2017年2月11日

「万里一条の鉄」 一日一語138


<坂村真民さん揮毫の色紙>

 人間学を学ぶ月刊誌「致知」3月号に掲載されている

横田南嶺管長の連載「禅語に学ぶ」より抜粋しました。

 昨年の暮れに、わざわざ(坂村真民記念館館長である)西澤ご夫婦が

円覚寺までお越し下さった。揮毫のお礼によ、真民先生の直筆の短冊を

頂戴した。身に余る光栄である。

 開けてみると「万里一条鉄」と書かれていた。墨痕淋漓(ぼっこんりんり)たる

実に鬼気迫る書に、身震いする思いがした。

 万里一条鉄の話は、元来は平等一枚の世界を表す禅語である。この世に

現れた現象は千差万別ある差別の世界であるが、真理は何の差別もない平等の

世界である。それを表すのが本来の意味である。

 そこから更に、千里万里の道をもただ一念を貫き通してゆくという意味にも

用いられる。真民先生も詩の中でこの言葉をよく使われているのは、その意味

である。・・・

2017年2月7日

「生きる燃料」 一日一語137


<富士山方面>

 円覚寺に隣接する六国見山(りっこくけんざん)山頂からの眺めです。

昔は、六つの国が見渡すことが出来たことからこの山の名前があります。

<逗子市内方面>


<横浜方面>

展望台
 
 横田南嶺老師が、先日行われたゲーム制作会社の坐禅会で質問に答えられたことを

まとめてみました。

 会社員: 慈悲の心が大切なのはわかりますが、それだけでは、この競争社会を

生きていくことはできません。競争心をどのように考えますか?

老師: トリカブトというものがある。これは、一見、毒であると思われて

いますが、程よく量を調整をして使えば、薬として体を活性化することができる。

 大切なことは、競争心や怒り、性欲もそうであるが、自分で程よく調合できるように

することだ。自分でよく自分の状況をよく観察して、「これは、活性化した方が良い」

か「これは、鎮めた方が良いのか」を自分でよく見極めることだ。

 競争心も怒りも性欲も程よく量を調整して使えば、生きる燃料となる。

 昔の禅僧で、自分の仕える殿様に侮辱をされたのが因縁で、それを見返して

やるために坊さんになった人がいた。それが、仏道修行をしているうちに

復讐心はなくなっていき、立派なお坊さんになられた。

 もし、その禅僧が、お坊さんにならずに、怒りのエネルギーを殿様を

暗殺するための忍者になるために使っていたら、ただの害でしかない。

 たとえば、タンカーが動くには、燃料がいる。競争心も怒りも性欲も

程よく量を調整して使えば、燃料となる。大切なのは、その方向を

間違えなことだ。冷静にどの方向に進んでいるのか観察している自分が

いなければならない。程よい量を調整できるのは、自分しかできない。

 よく自分の心を観察して、うまく調整できれば、薬にもなり、

それを誤れば、毒にもなるということだ。

2017年1月27日

「宗教の違いを超えて」 一日一語136


 
横田南嶺老師が先日、居士林で行われたブラウン大学宿泊坐禅会での懇談会で

アメリカの大学生の質問に答えられたことをまとめてみました。

 学生: 世の中にはいろいろな宗教がありますが、それは、仏教とどういう

関係にありますか?

老師: 識(し)らないね。(一同笑)(少し間をおいて)他の宗教とは、キリスト教とか?

学生: そうです。イスラム教とかキリスト教と仏教がどうかかわっているかです。

老師: 仏教がということでは、私の知る範囲を超えて、答えることができないが、

私自身がどう関わっているかであれば、それは、答えることができる。

学生: では、そのお答えをお願いします。 

老師: 私自身がですが、そうね、別段、キリスト教についてはいい教えだなと 

思っているところは思っておりますし、イスラム教については、多少偏見が強い

ですから、もう少し偏見を離れて謙虚に学ばなくてならないなと今、思っています。

 キリスト教とはわりにうまくやっているんだわ。(一同笑)

