2015年9月6日

すべては仏心の姿

blog-DSC03066
<日曜坐禅会・・・場所 大方丈 日時 第1,3,5日曜日 8:05~9:30 開催中>

 横田南嶺老師が、今日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 「波をはらい水をもとめる、波はこれ水」という言葉あります。波というものは

水の様々な条件に触れて波を起こします。私たちは、貪りの波、いかりの波、

愚痴愚かさの波と心の波を起こして苦しんでいますが、それらが、迷い・苦しみ

そのもであると見て、その波すべてを捨て去ってしまう必要はありません。

波の本質は水であったと気が付きさえすればそれで迷いは収まるのです。

 今、日本列島の各地で火山活動が活発化してきています。火山の噴火による被害は

できるだけ避けたいものでありますが、火山活動そのものが悪かというと、決して

そうではなく、私たち生命は、多くの恩恵を受けているのです。

 例えば、身近なところでは、火山活動のおかげで程よい温泉に入ることができるという

一面もあります。

 火山も噴火も程よい温泉ももとをただせば、同じという見方もできるはずです。

 火山の噴火するところというのは、人間の力では止めることできずに、必ず噴火

するところです。私たちがいくら坐禅をして修行をしたからといって活火山を

休火山にすることは到底できるものではありません。

 あれは、活火山であると知りせいぜい近づかないで安全な対策をすることしか

私たちには出来ないでしょう。

 人間の心もこれまた、活火山のような大自然と同じです。中には、活火山の

ように、怒りや感情を爆発させる人もいるでしょう。そういう人を私たちが

休火山のように、心を静めさせてあげることは、たいへん難しいことです。

 そういう時は、「あの人は今、噴火活動を起こしているのだから、

近づかないようにして、避難しなければならない」と程よく生きていくことが

道理なのではないでしょうか。

 噴火活動から程よい温泉に至るまでそういうすべての活動自体、大いなる働き

そのものがまるごと仏心なのです。私たちは程よい温泉のような、私たちにとって

都合の良いものしか見ようとしません。

 例えば、天気というのは、雷になる時もあれば、竜巻になる時もある。嵐になる

時もあれば、こうして少し暑い時もある。お彼岸のようにちょうどよい気持ちの良い

時もあります。

 それら全部をひっくるめて大自然というのです。そういうもの全部ひっくるめての

大いなる働きが仏心なのです。その仏心の中、いや、仏心そのものを私たちはこうして

生きているのです。

 仏心では、状況が状況ととして現れてきます。坐禅をしたからといって、心が、常に

雲一つない青空の状態を保つというのでは、決してありません。雲一つない青空を保ちたい

というのは、自分の都合の良い見方にすぎません。

 大切なことは、冷静な眼を持って、今どのような原因でどのような状況が現れているのか

その仕組みをよく知ることです。それが因縁を知るということです。私たちは、その因縁によって

生じている様子を良く知ることによって、物事に振り回されずに上手に対処して生きていくしか

仕様がありません。

 即心是れ仏という言葉があります。銘々の心にどのようなものが現れようがそれが仏心です。

人間は、程よい温泉やいつも親切でやさしい人など自分の都合の良いものは受け入れたがります。

しかし、心には、逆に自分にとって都合の良くない嵐や雷や噴火ような心も現れます。

それらももとをただせば全部、大自然の姿、仏心の姿なのです。

仏心は我々の善悪を超えて大いなる深いものです。この大宇宙の働き、大宇宙そのものが

仏心なのです。

(後記)

 次回の日曜坐禅会は、9月20日(日)8:05~9:30となります。

 横田南嶺老師による「伝心法要」の提唱もございます。

どなたでも自由に参加することができます。皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2015年7月26日

