2014年7月19日

みんな仏様

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 横田南嶺管長が今日の夏期講座で提唱されたことをまとめてみました。

 私が初めて提唱を聞いたのは、10歳の小学生の時でした。小学生ですから

禅の話が何かわかるはずがないのは当たり前ですが、一つだけ覚えている話が

あります。

 それは、老師がお話をする前に、老師自身が手を合わせみんなの様子を見て

「今、ここにお集まりの皆様はみんな仏様です。」と仰せになったことです。

それだけは衝撃的で覚えています。

 その当時の私は「どうして私たちが仏様なのであろうか?」「少し坐禅をしたからといって

仏様になるというのか?」「なぜ、老師は私たちを拝まれたのか?」と様々なことを

考えました。

 あれから、早いもので40年、ずっと坐禅をして参りまして最近、そのことが少し

わかりかけてきました。こうして、ここにお集まりの大勢の皆様が手を合わせて

頭を下げて感謝をしている姿を拝見すると「ああ、なるほど、みんな仏様だなんだ。」

と40年かかりまして、ようやく、なるほどと思うようになりました。

有り難いとみんなが手を合わせる様子は本当に素晴らしくて仏様に見えるこの頃です。

(後記)

第79回円覚寺夏季講座は今日から22日まで開催されます。

明日20日(日)の講師は

8:30~9:00 横田南嶺管長 「無門関提唱」

9:45~10:55 水谷修先生 「こころの病の時代」

11:10~12:20 奈良康明先生 「釈尊と禅仏教」

となっております。当日券(1,500円)もございます。

どなたでも聴講することができますので、皆様、お誘い合わせの上

ご来山くださいますように。 

2014年7月7日

阿弥陀さま

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横田南嶺老師が僧堂摂心で提唱されたことをまとめてみました。

阿弥陀さまとは、人々を救うために四十八の誓願を立てられた仏さまで、
阿弥陀さまの本当の願い(本願)はその中の第十八願にあります。
「私(阿弥陀さま)の名前を少なくとも十遍唱えたならば、必ず極楽浄土に往生させる。この誓願が叶わぬ限り、私は仏になることは決してない」
浄土宗ではこの本願によって人々は救われるとされています。

ある時、行空という弟子が
「念仏を十遍唱えれば、阿弥陀さまが迎えに来て下さるというのは本当でしょうか」
と法然上人に尋ねました。これに対して法然上人は、
「あなたがその手で虚空を掴むことが出来たら、必ず阿弥陀さまはご来迎下さるでしょう」
と答えたそうです。

人から聞いた話を頼りに、想像で作り上げた阿弥陀さまの姿形のみを探し求めれば、あちらこちらを彷徨うだけで、却って阿弥陀さまを見失う。
虚空を手で掴むようなものです。

阿弥陀さまは迎えに来てくれるのか
阿弥陀さまは本当にいらっしゃるのか
阿弥陀さまとは一体何であろうか
阿弥陀さまを求めて求めて、求めつくして、求める心の働きまでが途絶えてしまった時、
阿弥陀さまは目の前に現れる。

山本空外上人という方が阿弥陀さまについて以下のように仰ったそうです。
阿弥陀仏とは、私たちが今生きているという、この命を表わす言葉である。
心臓も自分で動かすことなく自然に動いており、大自然の命が私たちに働いている。
この命の根源を阿弥陀さまというのである。

私たちが普段何気なくしている、一呼吸一呼吸こそが命の根源であり、阿弥陀さまです。
趙州の無になりきるのも、ナムアミダブツと唱えるのも、大自然の命と一つに溶けあって自我を無くしていくことに変わりありません。
無限の慈悲の心に満たされて、生かされているのだと気づかせてくれるのが、念仏であり坐禅であります。

2014年6月19日

本当の坊さんとは?

