2018年6月24日

老師 コーネル大学生との問答④


 横田南嶺老師とコーネル大学生との問答の第4弾です。

学生: 私は、スポーツ心理学を専攻していて、団体の団結に関して興味がありますが

    一つの目的に向けて、人と人との間の絆は、どうやったら、強めることができますか?

老師: う~ん・・・。なんというのかな。私は、団体からはみ出た人間だからね。やはり、

    絆が嫌いだしね。勝手に生きているんだわ。(一同笑い)

    団体の団結ということから言えば、私なんかは、迷惑な人間だと思います。(一同笑い)

    みんなが団結をして一つの方向に行こうとすると、私は必ず逆の方向に

    行こうとする。・・・すみません。(一同爆笑)

    そういう人間もこの団体の中に置いてくださっている。ですから、この団体の

    キャパシティーに感謝している。(一同笑い)

    そうなのよ。一つの所に行こうというのは、嫌いなのですわ。うん。あんなところ

    行ったら、落とし穴があるんじゃないかとパッとして見えるんだわ。(一同笑い)

  (平成30年6月17日 コーネル大学生との質疑応答より)

2018年6月24日

蚊の大軍に襲われて

 
釈宗演老師

釈宗演老師は、セイロンに行って仏教の原典を学び、その帰りにタイ国に寄って

戒律を受けようとされました。残念ながら、タイ国での願いはかなえられなかったのですが、

そのタイに行く船で、自分の前半生の修行の力を試す好機に会いました。

 それは、すでに旅費も尽きかけて、船に乗っても甲板の上で過ごすという有様でした。

船は、バンコクのメナム河の河口で低潮の為にとどまりました。

 夕暮れから、気圧が低く、雨が降り出しそうで降らず、蒸し熱くてどうしようもない状態でした。

そこに、無数の蚊の大軍が襲ってきました。船室に入れない宗演老師は、

甲板の上で、逃れようもありません。手で追えば、足に蚊が群がり、足を払えば、

手に群がるといった有様でした。どうにもならなくなって、宗演老師は、決意しました。

 よし、この蚊の群れに、自分の血を施してあげようと。今まで、自分は幼少から出家して

何の孝行も出来なかった。多少修行したつもりでいたが、蚊の大軍に襲われて

心を乱してしまうとは、いったいどういうことか。こんなことなら、

いっそ、蚊のお腹がいっぱいになるまで血を吸わせて施してあげようと思ったのでした。

 そのように意を決して、甲板の上で素っ裸になって、坐禅をしました。

もちろん蚊の大軍は容赦なく襲ってきます。坐っていると、

段々蚊と自分と相和してゆきました。暑さも渇きも感じなくなりました。

なんとも言えぬ心地好い心境になってゆきました。

 そんな折に、雷が一声鳴り響き、にわか雨が勢いよく降ってきました。

頭から滝のように水が流れました。

 ふと坐禅から覚めて、当たりを見ると、真っ赤なグミの実がまわりに

たくさん落ちているではありませんか。何かと思って、よく見ると、

それはグミではなく、血をお腹いっぱいに吸って死んだ蚊の群れだったのです。

 このように、甲板の上で、蒸し熱い中、蚊の大軍に襲われて逃げ場もない中で、

「よし、蚊に血を施してあげよう」と意を決して坐禅して、

深い心境に達することができたのでした。

 逆境から逃げずに、むしろその中に入り込んでゆく生き方であります。

2018年6月23日

はじめは仁王(におう)のように


 蜆子(けんす)和尚もそうですが、唐代の禅僧の様子を学んでいると、

実に大らかで自由で、ただお腹が減ったらご飯を食べ、くたびれたら眠るという、

ありのままの暮らしをしていることが分かります。

 しかし、我々がそれをそのままマネをすればいいかというと、

そうはいきません。

 臨済禅師なども、仏法は何も特別工夫することではない、

服を着たりご飯を食べたり、大小便を出すだけだと言っていますが、

ご自身体究練磨して、ようやく気がついたのだとも仰っています。

 江戸期の禅僧鈴木正三は、そのへんを仏像に譬えて分かりやすく説いてくれています。

お寺に入ると、門のところには仁王さんがおまつりしています。

或いは十三仏でもはじめは不動明王です。

 修行も、はじめは仁王さんや不動さんのような気迫でのぞまなければならないと説くのです。

そうして、修行していって、最後にご本尊の観音さま、如来さまのようになるのだということです。

