2015年9月21日

致知「十牛図提唱」

 blog-DSC03118
十牛図① 尋牛

 この十牛図は、南嶺老師が雲水時代に書写されたものに

昨日、南嶺老師が左端にある絵を描き足したものです。
blog-DSC03117
十牛図② 見跡

今日は、居士林に於きまして、致知出版社の若手社員とその若手読者の会(若獅子の会)

21名が参加され、横田南嶺老師の「十牛図提唱」の録音と撮影が行われました。

 南嶺老師による「十牛図提唱」は、数回に分けて録音されたのちに

致知出版社から販売される予定です。

南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

 「祖禰(そねい)了ぜずんば、殃(わざわい)児孫に及ぶ」という言葉が

あります。通常は、祖先の祀りごとをきちんとしておかないとそのわざわいは

子や孫の代にまで及ぶぞという意味ですが、しかし、これは今日で言うような

何とか商法のように脅し文句で使っているわけではありません。

 あくまで、たとえで言っているのであって、禅的には、今、私たちが本当に

正しい教えに目覚めなければ、自分はもちろん、子や孫の代にまで苦しみを

及ぼすということを言っています。

 今の時代もまさしくそうです。今、私たちが正しい判断、正しい生き方を

選んでおかなければ、苦しむのは、私たち世代だけでなく、子や孫の代に

及ぶまで苦しい思いをするのです。

 物質的な世界にとらわれ、争いの世界にばかり執着して生きていると

自分ばかりが苦しむのではなく、子供や孫までが苦しむようになる。

 正しいものの見方をして正しい生き方をして正しい判断を下して

いかなければ、そのわざわいは子や孫に及ぶ。だから私たちの修行は

決して自分一人のことではない、次の世代にまでおよぶ大事なこと

なのです。

(後記)