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 先日13日、円覚寺・信徒会館2階で行われた住職研修会の様子です。

横田南嶺管長には釈宗演老師について講演をしていただきました。

 その講演の一部をまとめてみました。

 釈宗演老師に「敢えて苦言を吐く」という文章があり、その中で真の坊さんとは何か?について

ふれています。その内容は「頭を剃って衣を着ているからといって坊さんとして十分なのではない。

お経を唱え、念仏をしていれば、それで十分ではない。戒律を守り苦行をしているからとって坊さん

として十分なのではない。博学、たくさん勉強をしているのは、それはそれで立派だけどそれだけでは

十分ではない。

 
 坊さんの本領は自分のことは無我でなければならない。自分自身が無我であれば人に対する時は

和合であります。これが坊さんとして一番大事なことです。自分のことはこれっぽっちも考えず

人に会うときは柔らかでその人その人に応じて接していく。

 どんなに立派な学問があってもどんな立派にものがしゃべれても、この和合がなければ坊さんではない。」

 「夫れ僧耶は・・・自身無我なり。自身無我なるが故に他に対する時は和合なり。」お坊さんは、和合それが

一番大事な資質なのです。

(後記)

 円覚寺専門修行道場(僧堂)では、明日から26日まで1週間の集中坐禅修行期間(大攝心)に入ります。

2014年6月18日

これからのお寺のあり方

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先日12日に行われた円覚寺派住職研修会での横田南嶺管長ご垂示の写真です。

 横田南嶺管長が住職研修会で参加の和尚さん方に垂示されたことをまとめてみました。

 東京・有楽町の国際フォーラム内にある相田みつを美術館では、先日まで

坂村真民と相田みつをの特別展をやっていました。3月から6月の3ヶ月の期間中に

なんと6万人もの人が会場に訪れたそうです。私も期間中何度も美術館に足を運び

相田みつを美術館が「どういうふうに人の心をとらえるような展示・工夫がなされているか?」

勉強してきました。

 相田みつを美術館は年間40万人もの人が訪れ、この数は円覚寺の年間拝観客数とほぼ同じです。

東京のど真ん中の場所にある国際フォーラムに移ってからもう10年たっている。相田みつをさん

自身はもうお亡くなりなった人であるから新しい作品が出来るわけではない。そのような状況の中で

今まで書き残した作品でいろいろな企画展をして今に到るわけです。

 東京の一等地ですから賃貸料は高いし、大勢のスタッフの人件費もあり運営をしていくには大変な

努力だと思います。

 私たち、お寺というと別段客商売ではありませんが、やはり、これから学ぶべきことは多いと思います。

禅宗の歴史をみると、昔はお寺は人が来ない、来なくてもよかった。一般の人がお寺に入れるのは

お釈迦様の誕生日の降誕会くらいでした。我々坊さんは何をしていたのかというと修行をしていれば

よかったのです。その代わり、お寺の暮らしは鎌倉幕府が全部守ってくれていた。

 ですから、禅宗ではおおよそ一般民衆に対しては残念ながらほぼ何もしていない。

禅宗の坊さんが相手にするのは幕府の上層部で、その一部の人に禅を説いていればそれでよかった。

明治維新まではその時代、時代の政権に守られてきましたが、維新で基盤を失います。

 こうなると何がお寺を支えてくれますか?円覚寺では地元の有力な地主さんなどを信者に

することでどうにかここまでやってきました。しかし、今はご承知の通り、大きな家が続いて

いくことが困難な時代となりました。

 それでは、これからの時代私たち、お寺を支えてくれるものはいったい何か?相田みつを美術館

から学ぶことの一つは、ああいった大勢の人を頼りにしていくことです。私たちお寺は、大勢の人々に

伝えるべきものを伝え、そして大勢の人々から大事にされていく。そういう新しい関係を気づき上げて

いかなければ生き残ることは難しいのではないかと思います。

 檀家制度もありますが、段々と頼る割合が減っているのが現実です。それだけを頼るのはもう

かなり難しくなっていくでしょう。

 相田みつを美術館には、大勢の何ら関係のない人々まで足をとめ、入っていく。もしろん、入場料も

かかりますから、それにかなうだけの、それだけのものがなければ年間40万人もの人は訪れないでしょう。

私たち坊さんも、まだ現状で大丈夫とあぐらをかいていてはいけません。大勢の人が集まるのはいったい

どういった工夫があるのか学んでいかねばならないときに来ているのではないでしょうか。

 
 
 

2014年6月17日

対機説法その3

イエール大学坐禅会の質疑応答の続きです。

学生:禅と他の宗教との関係は?