われらは仏の子どもなり

blog-DSC02628

今日の日曜坐禅会で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

 私たちは皆、仏様の分身であり、仏様の心をいただいて生きている

仏様の子どもであるというのが本来の姿であります。

しかし、私たちは、そのことを一変に信じて納得することができません。

こんなに迷い苦しんでいる私のどこが仏様なのか?この私のどこに

仏様の心をいただいていると言えるのだろうか?本来の姿と言われても

とても受け取りがたい、信じがたいと思われるでしょう。

 そういうわけで、一つ一つ段階を踏んで仏の子、仏の心を持って

生まれて来たということに気が付いていくのです。一変に気が付けば

良いのですが、私たちは長い間、迷いの生活を続けてきているので

難しいので段階を経ていくのです。

 そこで、まず、呼吸を数えることから始めます。別段、呼吸を数えようが

数えまいが、私たちは、誰一人例外のなく仏の子であります。しかし、

一変にそのことを受け止めることが出来ないから、呼吸を数えることから

始める。

 次に手を組み足を組み、そして、長く坐禅をしていると老師から公案(禅の問題)

をいただくという風に段階を経ていきますが、本来の姿から見れば、別段、

こういうことをやろうが、やるまいが皆、最初から仏様の子どもなのです。

 自分が仏様の心を持って生まれて来ているとそこにはっと気が付きさえ

すればそれで結構なのです。

 こうしてお寺に来て坐禅をしたり、お経を読んだりすると何か特別なものに

なっている気がしますが、本当のところは、別段、何か特別なことをして

仏様の子や仏様の心になるわけではなく、初めから仏様の子であり

初めから仏様の心を持っているのです。

 私たちは、素晴らしい財産は全部心の内にいただいているのです。

 blog-DSC02626

日曜坐禅会(第1,3,5日曜日)は、8月中、休会となります。

次の再開は、9月6日となります。

2015年2月17日

空気のように

blog-日曜坐禅会
ー先日、円覚寺・大方丈にて行われた日曜坐禅会の様子ー

円覚寺派管長・横田南嶺老師が先日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 私たちが、生まれてきたことは、何も私たちが頭で考えた結果、生まれてきた訳ではない。

今こうして生きていることも、頭で考えているから生きているというより、自然の働きであります。

 朝、食べたものを消化していく、程よく年をとっていく、やがて自然と何かしらの病気になり、

思うようにいかずに死をというものを迎えていく。それが自然の働きです。

 頭の中で余計なことを考えさえしなければ何の問題も起こりはしない。私たちがこうして

生きて活動している様子は大自然の働きそのものです。これに解釈を加えたり、余計なことを

考えてしまうと隔たりができてしまう。

「仏の真法身は、なお、虚空のごとし」です。本当の仏の心というものは虚空(大空)のようなもの。

虚空のようにとらえどころがないものですが、そのとらえどころがないところに、また、

素晴らしい働きがある。

 詩人・坂村真民先生に「空気のように」(坂村真民全詩集第4巻p371)という詩があります。

{空気のように

空気のようになる!