 参加者は、1時半に及ぶ提唱の後、南嶺老師ご説明のもと国宝・舎利殿を拝観し、

最後に南嶺老師との懇談会をして解散となりました。

2015年8月2日

願いに生きる

横田南嶺老師が、今日の「関東若獅子の会坐禅会」で提唱されたことをまとめてみました。

「衆生無辺誓願度」という言葉があります。人々の苦しみは無辺、尽きることがないけれど

自分は誓って人々を救っていこうという意味の言葉です。

 松原泰道先生がよく引用した鳥のたとえ話があります。

ある山が山火事になっていろいろな動物たちが逃げてくる。ライオン、象、熊・・・と

最初はそれぞれがそれぞれの力でなんとか火を消そうとするが、火の勢いが強くて

手のつけられない状況になってしまった。

 みんな、あきらめて避難し逃げていくような状況の時、一羽の鳥が小さな羽の上に

ほんの数滴の水をのせて山火事を消そうとしているではないか。

 鳥が燃え盛る火に向かってほんの数滴の水をかけては、また、水辺に行ってを

繰り返している様子をみて、他の動物たちはあざ笑う。小鳥よやめよ、そんなことをしても

無駄だ。私たちライオンなど大きな力を持った動物たちがやっても消せないのに

あなたの小さな羽の上のわずか数滴の水で消せるわけがないと。

 それに対して鳥は毅然と答えました。「それは自分も十分わかっている。しかし、

自分はこの山にお世話になったのであるから、たとえ、無理とわかっていても

私は命のある限りやり続けます」と。

 この鳥の心こそが、人々の苦しみは尽きることはないが、できる限り努めていくという

精神を表しています。

 ダライラマの祈りの言葉があります。

「世界が苦しみに耐え 

生類が苦しみ続けているかぎり 

この世での苦痛を取り除くために

願わくはわたしもまたそれまで

共にとどまらんことを」

 世界の苦しみや様々な問題は尽きるとうことはない。それを何とかできるものは

総理大臣などの政治家や大企業、経団連会長など大きな力を持った人たちかも

しれない。そういうものに比べれば私たち一人一人は微力かもしれない。

 しかし、この微力の力を続けて止めず、誓い、願いを持って生きることが

最終的には何よりも大きな力となるではないか。

 たとえこの体は朽ち果ててもその願いは永遠に生き続ける。私も多少なりとも

松原泰道先生の願いを受け継いで、こうして皆様に微力ながらお話をさせて

いただいているのです。

2015年8月1日

未来連福プロジェクト

blog-DSC02655

今日は午後から大方丈にて「未来連福プロ ジェクト」主催の福島県南相馬市の方々との交流会が

開催されました。円覚寺を皮切りに一行はこの後、建長寺などへ参る予定です。。

「未来連福プロ ジェクト」は、平成24年9月に発足した団体で自然や伝統文化、

食育を通じて女性が豊かに子どもを育てていくことを目的にしています。

活動の一つに「東北支援」があり、特に福島の子ども達を支援。鎌倉でゆったり、

のびのびとした時間を過ごして欲しいと、招待しています。

「建長寺で会いましょう」を合言葉に、別れ別れになってしまった仲間達との再会と新たな出会い、

そして鎌倉の子ども達との出会いも楽しんで欲しいと願いのもとに活動をされています。

 2013年春に浪江町、夏には飯館村の皆さんをご招待。2014年3月には大熊町の皆さんご招待し

今回は、南相馬、飯館、川俣の皆様がご来山されました。

blog-DSC02641

 横田南嶺老師が未来連福プロジェクト参加の方々に法話されたことをまとめてみました。

坂村真民先生のお母さんは、「念ずれば花ひらく」という言葉を口癖にように

唱えていました。「念ずれば花ひらく」は、先生のお母さんが苦しい乗り越えられない

ようなことに立ち向かう時に繰り返し繰り返し、この言葉を唱えて自分自身を励ましながら

生きてこられた言葉でした。

 真民先生が46歳の頃、愛媛県宇和島のお寺で毎朝坐禅をし、昼間は教師を務めて

戦後、食糧事情の悪い中で3人の娘さんを育てるという厳しい環境の中で

自分も大病して体をこわしてしまい、とうとう、失明しかけてしまいます。

 眼科医からはもう目が見えなくなるかもしれないと宣告をされ、失望のどん底に

あった時に眼科の向かいにある神社にお参りをする。その時に真民先生は

母がいつも唱えていた言葉「念ずれば花ひらく」を思い起こすのです。

 「そうだ!母はいつもこの言葉を唱えていた!自分もこの言葉を唱えて

この苦しい状況を乗り切っていこう!」決意をしたのです。

 そして真民先生は、少しでも多くの人にこの言葉を伝えていくという

願いを持って詩を作り始めたのでした。
blog-DSC02642

blog-DSC02649

2015年7月22日

夏期講座 最終日

blog-DSC02596

 今日で第80回円覚寺夏期講座も最終日となりました。

