2019年1月26日

講了の偈と遠諱への思い


今日、僧堂では、雪安居(10~1月の修行期間)の講了(講義の最終日)でした。


 横田南嶺老師による講了の偈(宗旨をうたった漢詩)です。以下、書き下しと意訳とまとめのお言葉です。

「孜々兀々(ししごつごつ)、禅牀に坐し」

 孜々はつとめる様子、兀々は一心に努力するさま、心を動かさないことです。

こうして一生懸命ひたすらにじっと動かずに坐禅堂に坐ってきました。

 「百日忽(たちま)ち過ぐ、閃電光」

円覚寺では一制は百日です。雪安居百日の間、安居してきましたが、気がつけばあっという間でした。

まるで稲妻がひらめくように一瞬のうちに過ぎていてしまったように感じられます。

 「武渓を講了して、何の所証ぞ」

武渓集を講義し終わっていったい何を得たのだろうか。

<提唱台上で講義する横田南嶺老師>

 「寒梅点々、清香を放つ」

庭を見てみると、梅が寒さの中で清らかなよい香を放っています。

梅は厳しい寒さを経てこそ清香を発するのであります。


 これより、円覚寺では、大用国師誠拙周樗禅師の二百年の大遠諱を修します。

誠拙禅師報恩の為に、その師匠である月船禅師の語録『武渓集』を一通り提唱してきました。

これは、四月の遠諱には、本にして出版します。

長年にかけて私がコツコツと取り組んで来て五百ページを超える大冊になりました。

 それから、三月には先ず僧堂で、関東の僧堂の雲水達を集めて、報恩の摂心をします。

そこでは誠拙禅師の語録である『忘路集』を提唱します。

 四月には、京都からも誠拙禅師ゆかりの相国寺や天龍寺の管長様方、

誠拙禅師の故郷宇和島の大乗寺様や仏海寺様などをお招きして大法要を営みます。

 続いて円覚寺派末寺の檀信徒千数百名に戒を授ける大授戒会を行います。

終わると同時に東京の日本橋三井記念美術館で、円覚寺展を開催します。

かつて五島美術館でも開催したことがありますが、

都心では円覚寺単独の展覧会は恐らくはじめてではないかと思います。

期間中に、三井記念ホールで特別講演も企画しています。

同時期に京都の花園大学でも、歴史博物館で誠拙禅師展を、

鎌倉の国宝館でも円覚寺展を開催します。

なんと東京、京都、鎌倉の三カ所で同時に展覧会であります。

 遠諱の大事な意味は、縁有る者には更に縁を深めてもらい、

縁無き者にも新たに縁を結ぶことであります。

こうして我々が学びを深めると共に、多くの皆さまにも誠拙禅師を通じて、

円覚寺ひいては禅の教え、仏法に親しんでもらえれば、報恩に一端であろうかと思っています。

(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)

2019年1月25日

「山 また 山」

 
森信三先生の直筆。

昔、斉の孟嘗君(もうしょうくん)が秦の王に幽閉され、どうにか脱出して函谷関の関所までたどり着きました。

 関所の決まりでは、朝に鶏が鳴いて初めて旅人を通すようになっていました。

孟嘗君は秦王が追ってくることを恐れていました。

そこで、仲間に鶏の鳴きまねが上手な者がいたので、彼に鶏の鳴きまねをさせると、関所の鶏たちが一斉に鳴き出しました。 

それで関所が開いて、孟嘗君は無事通りぬけることができました。

 函谷関の関所は、鶏の鳴きまねで通れたかもしれませんが、

禅の関門関所はそんなマネでは通りません。

禅の関所は、とりもなおさず公案であります。

公案は、ごまかしでは通りません。

どうにか一つ通ったと思っても、その先にまた関所があります。

山を越えたと思っても、また更に山があるようなものです。

山また山をひたすら越えてゆく修行であります。

 すこしばかり公案が透って、これでいいと思うような心を慢心と言います。増上慢とも申します。

 少々のことで満足することなく、まだまだと、山また山を越えてゆく覚悟で、

自らの怠惰な心や慢心に自ら警策を打って進んで欲しいものです。

(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)