老師:学問もそうですが、他に宗教は、お互いの宗教の違いを見つけることが多い。だから、限界がある。

   それとは逆に我々禅は、お互いの良いところ共通しているところを見つける。違うところは

   お互い目をつむる。自分と違うものの中に楽しみを見つけていく。

学生:修行は厳しいのですか?

老師:修行の時、厳しいのは逆に、親切なのです。修行を終えてお寺に入れば

そこには現実にもっとつらい生活が待っていることの方が多い。修行時代に

思うようにいかない、つらい体験をしていれば、お寺で多少の困難に遭遇しようと

「修業時代に比べたら」とまだ、耐えられる。

学生:良い悪いと判断する基準は何か?

老師:自然に順応することは良いことであるし、逆に自然を破壊するものは悪いものです。

学生:時代が下るにつれてクオリティが下がるという「末法思想」を禅ではどう考えますか?

老師:禅では人間の善し悪しは時代が変わっても、あまり変わらないと考えます。いつの時代でも

やればちゃんとできる。人間の心は善もあれば悪もある、それはいつの時代も変わらない。

学生:動物は弱肉強食ですがそれをどう思いますか?

老師:それは自然なこと。ただし、必要以上に無駄に殺すことは避けなければいけない。

(後記)

これらの質問は皆さんも驚きことと思いますが、アメリカの大学に通い日本の文化などを勉強

している外国人の方がされたものです。私たち日本人も見習わなければならないような内容でした。

2014年6月17日

対機説法その2

イエール大学坐禅会の質疑応答の続きです。

学生:お寺の日本国民にとっての役割とは何ですか?

老師:生産活動など面からみたら、役に立っていないが、その役に立っていない

   ところに一般の人は安らぎを感じるのではないか。私たち、お坊さんは

   何かを生産しようとしてあくせく働いているわけではない。そういう人が社会に

   いるということが安らぎになる。

学生:近代化の中でどのように伝統を保つのか?

老師:薪でご飯を作り、風呂をわかすなど、近代化を避けて部分も残しますが

   現実には電話なども使わないと生活できない。しかし、変わらない世界を

   持っていれば変わる世界に対応することはできる。  

学生:最近、何かに挑戦をされましたか?

老師:インターフェイスマラソンという駅伝に走者として参加をしました。42.195キロを

   10キロずつ異なる宗教者がタスキを伝えるマラソンです。キリスト教、仏教

   神道、イスラム教の走者が一つのタスキを伝えました。そのプレス発表の席で

   記者から「本当に異なる宗教者が一つになれるのか?」と質問を受けました。

   だから、私は答えたんです。「走る姿にキリスト教もイスラム教もありますか?」

   みんな同じような姿をして息を切らしながら一生懸命走る。我々仏教だからといって

   袈裟に衣で走る訳にもいかないし、かっこつけていられない。走る姿を見れば

   一つになるのはわかる。」と。

学生:外の世界の誘惑はどう対処していますか?

老師:衣を着てこういう一般の人とは違った格好をしているので自然と抑制がきく。

   この衣姿で牛丼屋で牛丼を食べることはできませんね。修行の最初の頃は

   多少は様々な葛藤がありますが、良い書物を読もうとか、もっと勉強をしようとか

   別の楽しみが出てくる。

学生:宗教指導者として、尊敬されるプレッシャーや常に正しい答えを出さなければならない

プレッシャーはありませんか?

老師:私は今の立場に別段なろうとしてなったわけではありません。プレッシャーというのは

大概、地位や名誉を失わないようにしようとすることから起こるのです。私は今の立場を

修行の上での一つの役割と考えていますから、あまりそういったプレッシャーはありません。

学生:最後に怒ったのはいつでしたか?

老師:さて、いつでしたか?感情を荒立てるということは無駄なエネルギーを費やすことだと

   最近思っています。

次に続く・・・

2014年6月17日

対機説法その1

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スイレン 於 僧堂 

先日の6月13,14日と居士林にてイエール大学の泊まりの坐禅会が行われました。

国際色豊かな15名の学生が参加をされました。14日には横田南嶺老師との質疑応答の

時間があり学生さんから様々な質問がなされ、老師はそれに対して一つ一つ丁寧にお答えに

なっていきました。そのいくつかをまとめてみました。

 学生:禅のゴールとは何ですか?

