先生は、こういうことを本当に御利益ある

というのだと語っていらっしゃいました。

 こういう話を聞くと素晴らしいと思いますが、それでは、実際、私たちが宣教師さんのように

そこまでできるかというと、それはたいへん難しいものです。しかし、こうして仏の教えを

学ばさせていただく身として、少なくとも、自分だけが良い目に遭うことは決してしないと

胸に納めていきたいおきたいものです。

 いのちをいただいたこと、今日まで生かされてきたこと、このたまわったいのちも

授かったいのちも、みんないろいろな人のおかげである。そう感謝する人間になることが

一番大きな御利益ではないでしょうか。

 亡くなった宣教師さんのようにいかなくても、多くの人多くのもののおかげでこうして

生かされていると感謝し、自分の出来る範囲で何か誰かに少しでもお役に立てることの

できる人間になる。それこそが神仏を拝み、仏を学び坐禅をする真の御利益なのでは

ないでしょうか。

 

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