2019年1月24日

「水のようにさらさらと」

 洛浦(らくほ)禅師のところで修行していた僧が、お暇することになりました。

洛浦禅師にご挨拶すると、一つの問題を出されました。

あたり一面を山で囲まれていたら、どうやって出かけるのか、一句を言えと問われました。

その僧は、よい答が見つからず、困ってしまいました。

たまたま、寺の畑を通りかかったところ、畑を耕す僧から、どうしたのだと尋ねられました。

こういう訳で、禅師から問題をいただいたけれども、よい答が見つからずに困っていると告げると、その畑を耕していた僧が、こう答えれば大丈夫だと一句を教えてくれました。

 それが、「竹密にして妨げず、流水の過ぐることを、山高くして豈に、白雲の飛ぶを礙(さ)えんや」という句でした。

 これは幸いと、その僧は、洛浦禅師に一句出来ましたと、示します。

ところが、洛浦禅師から、それはあなたの句ではないでしょうと言われて、

畑を耕していた僧から教わったのだと白状しました。

洛浦禅師は、畑を耕している僧の力量の優れたことを認め、将来大禅師になると言われました。

はたしてその通り、永安院に住して善静禅師と呼ばれ、何百人ものの修行僧が集まったということです。
 

示された一句の意味は、どんなに竹が密集していても、流れる水は何も滞ることなくさらさらと通り過ぎていくし、

山がどんなに高く聳えていても、白雲はなにも妨げられることなく悠々と飛んでゆくということです。

 なにか些細なことに、とらわれたり、ひかかったりしてしまうお互いですが、

水のようにさらさらと、雲のように悠々ととらわれなく生きられたらいいのです。

時には、こんな禅語をとなえてみたら如何でしょうか。

(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)

2019年1月23日

「維摩の病」

 維摩(ゆいま)居士のことを、禅の語録では「癡愛老」と呼ばれています。

これは、維摩居士が病の床に伏していて、文殊菩薩がお見舞いをした時に、

病気の原因は何かを問われて答えた言葉に基づいています。

 維摩は、病の原因を「癡より愛有り、すなわち我が病生ず」と述べています。

 癡とは、愚かさです。正しい道理が分からない愚かな心の状態であるために、

外の世界のものに愛着を起こして、それが病となってしまうのです。

愛着は、苦しみや病の原因であります。

 そのように病の原因を知っていながら、維摩は病を治そうとはせずに、

病んでいるのです。それはなぜか、「一切衆生の病むをもって、この故に我病む」

と維摩は述べています。

 世間の人々が、愚かさの故に愛着を起こし、病となって迷いの世界で苦しんでいるのを見ながら、

自分一人だけ悟って知らぬ顔はできないというのです。

 維摩の病は、世間の人達が苦しんでいるのを見て、共に苦しみ、痛みを共にしようという病でありました。

すなわち大慈悲の心であったのです。

 私達禅の修行をする者も、この維摩の病を忘れてはなりません。

我一人の解脱を求める為の修行ではないのです。

(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)

2019年1月22日

「どうしたらいいかと自ら問う」

 
論語の中に、「子曰く、之(これ)を如何(いかん)せん、之を如何せんと曰(い)わざる者は、

吾之を如何ともすること末(な)きのみ」という言葉があります。

 意訳すると、「先生は言われた、どうしたらいいか、どうしたらいいか、

と常にみずからに問わないような人は、私もどうしようもない」というところです。

 禅の修行においても、古来大信根、大憤志、大疑団の三つが大事だと説かれています。

大信根は、自らを信じることです。自らに仏様とも変わることのない尊い心が具わっていて、

修行すれば必ず自覚できるのだと信じることです。大憤志は、志を奮い立てて自分でやってみようと思うこと。

そして、大疑団というのは、どうしたらいいのか、どうすればはっきり自覚できるのかと、

常に自ら問題意識をもって取り組むことです。

 自分で、どうしたらいいのだろうかと自ら問いかけて求めないことには、

どうしようもないのであります。

(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)