老師:ゴールはそこにいるあなたです。いろいろやって骨折り苦労をしてやっと気づく。

学生:大自然と禅の関係は?

老師:禅は自然(そのもの)であり、自然は禅です。何か特別な能力を身につけることではなく

今の自分を一生懸命生きるより道はない。

学生:老師にとって坐禅をすることとは?

老師:くらしの一部です。朝起きて顔を洗う、ご飯を食べるようなものです。

   だから、忘れることがない。

学生:悟ったかどうかはどうわかるのか?

老師:自分が一番よくわかる。たとえば、風邪をひいたかどうか当の本人が

一番わかるように。

学生:次の老師はどうやって決められるのか?

老師:到達した人が次の人が老師にふさわしいかどうかを認める。

学生:食事の作法ではなるべく音を立てないとのことでしたがなぜですか?

老師:一つは本人の瞑想の為。二つめは、自分たちだけが食べていると

  餓鬼のように食べることができないものたちに苦しい思いをさせるので、

  それを思いやって静かにいただく。自分たちだけが生きているのではない。

  目に見えないものも生きているという考えです。

学生:無となんですか?

老師:辞書を調べると、「無」には実は自然・草が生い茂るという意味もある。

   花が咲き鳥がさえずるなど天地自然の様子のことです。禅の問題で

   無を持ってこい!と言ったら、今日のような暑い日でしたら、

   冷たい飲み物を持っていくのが一つの答えです。

学生:父母未生以前本来の面目とは?

老師:これはいのちの問題です。いのちはあなたの両親が作ったものではない。

   あなたの両親もその親から受け継ぎ、その親もまたその前の親から受け継いでいる。

   それがずっと続いている。それは姿・形はないけれどちゃんとあなた自身に

   そのいのちは生きている。

   続く・・・
   

2014年6月11日

悩むカエルがいたら

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シュレーゲルアオガエル 於 妙香池・・・オランダ人のシュレーゲルさんが命名したので

横文字の名前がついていますが、実は日本の固有種です。夏の坐禅には、カエルの合唱がつきものです。

 横田南嶺老師が日曜坐禅会(5月14日)で提唱されたことをまとめてみました。

 仏様も我々人間もまた動物・植物にいたるまであらゆる命あるものは、

みな同じ一つのこころです。仏様となったからといってこころが立派になる訳ではなく

迷っているからといってこころが減るということもない。

 今、この大方丈の裏の池ではカエルたちが鳴いています。私がこうして古い漢文の

語録を講義すると何やら有り難いように思われるかもしれませんが、本当のところは

私がこうしてべらべらとやっているのも、隣の池でカエルがケロケロと鳴いているのも

何も変わることはないのです。

 皆さん方は、カエルの声がうるさいと思われるかもしれませんが、池のカエルたちは

隣で人間達が何やらざわざわしているぞ、うるさいぞとは決して思ってはいませんでしょう。

カエルたちは無心に鳴いているだけです。あれはそのまま仏様の姿です。

 もし、悩んでいるカエルがいたらどうでしょう?「自分はこれでいいのか?自分の泣き声は

果たしてこれで良いのだろうか?」と悩み苦しんでいるカエルがいたら、皆さんはどう思いますか?

おそらく「そんなことで悩まなくてもあなたは立派なカエルだ、そのままでいい、今鳴いている

通りでいい。」と声を掛けたくなるでしょう。「もっときれいな鳴き方をしたら仏になる」なんて

余計なことを考えないで一生懸命、精一杯鳴いていれば、それで立派なカエルなのです。

それ以上、何を求めるというのですか?

 逆にカエルからこちら人間を見たらどうでしょうか?「立派な人間になるにはどうしたらよいか?