そうですね。

空気のようになり

どんな人の胸の中にでも入り

四六時中その人を守り

その人の力となり

その人を幸せにしたいですね。

吐く息吸う息の中に

大宇宙のいのちがこもり

生かされて生きるありがたさを

知らせてくれますものね・・・}

 空気のごとくあらねばなりません。普段の私たちのように姿、形、教えだ何だというような

固定したものにとらわれているばかりでは、お互いは衝突し行き詰まってしまいます。

お釈迦様は、一枚の布を示して「これをどう見るか?」とお尋ねになりました。

そして、自ら云く「一枚の布を結んで、結び目を作ってしまえば、もうそれ以上ものを

包むことはできない。しかし、その結び目を解いてしまえばもとの広い布となり

どんなものでも包むことができる。」と。

 結び目がある布も、結び目がなく広くひろがる布も同じ布です。

 私たちは その結び目(とらわれ)を一つ一つ解いていけば、自然と

広く広がる布(仏心)であると気がつくのです。

 真民先生の「空気のように」の詩には、こういう終わりの言葉が続きます

{それにしても核とか

原発とかで汚されない

透明な空気にするよう

力を合わせて叫びましょう}

 東日本大震災の原発事故が起こる何十年も前にこの詩を書いています。

「空気のようになる」「仏は真法身は、なお、虚空のごとし」です。

空気のように、虚空のように広い本来の心を学ぶ。黄檗禅師は、この学ぶことすら

余計なこと、本来、みな、この虚空のごとくどこまでも広い心であると仰せになって

います。

 それとは逆に、自分だけの世界を作ってそれに閉じこもってしまい、

その中の教えだけを頑なに信じていると周りの人と諍いを起こし

悩み・苦しみの原因となってしまいます。

 そうではなく、少しでも大きく広い世界に目覚めていくのが何よりも

混迷の今の時代に必要なことではないでしょうか?

(後記)

 次回の日曜坐禅会(第1,3,5日曜日 8:05~9:30)は、

3月1日(日)です。横田管長による伝心法要という禅の語録の提唱(講義)も

予定されています。どなたでも(坐禅が初心者の方も)安心して参加することができます。

皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2015年1月19日

虚空のごとく広い心で

blog-DSC01204

 昨日、円覚寺・大方丈にて行われた日曜坐禅会は、たいへん寒い中にもかかわらず

85名の方々が参加をされました。初心者の方も13名ご参加いただきました。

blog-DSC01210
ー提唱中の円覚寺派管長 横田南嶺老師ー

横田南嶺老師が昨日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 我々、禅の教えというのは現実の問題を全部忘れてしまって世捨て人になれと言っている

のでは決してありません。私たちは現実のことにいろいろと対応しながらも

それと同時に広い世界、空(くう)の世界を学んでおれば、そんなに迷いよ悲しみに

暮れたとしてもそこまで追い詰められることはありません。

 現実の問題というのは、決して忘れて良いものではありません。生きていれば遭遇する

いろいろな問題についてお互い、苦しみながら悲しみながら、お互いに手を借し合い

それと同時にこうして法を聞いて空(くう)を知り、執着のないとらわれのない広い世界を

学ぶことが大事であります。

 その教えを学ぶということはいったい何に気がつくことでありましょうか?

それはお互いが幸せになること、お互いが幸せになることを祈る心に他なりません。

お互いがそれぞれの場所でもってそれぞれのいのちを精一杯に生きていく。

広い心で小さなことで争わないようにしていくことです。これがこれからの時代

生きていく上での大きな智慧ではないでしょうか。

 せっかく、素晴らしい教えを学びながらその教えが原因で争わなければならないと

したらそれほど悲しいことはありません。世界のどんな宗教であろうとも、あらゆるいのちが

みんな、活き活きと生きて欲しいと祈っているはずです。

 譲り合うところは譲り合わなければなりません。相手が嫌ならそれを察してあげなければ

なりません。虚空のごとく広い心でとらわれを離れて、相手の幸せを祈ること、そして

お互いのいのちを精一杯輝かして生きていくことが何よりも大切であります。

(後記)

