2017年6月11日

管長 日曜説教会映像

今日、円覚寺・大方丈にて行われた横田南嶺管長による日曜説教会の映像です。

横田南嶺管長が先日、PHP出版の方の取材を受けた時のエピソードをお話されています。

イライラした時の心の対処の仕方などを具体的にわかりやすく諭されています。

 皆様、ご覧くださいますように。

2017年5月14日

横田南嶺管長による5月の日曜説教会 映像

 今日、円覚寺・大方丈にて行われた横田南嶺管長による日曜説教会の映像です。

 臨済禅師とその師匠の黄檗禅師とのエピソードに「臨済栽松」という話があり、

その中に「山奥になぜ松を栽(う)えるか?」という質問があります。

 横田南嶺管長は、法話の最後に相田みつをさんの「松の木の皮」という詩を

引用して、その答えをお説きになっています。

2016年11月13日

管長 11月日曜説教会 映像

 今日は、円覚寺・大方丈に於きまして、円覚寺派管長 横田南嶺老師による

日曜説教会が行われ、今回も500人近い方々が集まりました。

皆様、ぜひ、ご視聴くださいますように。

2016年9月11日

管長 9月日曜説教会映像

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今日は、円覚寺大方丈に於きまして、横田南嶺管長による日曜説教会が行われ