どう坐禅をすれば立派な人間になれるか?サトリとはいったいなんであるか?」と考えている人が

いたら、カエルたちはおそらく次のように思うでしょう。「あなたはすでに立派な人間ではないか。

こうして坐禅をしているだけで十分素晴らしいではないか。これ以上何を求めようというのか?」と。

 私たちの迷い、悩みというのはおおよそ、そういうことであります。仏様と一切衆生・いのちあるものは、

同じこころを持って生きています。このこころというのは、様々な感情を表す心というよりも今日で

言うところのいのちのことです。いのちと言ってもたかだか数十年で終わる肉体的生命を指すのではなく

もっと根源的ないのちのことです。私たちはこの根源的ないのちをこうして生きているのです。

 仏様も私たち人間も花や草木、カエルなどいのちに二つはありません。同じ一つのいのちを生きている。

その一心、こころ一つだけに平等のいのちを生きているであります。

{平成26年5月14日(日) 日曜坐禅会 『伝心法要』提唱より}

2014年6月10日

この虚空を見よ

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虚空を仰ぐ亀 於 妙香池 

 横田南嶺老師が先日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 この虚空・空間を見ると朝になると日が昇り明るくなります。しかし、明るく

なったからといってこの虚空・空間そのものが別段変わるわけではありません。

同様に日が沈んで暗くなったからといってこの空間そのものの色が変わるわけでもない。

ただ、そのように見えているだけなのです。

 お互いのこころもそうです。悩んだり、苦しんだり、暗く落ち込んだりすると

自分のこころまで暗く落ち込んだように見えるかもしれませんが、こころそのものは

明るくなったり、暗くなったりするということはありません。

 明るくなったり暗くなったりというのは、様々な縁にしたがってそのように

見えるだけであって虚空・空間そのものは何ら色が変わるということはない。

私たちの本来のこころもちょうどそのようなものです。

 仏様というと何やら清らかできらきらと光り輝いていて何らとらわれがない

ような姿を私たちは描きます。それとは逆に私たち衆生というとけがれ、愚かで

迷っている姿を描いていまいます。

 姿・形にとらわれるというのはそういうこというのです。虚空・空間は大きな音が

したからといってこわれることもないし、人が騒いだからといって乱れることもない。

形あるものは、いつかは、なくなるのが道理ですが、この虚空・空間は変わることがない。

 ですから、この虚空を見よです。この虚空こそお互いの本心なのです。

{平成26年6月1日(日) 日曜坐禅会 伝心法要提唱より}

 

2014年5月8日

こころは虚空のごとく

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円覚寺大方丈で行われた日曜坐禅会の風景です。初回は、約90名の方々が参加されました。 

横田南嶺管長が先日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 皆さんは、こうして大方丈に上がって何を見ていますか?仏像、畳、座布団、人・・・を

見たと言われるでしょう。しかし、ここ、大方丈で一番大事なものは何か?それは、

この大きな空間です。一見、何にもない空間こそが一番大事なのです。

 しかし、この空間はいったい、何にもないと言えるのでしょうか?

何もない広い空間があるからこそ私たちはこうして生きることができます。

真空パックの中では一秒も生きることはできません。大事なのはこの空間であって

仏像や畳などはその中にある極一部のものにすぎません。

 では、この空間はどこまで広がっているか?天井までか、いやそうではありません。

天井を越えてずっとある。また、この空間はいつからあるか?この建物やその中にある柱や畳は

せいぜい、数十年ですが、空間はずっと昔からある。空間こそ私たちを生かしている一番大事な

ものなのです。

 私たちのこころも、この広い空間と同じようなものなのです。何ら姿形はなければ、見ようとしても

見られるものでもない。しかし、空間を何もないのではなく、お日様の光が広い空間をずっと

照らし渡っている、空気で充満している。

 私たちは空間を見ようとはしないが、本当は一番見ているのは、この空間なのです。今、ここにいる

私たちの目の中に一杯に満ちあふれているのは朝の光であります。

この空間は、いつ生じたいつ滅したということなくずっと続いている。この空間こそがわが本心なのです。

こころというのは我々のこの小さな体の中に収まっているのではない。こころがどれだけ広いのかは、

空間が果てしなく広いのと同じです。空間は天井の高さやまではありません、天井で仕切られているだけで

仕切りを取ってしまえばずっと続いている。仕切りをつけるから、狭いのです。

こころもまたしかり。自分の体の中だけにこころがあるのではない。皮一枚だけに仕切られているだけで

本当は皮の外もこころはずっと続いている。そのこころに気づくのがサトリです。

 私たちのこころは、どんな人にも平等です。仏になるとこころが清らかになるとうのではなく

迷っているからといってこころが劣っているというわけでもない。こころは全く平等なのです。

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都忘れ

 

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