2019年1月21日

「言葉を贈る」

 『孔子世家』に「富貴なる者は人を送るに財を以てし、仁人は人を送るに言を以てす」

という言葉があります。

 財のある人は、人を送別するときには、はなむけとして金銭を贈るが、

仁徳の人は、よい言葉を贈るという意味です。

 孔子が老子を訪ねたとき、帰りぎわに老子から贈られた言葉です。

 その時に、老子は孔子に対して、聰明で深い洞察力を持っていても、

他人を非難していると命が危ういこと、博学で弁舌すぐれ、たとい見識が広くても、

他人の悪をあばいていると、身を危うくすることを説いたそうです。

 孔子に対する箴言です。

 月船禅師の『武渓集』には、月船のもとで修行して旅立ってゆく修行僧達を送った偈が

たくさん収録されています。ざっと数えても三十はあります。一人一人の修行僧に、

漢詩を作って贈られた月船禅師の、情愛の深さに感服します。

(平成31年1月 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)

2019年1月20日

「世界が自己」

 

南泉禅師のお弟子の長沙(ちょうしゃ)という人に言葉に、

「尽十方世界は是れ沙門の全身、尽十方世界は是れ自己の光明」という言葉があります。

この世界が、あなたの全身であり、この世界は自己の光だというのです。

 長沙禅師は、修行しても空や無のところにとどまってはいけないと戒められました。

空や無になったところを「百尺竿頭」と表現さされました。そこから更に一歩進めてみよと修行僧達に説かれました。

 では一歩進めたらどうなるかというと、長沙禅師は「十方世界是れ全身」と示されています。

全世界が自己の全身であるというのです。

 坐禅して、無になりきってゆくのが、まず第一の修行です。そこから更に一歩進めて、

この世界がまるごと自己であると目覚めることが肝要で、その体験からこそ、本当の慈悲がわいてきます。

(平成31年1月20日 横田南嶺老師 制末大攝心提唱より)

今日から、円覚寺僧堂では、厳しい寒さの中、制末大攝心(1週間に及ぶ集中坐禅期間)