夏期講座1限目で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

「ただ誹られるだけの人、またはただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし

未来にもいないであろう、また現在にもいない。」

 お釈迦様は、世に中で生きていくということは、ただひたすら誹られる人も

いなければ、ただひたすら褒められる人もいないと仰せになっています。

 文句を言われてばかりの人もいなければ褒められてばかりのひともいない。

どちらも避けることのできないものであります。

 ところが人間というものは、褒められるといい気になって、ほんの一つでも

批判をされるとグサッと胸に響いて自信を失ってしまう。多くのことが

うまくいっていても、ほんの一つだけうまくいかなければ、それだけで

まるで世の中のすべてが真っ闇のような気持になってしまう。 

 坂村真民先生というと今日では仏教詩人として、相当、仏教を学び

素晴らしいたくさんの詩を作りたいへんな業績をおさめられました。

それでも先生の若い頃は純粋にお寺で坐禅をしようとすると周りの人

との軋轢があり、詩人として純粋に生きようと目指す一方で周りの人と

うまくやっていかなければいけないというようないろいろな矛盾を

抱えてやらねばならないのが現実でした。

 坂村真民先生に「かなしき(鉄砧)のうた」という詩があります。

{たたけたたけ 

思う存分たたけ

おれは黙って

たたかれる

たたかれるだけ

たたかれる・・・}

『坂村真民全詩集第1巻より』

 かなしきというのは、悲しきではなく、鍛冶屋さんが鉄をたたくときに

下に置く台のことです。そのかなしき(鉄砧)のようにたたかれてたたかれて、

私たちは微動だにしないものを得ていくのです。

 誹りにも褒められることにも心揺らぐことのない、確かなものを私たちは

得ていかねばなりません。

blog-DSC02610

2限目の講師・千宗室家元

blog-DSC02614
3限目の講師・養老孟司先生

blog-DSC02599
 会場には1000人を超える方々が拝聴をされました。
blog-DSC02600
 
blog-DSC02617
閉会式
blog-DSC02622

横田南嶺管長による挨拶。

 今年も誠に大勢の方々に夏期講座にお越しいただき誠に有り難うございました。

来年の夏期講座は、従来の7月から6月に開催時期を変更する予定です。

 皆様のまたのご来山を心よりお待ちしております。

2014年12月25日

冬季学生大攝心 2日目

blog-DSC00878
-法鼓をたたく雲水さん-

 今日は、昨日から居士林で始まった冬季学生大攝心2日目です。

午前4時に起床し読経、坐禅、粥坐(朝食)、日天掃除を行い

午前9時から、円覚寺専門修行道場(僧堂)にて円覚寺派管長 横田南嶺老師による

「盤珪禅師語録」の提唱が行われました。

blog-DSC00884

blog-DSC00886 - コピー

2014年9月22日

おかげさまで無事円成いたしました。

blog-DSC00171

 平成26年秋季学生大攝心(2泊3日の坐禅会)は今日の正午に無事に全日程を

終了いたしました。幅広い年齢層の方々に大勢ご参加いただき誠に有り難うございました。

blog-DSC00166
-提唱中-

 円覚寺派管長 横田南嶺老師が学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

お釈迦様のお説きになったお経の中に慈経というものがあります。あたかも母親が

命をかけてわが子を守るように一切の生きとし生けるものにいくつしみの心を起こしなさい

という内容のお経です。お釈迦様が一番お説きになりたかったところのお経ではないかと

思います。

 今朝の新聞に14歳の中学生が「失いたくないもの」という題で投稿していました。

その記事は「失いたくないもの、私の頭の中に浮かんだ次の2つ、一つめは人。

私を支えてくれるすべての人、家族、友人、誰一人として代わりとなる人はいない。

二つめは、気持ち。感謝、思いやり、やさしい心、これは人間には必要不可欠であると考える」

とありました。 

 いみじくもこれは華厳の教えの本質をついています。華厳の教えにおいてはあらゆるものは

みなつながりあっている。何一つとして孤立しているものはない。みなつながり合い、

関わり合いの縁起の中に生きている。人と人とのつながりです。

 感謝、思いやり、やさしい心など気持ちというのは、坂村真民先生や仏教の言葉では

念といいます。念、強い思いというのがこの世界を作り出している。

 あたかも母親が命をかけてわが子を守る心です。この一念のおかげでわれわれは

ここに生まれているわけでわれわれもまた尊い一念を起こして、この世の中を

少しで浄いもの美しいものにしていかねばなりません。

 