 坐禅も、はじめのうちは、仁王さんのような気迫で臨むのです。目をキリッと開いて、

拳を握って歯をくいしばって、自分の欲望や妄想や眠気や弱さに負けてなるものかと、

気迫を持って坐ります。最初から、柔和にはいかないものであります。

 そうして年月を経て修行していくと、段々と角が取れていって観音さまのように、

如来さまのようになってゆくのです。

2018年6月22日

老師 コーネル大学生との問答③

 横田南嶺老師とコーネル大学生との問答の第3弾です。

学生A:何か好きな仏教の本、または、仏教以外の本でも構いませんのでありますか?

老師: 今現在かな?

学生A: 今でも過去でも

老師: う~ん。あり過ぎてね。(しばらく時間があって)よく読んでいるのは、

   ダンマパダかな。ダンマパダは、自分の原点のような気がしていますのね。

学生B: アルチュリズムについてですが・・・

老師: アルチュリズム?アル中のことは、よく知っているが・・・(一同笑い)

引率教員: アルチュリズムは、日本語で利他主義のことです。

老師: そうか、利他主義のことか。

学生B: 我々は、名門と呼ばれる大学の学生ですが、それに入るためには、

    たくさんの競争をして入ることができました。ですので、他の人と

    対立をして競争して成功するのがやり方だと過去に教わってきました。

    しかし、そういった競争の環境にいながら、どうやって利他主義を

    達成することができますか?

老師: なるほどね。私は、早いうちから、競争は愚かだと思って放棄して

    やってきました。しかし、皆様方のように、競争を勝ち抜いた人は、

    大きな力だあると思います。

    ですから、私なんかは、何の能力もないわけだけれど、ただ、動物のように

    生きてきたもんです。何も発明しないし、何も作らない、飯を食って寝ている

    だけで・・・(一同笑い)

    あなた方は、競争を勝ち抜いた素晴らしい能力があるのだから、それで

    良いコンピューターでも作ってくれれば、私は、一生懸命、使いますよ。

    競争をしてしまったことは、これは、仕方がないことで、その中から、

    皆様のお役に立つような素晴らしいものを開発してくれればいいかな。

    ちなみに、あなたは、何を研究しているの?

学生B: 動物科学です。

老師: 動物を作るわけにはいかないしな・・・(一同笑い)動物ですか・・・

   動物園を作ったりするやつですか、それは?(一同笑い)

学生B: 動物の医者や動物を守る組織を作るプログラムです。

老師: 動物の為に力を発揮して頑張ってやってください。

(平成30年6月17日 コーネル大学生との質疑応答より)

2018年6月22日

蜆子(けんす)和尚のこと

 蜆子和尚という方が、唐の時代にいました。禅僧の伝記を記した『伝灯録』を見ても、

どこの人かも分からないとあります。

 いつ生まれたのかいつ亡くなったのかも分からないし、

住んでいたところも一定ではないと言います。

 しかし洞山禅師について修行して、悟りを認められました方です。

洞山から修行だ出来上がったというお許しをいただいてからは、

川の畔で、自由気ままにシジミやエビを取っておなかを満たしていたようです。

 お腹が減ったらご飯を食べるという、生き物としては一番自然の生き方をしていました。

動物なんてものは皆自分の食べ物を自分で取って後は寝ています。

それが自然と言えば一番自然です。理論もなにもありはしないのです。

 人間は得てして、「自然を守るぞ」などいいながら

却って自然を壊したりしてしまっていることもあります。

 世のため、人のために尽くすことは尊いことですが、

あまり人のためと力んでばかりいると、却ってはた迷惑の場合もあります。

 マネをすることは薦められませんが、蜆子和尚などは、ただ自然の暮らしをしただけです。

それでいて、こんな生き方が後の世になっても慕われたのか、画に描かれ、漢詩に詠われています。

 何が役に立つか、立たないか、分からないものです。

こんな生き方をされた方がいるということだけでも、あくせくはたらいてばかりいる世の人には、

救いになるのかもしれません。

(平成30年6月22日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より)