に入りました。

2018年12月7日

「甘酒のご供養」

 この円覚寺の臘八大摂心では、毎晩甘酒が振る舞われます。

これは、毎年もち米と糀(こうじ)とで自分たちで作っているものです。

この頃は甘酒が見直されていますが、実に体も温まり、よしまだ頑張ろうという力にもなるのであります。

 実はその甘酒というのは、岩手の雫石(しずくいし)の方から毎年ご供養いただいた糀を使って作っています。

 送って下さっていた方というのは、先の戦争で銃弾を受けて片目を失明され、

傷痍軍人として日本に帰って来られました方です。

聞くところによると、何でも、かぶっていた鉄兜に銃弾があたり、

貫通すれば即死でしょうが、兜の中を弾がグルッと一周して外に出たというのです。

命は取り留めましたが、片目が見えなくなり、言葉も忘れてしまったというのでした。

 入院中、一生懸命、言葉を覚えることから苦労したそうです。

自ら死ぬことも考えたらしいのですが、ある時病院で両目を失明された方が手探りで階段をはい上がっている姿を見て、

「生きねばならぬ」と思い改めたそうです。

その後傷痍軍人の錬成会で、この円覚寺の朝比奈宗源老師のお話を聞いて感銘を受けて、

円覚寺の僧堂の摂心に通われることとなったようです。

それがこの十二月の臘八の摂心であります。

我々専門に修行してる者でも大変な摂心ですが、それに毎年必ず岩手の雫石から来て参加されました。

ご実家は正直堂という文房具屋さんだったようです。

この正直堂という名前も、朝比奈老師がこの人ならと見込んでおつけになったとうかがっております。

 戦後物の無いときに、もう今年は甘酒を造ることは無理かも知れないというときがあったようです。

その時にこの方が、はるばる岩手から糀を送られたのが始まりだそうです。

それ以来毎年必ず送っていただいたのであります。
 

その方はただ単に参加するだけでなく、実に熱心に坐禅に取り組まれたそうです。

前の管長さまはよく私たちに、あの方ほど熱心に坐った人はいないと言われました。

坐禅のことを禅定(ぜんじよう)とも申します。

そこで坐禅の力を定力(じようりき)と申しますが、あの人ほど定力のある人はいなかったとも言われました。

私どもその話を聞かされる度に、「ヨウシ!負けてなるものか!」と奮起したものです。

 又印象に残っている話があります、この方は一週間臘八の摂心を済ませて、

必ずその後山内のお世話になった和尚様方にご挨拶をして、

そうして最後にご自分の帰りの電車賃だけ残して、その余りのお金で居士林で何か無い物、

不足している物がないか探して寄付して行かれたと申します。

 人のために施すことが好きな方だったようです。

一般の方が坐禅に見えるのに困ることがないようにと、下駄が壊れていれば新しい下駄を新調し、

雨傘も新調したりして、帰りの電車賃以外は皆施しをして、夕方円覚寺を発ち、上野の駅で降りて、ラーメン一杯を食べて、

そのまま夜行列車に乗ってぐっすり眠って帰られたそうです。

家計のやりくりの苦しい中でも毎年欠かすことがなかったそうであります。 

私どもはそのご苦労の様子を、毎年聞かせていただきながら、「ヨウシ!頑張らなければ!」と奮起して坐禅いたしました。

毎晩振る舞われる甘酒が、そのお話と相まってなお本当にお腹にしみわたるような思いで頂いたものでした。

それが、平成十三年の夏八月の十三日にこの方が亡くなったとの知らせを受けました。

 さてその年の冬、臘八の大摂心が参りました。

今年はもうさすがに糀も来ないだろうと思っていましたら、何とその娘さんから

「父の遺志であるから、せめて娘である自分がいる間は送らせて欲しい」と、

またはるばる岩手から糀を送っていただいたのでした。

これには心打たれました。

爾来毎年ご供養いただいて、臘八の摂心を務めさせてもらっています。

実に七十年余りにわたるご供養であります。

こんなご供養をいただいて、修行させてもらっていることに感謝しなければなりません。

そしてなお一層精進しなければ申し訳ないと思うのであります。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月6日