 次回の日曜坐禅会は、2月1日(日)8:05~9:30となります。

どなたでも自由に参加することができます。皆様のご来山を心よりお待ちしております。

 また、明日から円覚寺専門修行道場(僧堂)では、制末大攝心(1週間の坐禅集中修行期間)に

入ります。僧堂師家(指導僧)でもある横田老師をはじめ在籍する23名の雲水さん、和尚さん、

居士(在家の修行者)さんらが禅堂につめて修行に精進いたします。
 

2014年11月30日

宝所は近きにあり

blog-DSC00781
-大方丈から裏庭を望む-
blog-DSC00786

 横田南嶺老師が、今日、大方丈で行われた日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

「宝所は近きにあり」という言葉があります。本当の宝があるところはよそにあるのでない、

「今、ここにある」ということです。悟りとは何か、迷いとは何かといろいろと言われていますが

今、ここにあるものに本当に気がつくことが誠に悟りであり、ここにないものをあれこれと

求めて回るということが迷いであります。

 坐禅をするということは、今ここに満たされていると感じることです。普段は、もっと良いもの

もっと素晴らしいものと「今の自分にないもの」ばかりを外に向かって求めています。この外に

向かって求める働きをいくら続けても、続ければ続けるほど迷い、苦しんでしまいます。

 そうではなく、外に向かって求めるのをやめて今、ここに坐っているものは一体何であるかと

内に向かって目を向けてみる。そうすれば、「求めているものが今ここにすべて備わっている!」と

気がつくはずです。

 大地に支えられ空気につつまれて日の光をさんさんと浴びて絶えず水、食べ物を

いただいて呼吸をしている、確かにこうして生きているもの。この活動しているいのちこそ、

このこころこそ誠の宝であります。

 「宝はどこにあるか?」その答えは「今この場に生きていること」です。

これを分析してあれやこれやと考え比べだすと迷いに落ち込んでしまう。

 坐禅をするということは考えることや比べることなど外に向かって求めることをやめて

「今ここにあるものは何か?今ここに足りているもの、今ここに満ちているものは

何であるか」と内に向かって求めていくことです。
 
blog-DSC00785
-日曜坐禅会(第1、3、5日曜日 8:00~9:30 場所:大方丈)の様子-

 今日も初心者の方も含めて大勢の方にご参加いただき誠に有り難うございました。

次回の日曜坐禅会は、12月7日(日)です。皆様のご参加をお待ちしております。

blog-DSC00791

 さて、明朝から円覚寺専門修行道場(僧堂)では、臘八大攝心となります。

一年で一番厳しい一週間の坐禅集中修行期間で、修行僧(雲水)はこの期間中、

横になって休むことができません。午前二時から午後十一時まで坐禅をし、

午後十一時から翌午前二時までは、「坐睡(ざすい)」といって坐禅の姿勢のままで

休みます。

 お釈迦様が12月8日の暁の明星を見て悟りを開かれたことにあやかって

12月1日から8日までを一日とみなして蒲団を敷かずにひたすら坐禅に励む

修行です。

2014年9月9日

ともに忘ずる

blog-DSC04527
-提唱中の横田南嶺老師-

 円覚寺派管長・横田南嶺老師が一昨日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 世間で迷ってる人というのは自分の外の世界について求めて回っている。学歴や知識、名誉と

いった外のものを追い求めています。また、坐禅など仏道修行しようとする人は自分の内の

心を求めようとしています。自分の心をもっと鍛えようとか、もっと立派な心にしようとか

心をもっときれいに磨こうとかいろいろと考えます。

 後者は一見、立派そうに思えますが重要なことは、外の世界も自分の心もともに忘却

することなのであります。

 外の世界に自分の心が満足するものを求めるはからいと、逆に自分の心の内に何か満足するものを

求めるはからいをともに忘れてしまったところが誠の仏心です。

 外の世界・世間のことを忘れようとすることはそれほど難しいことではない。こうして、

皆さんは日曜日に早起きして坐禅会に来ています。ところが、内である自分の心の問題に取りかかろうと

するとこの心はそう簡単におさまらない。何とか自分の心を立派にしてやろうとか無心になるにはどうしたら

よいのかと求めてしまう。求めてしまったら、また、迷いです。

 道元禅師に

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。」

という言葉があります。しかし、これが難しい。

 そう簡単に心を忘じたり自己を忘ずることができないのは、虚無主義に陥ってとらえるものが

何もなくなってしまうからです。

 人間というものは何かにしがみつき「何かこれ」というものを得ようとする性質です。

しかし、しがみついているものにずっとしがみついていられるわけではありません。

どんなものもいくらしがみついていようがいずれは移り変わりこわれてきえてしまいます。

 「何かこれ」というものを得てしがみついてついていろいろと求めるのではなく、そういうものを

全部手放して大きな世界にあることに気がつくことが大切です。

{平成26年9月7日(日) 日曜坐禅会 伝心法要提唱より}

 