blog-DSC00163
-腰骨を立てる説明をされている老師-

2014年9月20日

秋季学生大攝心 始まる

blog-DSC00144

-居士林堂内-

 居士林では、今日の夕方から2泊3の秋季学生大攝心(坐禅会)が始まりました。

男性45名、女性15名の60名の方が参加くださいました。

 まず、円覚寺派管長 横田南嶺老師から大攝心を始めるにあたってご垂示をいただき

ましたので、一部をまとめてみました。

「それぞれがいろいろな課題や目標、動機を持ってこの坐禅会に来たであろうと思いますが

ほとんど皆さん方におきましては、おおよそいろいろなことを考え過ぎている、いろいろなことを

学び過ぎている知り過ぎているのではないでしょうか。

 情報過多といわれますが、もうそれ以上何かを学ぼうとか得ようとかいうことは

私から拝見するとほとんど不要であろうかと思います。たとえば毎日ご馳走ばかりを

食べている飽食の人がなおそれ以上いいものおいしいものをいただきたと来ている

ようなもの。それは必要なくて、それよりおなかをからっぽにしてくださいと

言いたくなるのと同じです。

 
 人間が生きるということはその原点はきわめて単純です。おなかがすいたならば

ご飯を食べる。眠くなったら眠る。暑ければ薄着をする。寒ければ厚着をする。

大便と小便をきちっと出す。だいたい、それで生きていけるものです。

 何か得ようとか何かを学ぼうというよりも、それよりももっと捨ててしまう

からっぽになる、単純になる、それを学んで欲しいと思います。

 普段はケイタイ、パソコンなどの情報に追われていますが、ここにではそれらを

断ち切ることができます。せっかく断ち切っても頭の中であれやこれやと考えて

いたのでは意味がありません。坐禅をすれば吐く息と吸う息の二つしかない。

それ以外の仕事は持ち込まない。只静かに息を吐き只静かに息を吸う。

それだけなんです。単純なことに成り切るのです。

 お粥を食べるときもお茶を飲むときも只いただく。頭をからっぽにして

単純に生きていく。そうすることで新たなものの見方が広がってくるのでは

ないかと思います。

 もうそれ以上は詰め込もうとか得ようとかいう気持ちは少しおいてやって

いただきたいと思います。」

 

2014年8月27日

天に任せよ。我を離れよ。陽気になれ。

 横田南嶺管長も毎日お唱えになっている、黒住宗忠神のお言葉「道の理(ことわり)」です。

 「真理は一つ、神だ仏だというその表現が違うだけ、良い教えは宗派を越えて学ばなければならない」

と横田管長は仰せになっています。

 {凡(およ)そ天地の間(あいだ)に万物生々(ばんもつせいせい)する其の元は

皆天照太神(あまてらすおおみかみ)なり。是れ万物の親神(おやがみ)にて、

その御陽気天地に遍満(みちわた)り、一切万物(ばんもつ)、光明温暖

(ひかりあたたまり)の中(うち)に生々養育(せいせいよういく)せられて

息(や)む時なし。実に有難き事なり。

 各々(おのおの)体中に暖気(あたたまり)の有るは、日神(ひのかみ)より受けて

具(そな)えたる心なり。心はこごると云う義(ぎ)にて、日神の御陽気が

凝結(こりこご)りて心と成るなり。人慾(にんよく)を去り、正直に明かなれば、

日神と同じ心なり。心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば

身が心を使う。

 形の事を忘れ、日神の日々の御心(みこころ)に任せ、見るも聞くも一一味わい

昼夜有難い嬉しいとに心を寄せ、御陽気をいただいて下腹に納め、天地と共に気を

養い、面白く楽しく、心にたるみ無きように、一心が活きると人も生きるなり。

生きるが大神(おおかみ)の道、面白きが大神の御心なり。教えは天より起こり、

道は自然と天より顕るるなり。

 誠を取外(とりはず)すな。天 に任せよ。我を離れよ。陽気になれ。活物(いきもの)を

つかまえよ。古(いにしえ)の心も形なし。今の心も形無し。心のみにして形を忘るる時は

今も神代(かみよ)、神代今日(じんだいこんいち)、今日神代。世の中の事は心程(こころほど)

づつの事なり。心が神なれば即ち神なり。}

2014年7月27日

何ものにも染まらない心

blog-DSC04082
キキョウとモンシロチョウ、お互い様、おかげさま、いのちのつながりを感じさせて

くれます。
blog-DSC04075
 
横田南嶺管長が今日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 私たちの心は水晶玉のようなものです。本来清らかであり、何ものにも