今回も500人近い大勢の方々が参加をされました。動画は、↓です。ご覧ください。

2016年8月30日

管長 第四日曜説教会映像

 先日28日に行われた日曜説教会での横田南嶺老師による法話映像です。

通常、第四日曜日の日曜説教会は、円覚寺派布教師の和尚様が月替わりで

行いますが、今月は、特別に横田南嶺老師がお話をなさいました。

 皆様、ぜひ、お聞きになってください。

 今回の日曜説教会には、関東致知若獅子の会(人間学の月刊誌「致知」の読書会)の

若者30数名も参加され、坐禅終了後、横田南嶺老師との懇談会が行われました。

2016年8月14日

管長 日曜説教会 映像

 今日は、円覚寺・大方丈において、横田南嶺管長による日曜説教会が行われ

500人に近い方々が参加をされました。皆様、ぜひ、ご覧になってください。

2016年7月10日

管長 7月・日曜説教会の映像


 
 今日は、円覚寺・大方丈において、横田南嶺管長による日曜説教会が行われ

500人に及ぶ大勢の方々が参加をされました。

 横田南嶺管長は、明後日の7月12日が円覚寺に縁が深い

鈴木大拙居士の没後50年ということで、大拙居士について

お話をされています。

 管長が以前、NHK「こころの時代」の聞き手である金光寿郎さんに

お会いした時に、「番組が始まって60年、数多くの宗教者や学者に

取材をしてきましたが、一番の人は誰ですか?」と尋ねると、金光さんは

「それは大拙先生」と即答をしたというエピソード。

 また、大拙先生に御付きの方が「阿弥陀様の本願は何ですか?」と尋ねると

先生は、窓の外を指さして「本願が昇ってきたよ。」と言われた。そこで

御付きの方が、窓の外を見るとちょうど朝日が昇っている光景が広がってた

などのお話を紹介されています。

 横田南嶺管長は、最後のまとめで「よく坐禅をなさる人は、今の自分に

足らないものがあると思い込んで、今よりももっと何か特別な力、例えば

いつも動揺しないとか、特別な能力を身につけたいと思われる方も

いらっしゃると思います。

 決して、それは否定するものではありませんが、確かに静かに坐禅をする

ことで冷静に判断することができるようになるかもしれない。

 しかし、もっと大切なことは、もっと単純なことであって、

今、こうして坐っている、今、こうして生きている、今、こうして

血が通って私は生きているんだというこのこと自体の素晴らしさに

気が付くことであります。

 様々な呼吸法がありますが、それらを詮索するよりも、この呼吸を

していること自体が素晴らしい仏様のいのちである、仏様の願いが

今の呼吸に表れている、この呼吸に生きていると感じることが大切です。

 ところで、私は以前お会いした数年後に、金光さんに「それでは、

2番目は誰ですか」と尋ねました。金光さんは、竹部勝之進さんという

在家の詩人の方を教えてくださいました。

 私が注目をしたのは、「わが身に頭が下がる」という言葉です。

わが身に頭が下がる人は、何ものもおそれない。老いようが病気に

なろうが、死を迎えようが。自分のこの体を有り難い、自分のこの

いのちを有り難いと心から頭が下がると何ものも恐れない。

 この体が仏様、このいのちが仏様のいのち、それを賜って今、

生きているこのことの有り難さ、素晴らしさに気が付いた時に

恐れるもの、不安になるものは、消えてなくなると竹部さんは

詠っているのです。

 どうか、皆さんも、自分の手を見て、これは誰が作ったものでもない、

仏様の手、いのちなのですから、人様に親切にするように使わなければ

なりません。

 皆さんの目は、仏様の目でありますから、人の悪いところ見て批判する

目ではなく、人の良いところを見てあげる目でなくてはなりません。

 皆さんの耳も仏様の耳でありますから、人の悩み苦しみを聞いてあげる耳で

なくてはなりません。

 この仏のいのち、体を精一杯使っていこうというのが大切なところで

あります。」とお話をまとめられました。

2015年9月8日

仏様のような顔になりなさい。

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<酔芙蓉(スイフヨウ) 大方丈裏庭にて>

 横田南嶺老師が、先月の日曜説教会(8月23日)で提唱されたことをまとめて

みました。(昨日のブログの続きです。)

 生まれた時というのは、みんな仏様のような顔だったのにいつの間にやら

今のような眉間にしわを寄せて難しい顔になってしまったのか。

延命十句観音和讃の中の「むさぼりいかりおろかにも ほとけのこころ見失い 

さまようこぞあわれなる」の状態になってはいないでしょうか。

 鏡で自分の顔をご覧になる時に、お化粧やひげのことばかりではなく、

そこに親のいのちが伝わっている、親の面影がある、さらには、もともとは

仏様のいのち、仏様の顔であったと感じてみてはいかがでしょうか?