2014年9月7日

日曜坐禅会

blog-DSC04518

 本日の日曜坐禅会(時間 8:00~9:20 場所 大方丈)は、雨の中にもかかわらず、

76名の方がご参加されました。誠に有り難うございました。

blog-DSC04523
-提唱中の横田南嶺老師-

2014年8月31日

こうして生きて活動している様子が仏様。

blog-DSC04482

今日の日曜坐禅会の様子です。今回も100名近くの方にご参加いただきました。

ご参加いただき誠に有り難うございました。

blog-DSC04481

 円覚寺派管長・横田南嶺老師が日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

自分の外に何か素晴らしい仏様があると求めるのもまた、迷いであります。今、こうして

お互いが生きているこの様子の他に、何か特別な教えがあるという思い込みが迷いであり、

その思い込みから離れることができたなら、お互いの様子がそのまま真理の様子です。

自分の外に何か素晴らしい仏様がいるのではなく、お互いがこうして生きて活動している

様子が仏様なのです。

 それはおなかがすいたらご飯をいただき、昼は一生懸命体を動かす。そして夜はくたびれて

休む。いただいたものは大小便として排泄する。この様子こそ仏様の姿であり真実の様子です。

それ以外に別のものを求める必要のないとわかった人こそ仏様です。

 一切の煩悩とは外に向かって求めることから起こります。自分の心の外に何か素晴らしいものを

求めるのが煩悩であり迷いであります。それから離れることができるならば、お互いの生まれたままの

様子がそのまま仏の姿でありそれ以上に付け加えるようなものは何一つ必要ないのです。

{平成26年8月31日(日) 『伝心法要』提唱より}

(後記)

blog-DSC04474

 円覚寺山内にある妙香池の芝生に不思議なものがあらわれました。

なんと「円相きのこ」です!きのこが丸く生えているのです。それも一箇半箇。

blog-DSC04475

 皆様もご覧になってみてください。

2014年8月17日

虫をとる子どものたとえ

blog-DSC04247

 本日、円覚寺・大方丈にて行われた日曜坐禅会は、100名もの方が

ご参加くださいました。誠に有り難うございました。

 横田南嶺管長が日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 普段、私たちは何かを求めて、何かを手に入れようとしてあくせくしています。

それはお金であったり、業績であったり、地位であったり、あるいは「悟り」で

あるかもしれません。

 子どもが虫をとるというたとえ話をします。子どもが一生懸命虫を捕ろうとしている。

子どもは虫を捕ってお母さんに見せて驚かせたり喜んでもらおうと一生懸命虫を捕ろうとします。

 しかし、本当にお母さんにとって大事なもには何であるか?です。お母さんの目から見れば

子どもが捕った虫が大事なものではありません。虫が捕れようが捕れまいがたいした問題ではない。

その虫を捕ろうとしている子どもが何よりも大事なのです。

 どんな立派な虫を捕まえてくるより、親の目から見れば子どものいのちほど尊いものはないのです。

ところが子どもはそのことに気がつかずに、何か一生懸命ものを捕まえなければ、立派なものを捕って

こなければ申し訳ないと思いこんでしまっている。また、まわりの人もそうけしかている。

 そこで子どもは「虫かごの中に立派な虫をたくさん捕らなければ意味がない」という考えに追い込まれ

それができなければ「自分はもうダメかもしれない」と落ち込んでしまう。

 しかし、親からみれば、無心に虫を追いかけている子どものいのちが何よりも尊いのです。虫の話を

皆さんに置き換えてください。いろいろな話を聞いてわかろうとする、あるいは一生懸命坐禅をして

悟りという虫を捕ろうとしています。

 悟りという虫が捕まろうが捕まるまいがそんなことはたいしたことではありません。大切なのは

何を求めているのかでなく、何が求めているのか?なのです。捕獲した虫が大事なのではなく、

その虫を追い求めているものは何であるか?です。この話を聞いて、わかる、わからないが問題

なのではなく、この話を聞いているものは何ものであるか?に目を向ける。

 私たちは、いろいろなことを知ろう、得ようとしますが、それは、あたかも子どもが虫かごに

虫を捕ろうとしているようなもの。たいしたことじゃない。そうじゃない、虫を追いかけているもの

捕ろうとしているものに本当の値打ちがある。追いかけているものは何ものか?今、こうして

坐禅に来て坐っているものはなにものか?今、こうして話を聞いているものは何ものか?