「蟻の巣の中にいた」


 仏光国師は、十七歳から足かけ六年に亘って、趙州和尚の無字の公案に取り組まれました。

はじめ一年で何とか片付くと思ったのが、うまくゆかず、二年三年経っても、まったく歯が立ちませんでした。

五年が経ち六年目に入るころには、夢の中で無の夢を見、何を見ても悉くが無字になってきました。

ふっと少し坐ったつもりが、一日経っていたというようなこともあり、

ある時には、坐ったまま一日一夜、意識を失っていたこともあるほどでした。
 
そして、ある晩、夜中まで坐りぬいて、朝の時間を知らせる木版の音を聞いて心境が開けました。

 その時の感慨を、「なんと自分は長い間、蟻の巣の中にいたことであろうか」と述べています。 

小さな狭い蟻の巣の中のような所にいたと気がつかれたのです。

 悟るということは、今までの自分が如何に思いこみにとらわれ、自ら苦しみを造り出して、

狭い世界の中に閉じこもっていたことが、はっきりと分かることであります。

 我々の迷いのもとを五蘊(ごおん)と申します。

色(しき)という、このからだがあり、その体に具わる眼耳鼻舌身という感覚器官がございます。

目で見るもの、耳に聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、体に触れるもの、

それぞれに、快か不快かを感じます。これが受です。

快と感じたものには、喜びの思いが生じ、不快と感じたものには怒りの思いを起こします。これが想です。

そして思ったことに対して、嬉しいことには、更に愛着を起こします。

自分のものにしたいと思うのです。

それから不快なものには憎しみを起こします。排除しようとします。これが行です。

愛しようとしたり、憎もうとしたりするのです。

その結果行動を起こして、我々は外に世界に対して、善と悪という、自分の都合で色分けをしてしまいます。

これが識です。色受想行識で五蘊となります。

 私たちは、自分で造り上げた五蘊という穴の中に住んでいるのです。

他の人はまたその人の五蘊という枠の中で生きているのです。

ですからお互いに、違いますので時には反発したり、争ったりしてしまいます。

本来自己の無いという広い世界に気がついたならば、自分が今まで狭い五蘊という、

蟻の巣のような狭い世界の中に閉じこもっていたと分かります。

五蘊をありのままに観察できるようになるのです。

すると五蘊に対するこだわりが解けます。

五蘊というものは、何もとらわれることのない空なるものだということがはっきりします。

それによって、苦しみから解放されるのです。般若心経に説かれる、

「五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度す」というところなのであります。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月5日

「苦行の果てに」

 
 臘八の修行は、お釈迦様の難行苦行にならう修行でもありますので、いつもお釈迦様の苦行の話もいたします。

 お釈迦様は、王子という位にあって、きわめて裕福に暮らされました。

しかし、それでは、満足が出来ずに、出家して苦行の道を選ばれたのでした。

 苦行では、息を止める修行や断食をなされました。

一日に一食、二日に一食、七日に一食、さらには半月も断食されたりしました。

わずかの豆や小豆の類いを取るだけで、みるみるお痩せになりました。

 手脚は、枯れた葦のようであり、尻はラクダの背のように、背骨は編んだ縄のようにあらわれ、

肋骨は腐った古屋の垂木のように突き出て、頭の皮は熟しきらない瓢箪が陽(ひ)にさらされたようにしわんで来ました。

 それでもただ、瞳だけは落ちくぼんで深い井戸に宿った星のように輝いていたといいます。

 そんなお姿を写したのが、パキスタンのラホール美術館にある釈迦苦行像であります。 

その頃のお釈迦様のご様子を、経典ではこのように表現しています。

 腹の皮をさすれば背骨をつかみ、背骨をさすれば腹の皮がつかめた。

立とうとすればよろめいて倒れ、根の腐った毛はハラハラと抜けおちた。

 過ぎし世の如何なる出家も行者も、来るべき世の如何なる出家も行者も

これより上の烈しい苦を受けたものはないであろうと思われたほどありました。

 日に焼かれ、寒さに凍え、恐ろしき森に只一人、衣もなく、火もなく、理想のひかりに聖者は坐られたのです。
 
ときには、屍や骨の散り積まれた墓場に夜の宿を取られました。

牧羊者の子供達がお釈迦様を見つけて、唾をはきかけ、泥を投げつけ、また木の枝を取って耳にさしこみました。

しかし、お釈迦様のお心は彼等にたいして少しも怒りを発することはありませんでした。

経典は、更にこう記しています。

 「血は枯れ、あぶら失せ肉落ちて、心いよいよ静まる。正念と智慧と明らかに、禅定いよいよ固し。

われ、かつて、五欲の楽しみの極みを尽くし、今やその欲に望みなし。この清浄の人を見よ」と。

お釈迦様の教えは、こんな苦行の果てに体得されたものです。

 
 八木重吉の詩に、「神の道」というのがあります。

『 自分が

 この着物さえも脱いで

 乞食のようになって

 神の道にしたがわなくてもよいのか

 かんがえの末は必ずここにくる』

というのです。神をお釈迦様に置き換えてみますと、その通りだと思われます。 

 ときには、そんな純粋さばかりでは生きては行けぬと言われるかもしれません。

 たしかに、純粋さだけでは生きてゆけぬでしょう。

しかし純粋さを失えば、また生き残れぬと思うのであります。

 年の一度の臘八を迎えると、お釈迦様を純粋にお慕いする気持ちが湧いてくるのです。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

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