2018年6月21日

老師 コーネル大学生との問答②



横田南嶺老師とコーネル大学生との問答の第2弾です。

学生: 私は、誰に対しても慈悲の心を持って対応しようとしています。

    しかし、少し、不安があります。それは、欲張りな人、意地悪な人、

    やきもちをやく人に対して慈悲の心で対応をすれば、それは、その人の

    良くない心を増長させてしまうのではないかという不安です。

    誰に対しても慈悲の心で応対をしながら、その人の良くない心を

    増長させないようにするにはどうしたらよいでしょうか?

老師: それは、慈悲と言っても優しいとか同情だけが慈悲ではありませんから、

    時には、この居士林の本尊である不動明王のように「ダメだ!」という

    怒りの慈悲もある。子供がお菓子が食べたいというから、お菓子を

    与えていたら、虫歯になってしまう。時には、「ダメだ!」といわなければ

    ならない。

学生: 追加質問で、これは、アメリカや私たちが住んでいる社会に関わる質問ですが、

    もし、「ダメだ!」と言うことができないような人だとしたら、例えば、

    たとえ言っても聞き入れそうもない人や権力のある人なら、その人と

    対立しながら、慈悲の心をもたらすことはできますか?

老師: それは、可能ではあります。しかし、いつ、その効果表れるかは計り知れない。

    こちらが慈悲の心を持ってあげることはできますが、それが相手に行動の変化や

    大きな変化をもたらすには、すぐに表れる場合と時間がかかる場合がある。  

     しかし、慈悲の心を向けていることは、決して無意味ではない。いくらかでも

    影響があると思って私は生きています。

(平成30年6月17日 コーネル大学生との質疑応答より)

2018年6月21日

忍の一字


 明治二十年、数え年二十九歳の釈宗演老師は、慶應義塾での学業を終えて、

更にセイロン(現スリランカ)に行く決意をされました。これは、奇しくもその二十五年前に、

その時の釈宗演老師と同じ歳に、福沢諭吉先生が、セイロンを訪れて、現地の高僧に出会い、

その立派な人格に触れて感動したことから、釈宗演老師に、仏教の源流に触れるように

勧めたのたでした。

 当時セイロンに行くことは、まさしく命がけでありました。

師である今北洪川老師は、宗演老師に、忍の一字を説いてはなむけとしました。

お釈迦さまが、我が子ラゴラ尊者に忍の大切さを説かれた経典に基づいて、

「忍は安宅(あんたく)たり(堪え忍ぶことこそ安らかな家であること)」、

「忍は良薬たり、よく衆命をすくう(忍こそ良薬であり、多くのいのちをすくうこと)」、

「忍は大舟たり、以て難きを渡るべし(忍は大きな船のように、

困難な世の中を渡ってゆけるものであること」など、忍の素晴らしさを説きました。

 そして更に「世はたのむ所無し、唯だ忍のみたのむべし(忍こそがこの世の頼りとすべきものであること)」。

「忍を懐いて慈を行ずれば、世々怨み無し。中心恬然(てんぜん)としてついに悪毒無し」

(自分の身に降りかかったことは堪え忍んで、むしろ自分に辛く当たる者こそ却って

気の毒な者であると慈悲のこころで思いやれば、どんな目にあっても怨み心は起こらないし、

心はいつも穏やかで、悪いことは起こらない」と説き尽くされたのでした。

 洪川老師に説かれた通り、様々な苦境にあいますが、宗演老師はただ耐え忍ばれました。

セイロンから洪川老師にあてた手紙にも、ただ「忍」の一字を守っていますと記されています。

 修行で大事なのは、なんと言ってもこの忍の一字です。

(平成30年6月21日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より)