それらに目を向けてみることが大事であります。

{平成26年8月17日(日) 日曜坐禅会 伝心法要提唱より}

(後記)

 次回の日曜坐禅会は8月31日(日)となっております。

横田南嶺管長による伝心法要提唱もございます。

 また、初心者の方に、簡単な坐禅の仕方の指導の場も設けました。

皆様のご参加を心よりお待ちしております。

blog-DSC04250

午後6時からは円覚寺山内・北鎌倉幼稚園でおじぞうまつりでした。
blog-DSC04248

 千灯供養の儀式が行われました。

2014年8月9日

提唱という時間

 横田南嶺管長が先日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。

 この坐禅会は坐禅の会です。法話やお説教の会とは違う。坐禅をする会であってそこに

こういう話が聞こえてくるだけであります。やるべきことは坐禅をすることで、8時から

9時半頃まで手を組み足を組み腰骨を立てて背筋を伸ばして坐禅をする。

 坐禅をしている間にお経が始まったり太鼓がなったり、こういう私の話しが聞こえて

きたりするだけです。ですから、坐禅をするんだという気持ちでいてほしい。

そこにこういう話しが只聞こえてくる。

 先ほど太鼓が鳴って音が皆さんのお耳に只聞こえてくる。講本の文字はせんさくしない、

只見えるという世界です。

 もちろん、修行におきましては時にはいろいろと勉強をする必要がある時もありますし

語録を一つ一つ、どういう意味か?何を言わんとしているのか?理論的に学ぶ必要の時も

あります。しかし、無心になる、本来の無心、一番の根本、おおもとに帰るそういう時間も

また必要です。

 これは坐禅会である、提唱を聞くというのは坐禅をしているところに何やら話しが

只聞こえてくるということなのです。

 私たちの本来の心は清浄でありますが、見たり聞いたりすることで覆い隠されてしまいます。

ではどうすればいいか?只、無心でいれば本来の心は自ずから表れてきます。

 坐禅は無心の稽古といってもいい。話を聞きながら「ああ、このとこころがおかしい、この辺の読み方が

へんだ。」と考え出すと本来の心が覆い隠されてしまう。だから、只無心に聞く。

 たとえば、日常生活においても、いろいろな話が耳に聞こえてくる、そういう中でも無心の修行が

できなければ現実的に役に立ちません。お寺から外にでればいつも静かなところはない。うるさいときも

あれば様々な議論がさかんなところもある。時には当事者となって議論をしなければならない時もある。

 その一方でどんな時にも只無心にして聞いてるはたらきが必要な時もあります。

議論に議論を重ねて争ってばかりでは本心が覆い隠され疲弊してしまいます。何を言われようが何が

聞こえてきようが只無心になる。8~9割は自分の意識を腰骨を立てて姿勢を正して静かに呼吸することに

中心を置いて只聞く。ちょうどセミや鳥の声が只聞こえてくるのと同じようにです。というのが提唱という

時間なのです。

{日曜坐禅会(8月3日) 伝心法要提唱より}
(後記)
blog-DSC04117
 
昨日、円覚寺山内・仏日庵で行われた施餓鬼法要での

横田南嶺管長の法話の写真です。円覚寺山内のお寺はお施餓鬼法要の

真っ最中です。

 さて明日は横田南嶺管長による日曜説教会(9:00~10:00 於 大方丈)です。

終わって 坐禅会(10:00~11:00 於 大方丈)または延命十句観音経写経会

(10:00~12:00 於 大書院)となります。

ご家族、ご友人お誘いになってご参加くださいますように。

 皆様のご来山を心よりお待ちしております。

 

ページのトップへ戻る