 穏やかな顔、明るい顔、素直な心になれば、みんな、きっと、誰一人、

例外なく仏様のお顔になるはずです。

 お隣の建長寺さんに開山・蘭渓道隆禅師の鏡が伝わっています。この鏡を

見ると観音様の姿が映るという鏡です。これは、各々、一人一人が観音様の

いのち、観音様の心をいただいている、観音様のお姿が、本来の私たちの姿

であるということを表しています。

 松原泰道先生がお亡くなりになる前に、私に最後に言われた言葉があり、

今でも忘れられない言葉があります。車いすの先生が私の手をとって

言われたことは「明るい顔になりましたね。」でした。

 それは、「明るい顔、穏やかな顔、仏様のような顔になって生きよ!」という

先生の最後の教えであると受け止めています。

 明るい顔、穏やかな顔になるには、いかに深く感謝することができるか、

ここにかっかっているのではないかと思います。親、ご先祖様、仏様の

いのちをいただいているということに対する感謝の深さです。

 こういう話は、何回聞いたとか、何年通ったとかいうことが重要なのでは

なく、どれだけ深く感謝をすることができるかにかかっています。

 それがお互いの顔に表れてくるのではないでしょうか。鏡を見るたびに

思い出して欲しいことであります。

2015年9月7日

けさ秋や見入る鏡に親の顔

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<雨上がり、秋海棠(シュウカイドウ)・黄梅院にて>

横田南嶺老師が、先月の日曜説教会(8月23日)で提唱されたことをまとめて

みました。

 俳人・村上鬼城の俳句に「けさ秋や 見入る鏡に 親の顔」というものが

あります。じっと、鏡の中の自分の顔を見ていると、そこに親の面影がある

という意味の俳句です。

 親だけではありません、自分の顔の中には自分が会ったことのないご先祖様の

姿、面影も偲ぶことができるのです。先日、法要の為に檀家さんのお宅に訪問して、

その家の居間にかけてあるご先祖の遺影写真を眺めていると今の当主に

そっくりだということに気が付きました。

 私の顔、私の顔と思っていても、この顔は、決して自分で拵えたものでは

ありません。これは、ご先祖様から永永と伝えられてきたいのちの結晶で

あります。

 「盆参り いのちのリレーに 手を合わす」という俳句があります。

お盆の時期にお墓参りをして、ご先祖様からいのちのバトンを受け継いで

今日まで繋がっている、このリレーに手を合わすということを詠っています。

 松原泰道先生が100歳の誕生日を迎えられた朝、ある若い出版社の方が

取材で先生に質問をしました。「100歳を迎えられて、まず、何を思いますか?」

先生は即座に「母のことです」とお答えになりました。そして「自分は3歳の時に

母を亡くしました。自分はもともと体が弱かったが、特別、何か健康法をしてきた訳

ではありません。こんな自分が100歳という長生きができたということは

若くして亡くなった母が自分の寿命を私にくれたんだと思っているんです。

だから、100歳を迎えた朝、真っ先に思ったことは、母に有り難うということでした」

と話されました。

 このいのちのリレーというのは、親ばかりではなく、私たちが直接知らない、

親のまた親、またその親と限りなく代々、受け継いできたことです。

その素晴らしいいのちが今ここにこうして生きて働いているわけです。

 親のまた親とずっと遡っていけば、もうはかり知れない、もう言葉で

表すことも姿形で表現することもできないもので、それを大いなるいのち、

仏様のいのち、仏そのものという言い方をするのです。

 そのような見方をしてみると、私たちが今生きているこのいのちは

親を通していただいた仏様のいのちであります。

 私たちの顔を鏡に映してみれは、親の面影ばかりではなく、それこそ

ご先祖様もあり、もっと大事なことは、仏様の顔や面影も本当はそこに

表れているはずです。

(後記)

 次回の日曜説教会は、9月13日(日)9:00 場所 大方丈にて

開催されます。どなたでも参加することができます。

皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2015年3月3日

母を念(おも)えば

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ー居士林の庭の梅も満開ですー

 円覚寺派管長・横田南嶺老師が日曜説教会(平成26年5月11日)で提唱されたことを

まとめてみました。

 坂村真民先生が90歳を越えてから書かれた「母を念(おも)えば」(坂村真民全詩集第8巻p232)

という詩があります。

{母を念えば

どんな苦労も

じっと耐え

生きる力が

わいてくる

 母を念えば

手足の爪も

母のいのちの

こもるもの

 母を念えば

鳩寿過ぎても

子供なり

・・・}

坂村先生の90歳を過ぎても、なお、お母様を思う気持ちに、私は非常に心を打たれました。

90歳を越えても、母を念えば自分は子供になる。いくたび生まれ変わろうが

どんな風になろうとも母と子のこの絆は変わることがない。

 明日どうなるかは誰にもわかりません。死んだ後どうなるかも、また、誰にもわからない。

しかし、親が子を思い、子が親を思う、こういう心・まごころは、決してかわることがなく

受け継がれていき、消えないものであると真民先生のこの詩から改めて気づかされます。

 よく使う禅語があります。

{此の秋は 水か風かは 知らねども  

      その日のわざに 田草とるなり }

 この秋は台風が来るかもしれないし、予期せぬようなことが起こるかもしれない。

たとえどうなろうとも、私たちは今日の務めである田草を取るのだという内容の歌です。

 明日があることを信じて、親子の愛のように変わることのないものが

あることを信じて、今の自分に与えられた務めをやっていけば自然と

成るように成るものです。

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