2018年6月20日

逆境こそ修行の好機

 
若かりし日の釈宗演老師

釈宗演老師は、円覚寺に来て今北洪川老師のもとで伝統の修行を終えたあとに、

慶應義塾で英語を学びに行かれました。

 伝統の禅の世界を貴ぶ洪川老師は、宗演老師の慶応行きを快く思ってはいませんでした。 

そこで、長い漢文の文章を送って、宗演老師に、どのような環境にあっても、

仏道修行を忘れぬように諭します。

 その文のなかで、洪川老師は、宗演老師の慶応行きと、昔の大燈国師が、

修行を仕上げたあとに、京の五条の橋の下で、乞食の群れに混じって

修行された故事を引きあいに出して比べています。

 大燈国師の修行は、逆境の中だから、むしろ環境に誘惑されることがないので、

修行しやすい。慶應に行くことは、順境だから、誘惑も多くて修行は難しい。

その困難な中で、敢えて道心を失わず、正念を失わずに慎重に修行して

欲しいと諭されたのでした。

 思うに任せない状況にある時、すなわち逆境にある時こそが、

実は修行にとっての好機なのです。

(後記)

 今日から26日まで、円覚寺僧堂では、1週間に及ぶ集中坐禅修行期間となりました。

僧堂師家である横田南嶺老師をはじめ、和尚、雲水、居士・禅子が禅堂に籠り

坐禅修行に精進しています。

2018年6月20日

老師 コーネル大学生との問答①


 居士林での横田南嶺老師との質疑応答の様子。

 質問にお答えになる老師。

 円覚寺の在家道場・居士林では、先日6月14日から18日の朝までの

4泊5日で、米・コーネル大学の一行19名が禅の生活を体験しました。

 朝晩は、坐禅をし、日中は、国宝・舎利殿を見学するなどのプログラムでした。

その中で、円覚寺派管長・横田南嶺老師とコーネル大学生との質疑応答の時間が

あり、老師は、今回、参加した学生全員の質問に懇切丁寧にお答えくださいました。

 老師とコーネル大学生との問答を今日から順に紹介して参ります。

学生:100年くらい前から、禅がアメリカに、いろいろな形で広まっています。

   多くの禅のマスターがアジアからいらしていますが、その中で、禅や真の法系

  というよりも、自分個人の魅力を活かして、まともな宗教というより、カルトに

  なっていることがあります。

  仏法を広めているのではなくて、何か間違ったものを広めている現象があります。

  日本に於ける、禅に於ける組織の中で、それを防止する要素は何でしょうか?

老師: 確かに個人の表現は、自由でないと活性化しません。しかし、日本には、

   伝統の世界がありますから、伝統の枠をあまりに逸れてしまうものは、

   自然と淘汰されてしまうという、伝統のシステムがあります。

   例えば、指導者(後継者)を選ぶ場合に師匠が認めることと、さらに

   周りの組織が認めていくことという二重三重の認めて認められるという

   システムがある。

    ところが、何の伝統もない組織では、自由であるという良い面がある

   一方で、カルト的になってしまうという残念な事実も最近はありました。

   (平成30年6月17日 コーネル大学生との質疑応答より)

   

2018年6月3日

思い込みを否定をする


 只今、円覚寺では、夏期講座(6月5日まで)開催中です。

 「冬の朝 白い布団で 寝る草木」これは、小学生の女の子が作った俳句です。

白い布団とは、雪のことで、子供の感性というのは、本当に素晴らしいものです。

 私ども、お寺にいて、雪というと「雪かきをしなければならないな」とか「冷たいな」

というような思いしかなく、いつまでたっても、たいへんだ、つらいだという

思い込みしかないが、この小学生は、違う見方をしています。

 人間というのは、その思いによって見る景色も様々に違ってくる。

我々、禅の修行というのは、一言で申しますと、この思い込みを否定をすることです。

このことに尽きるのであります。

 思いというのは、誰かが作ったわけではない。私自身がそのような思いの枠の中に

いる訳です。この思いの枠の中にいる状態のことを迷いというのです。

 この思い込みが外れ、この思い込みを越えて、純粋にものを見ると

この小学生のような、雪の布団にくるまれて、安らかに眠っているような

ものの見方も開かれてくるのでしょう。

(平成30年6月2日 横田南嶺老師 夏期講座「無門関提唱」より)

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