染まることなく、外のものを映し出します。そうであるはずなのに表面に映し出される

映像や影ばかりを見て、きれいだ汚いだ、自分だ他人だと争いばかりをしている。

見たり聞いたり感じたりすることに覆われている状態というのはこのことです。

 私たちは、見たり聞いたり感じたりすること、それだけが心の様子だと思い込んでいる。

あたかも水晶玉の表面に浮かんだ映像だけを見ているようなものです。そうじゃない。

大切なのは映像が映っているその玉がなんであるか?です。そのような工夫をしないと

いけない。見聞覚知、見たり聞いたりしている主は何ものか見ていくことが肝心です。

 いろいろことを思ったり考えたりしているその心は何であるか?心には、様々なものが

映し出されているけれど、心の本体はその映像ではありません。本体は、清らかで何ものにも

染まらないが、何でも映し出す水晶玉です。本源清浄心、仏心です。そんな素晴らしい心を

私たちは誰一人例外なく、持って生まれて来ているのです。

 ところが見たり聞いたり感じたりすることばかりを自分の心だと思い込んでしまって

迷っている。そんな表面の思いや考えに振り回されるのではなく、いろんな思い、考えを

映し出しているおおもとは何であるかです。それを深く求めていくと、心は本源清浄であり

仏心であると気づくのです。そこには一切が平等であって、自分だ他人だといった分け隔て

なく、きれいだ汚いだとか、長い間修行をして特別なものになる訳でもなく、生まれながらに

みんな平等に仏心を持っているということに気づくはずです。

(後記)

 今日の日曜坐禅会は98名の方々が参加をされました。

お暑い中にもかかわらず、大勢の方々にご参加いただき、誠に有り難うございました。

2014年7月21日

ありのままの心

blog-DSC04062

 横田南嶺管長が今日の夏期講座で提唱されたことをまとめてみました。

よく世間では平常心というと何ものにも動じない、感じない心といわれていますが

それもいかがなものでしょうか。たとえば、被災地の悲惨な現場に立てば、平常心で

いられる道理はないですし、親しい人のお弔いに涙は禁じ得ません。

 平常心になれば悲しみ苦しみがなくなるというのでは決してありません。私たちが

生きている限りは様々な悲しみ、苦しみ、悩みは尽きることはない。

 最近、ありのままという言葉が流行っていますが、ありのままの心とはいったい

どんなことを言うのでしょうか?きをつけなくてはいけないことは、ありのままの

心とは決してわがままな心をいうのではないということです。

 本当のありのままの心とは私たち、お互いの本心のことを言います。では、私たちの

本心とは何か?それは慈悲の心です。観音様のような心のことです。お母さんはみんな

観音様の心なのです。お母さんは赤ん坊の泣き声を聞いただけで、赤ん坊が何を求めて

いるのかわかる。その声を観る。全身で観て受け止めることができます。

 人の苦しみを聞いてあげる。人の悩み苦しみを全身で感じ取る心、これはお互い

苦悩を体験しているからこそ気がつくことができる。そういうことを全く感じないのは

決して仏心ではありません。

 常に観音様を念じるということは、常に私たちの本来の心を念じるということです。

それがありのままの心なのです。

 常に観音様の心を心がけて、それから離れないということこそ、まことの平常心であり

それで初めてありのままの心であるのです。ありのままの心は決してわがままな心と

決して同じではないのです。

(後記)

 第79回円覚寺夏期講座も明日が最終日となります。

明日の予定は

8:30~9:30 横田南嶺管長 「無門関提唱」

9:45~10:55 鍵山秀三郎先生 「凡事徹底」

11:10~12:20 金澤泰子先生 「ダウン症の娘(こ)と共に生きて」

 どなたでも、聴講することができいます。当日券(1500円)もございます。

皆様、お誘い合わせの上、ご来山くださいますように。

 

ページのトップへ戻る