こないだも、うちの寺で長く坐禅をしていた学生がおりましてね、彼は、

哲学の専攻なんだけど、恋人ができて、結婚することになったんですな。

 旦那の彼は仏教徒として結婚したいが、ところが、相手がクリスチャンで、

キリスト教徒として教会で結婚式を挙げたいがどうしたらいよいのかと

相談を受けた。

 そこで、私は彼に結婚式を教会でやれと言いまして、そして、彼に

キリスト教徒になれと言いました。それで、先日、私は、教会での

結婚式に行って、いっしょに讃美歌を歌って祝福をしてきました。

 しかし、それは決して仏教を捨てたのではなくて、愛する人ともに

同じキリスト教を信じて生きるということが、これがブッダの教えである

と思ったからである。

 そして、旦那の方がキリスト教に近づいていけば、必ず、キリスト教の

奥さんもお寺で坐禅をするようになると私は言っていた。

 すると、こないだ、二人でお寺にやってきたんだ。今、彼は、土曜日は

寺で坐禅をして、日曜日は日曜礼拝に行っているようだ。

 しかし、これには、その後、もう一つの話があって、日本では、

哲学の博士号をとっても、その後、生活していくことが困難である。

ポスドクというのか、生活に困っていた。そうして、ある仏教系大学の

研究所の試験を受けて、それが通って、研究員として生活できるように

なった。

 ただ、その大学というのは、禅とは違う、阿弥陀様の大学であって、

彼は、阿弥陀様の研究をしていかなければならない。

阿弥陀様の慈悲は広大である。キリスト教で結婚して2人の生活を

支えているのは、阿弥陀様だ。ブッダの慈悲は広大だ。

 言いたいことは、真実の慈悲というのは、キリスト教だ、仏教だという

隔てはしないことだ。

 太陽、日の光は、これはキリスト教徒であろうとイスラム教徒であろうと

仏教徒であろうと平等に照らしているものである。

 その違いを超えて大きな働きがあることを知ることだ。

<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>

2017年1月25日

「実践 臨済の四喝」 一日一語135



横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 「臨済の四喝」というものがあります。「有る時の一喝は、金剛王宝剣の如く、

有る時の一喝は、踞地(こじ)金毛の獅子の如く、有る時の一喝は、

探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は、一喝の用(ゆう)を作(な)さず。」

 最初に出てくる金剛王宝剣というのは、金剛というダイヤモンドのような鋭い

あらゆる妄想、迷い、分別を断ち切る刀をいう。

 これは、六祖恵能禅師が、坐禅ということを定義なさった「外(そと)一切

善悪の境界に於いて、心念起こらざる」のことを言います。

 外の世界のものを断ち切る、外の情報を断ち切る。文字や言葉によって

得られたものを一度断ち切ることです。

 金剛王宝剣の働きがなければなりません。世間のことばかりに振り回されては

いけない。

 2番目の踞地(こじ)金毛の獅子とは、大地にうずくまっている獅子ライオンです。

これは、六祖恵能禅師の先ほどの言葉の続きである「内(うち)、自性を見て動ぜざる」の

ことです。

 外の情報を断ち切って、自分自身の内を省みて、自分の本心・本性・仏心・仏性に

目覚めて。ドーンと坐っている働きです。これもなくては、いけません。

 私たちが、僧堂で修行をするのは、外の情報を断ち切って、そして、

内、自性を見て動ぜず、仏心・仏性の尊いことを知って、外のことには

振り回されない、微動だにしないものを身につけてドン坐る。

 ここで今度は、そこにとどまっていたのでは、臨済禅師の教えとはいえない。

今度は、ここから、為人、つまり、人の為に働いていく。これが3番目の探竿影草です。

 探竿影草は他に様々な説があります。水の深さを測るとか、魚をとらえる罠であるとか、

あるいは、隠れ蓑を着るという意味もありますが、為人ということですと、

 わざわざ世間に出ていき、悩み苦しんでいる人のところにいって、その人が

今、どういう問題で苦しんでいるのか、それを一つ一ついっしょになって

感じていく働きです。

 もちろん、これには、金剛王宝剣の働きを体得して、踞地(こじ)金毛の獅子の働きが

十分に備わっていた上でなければ、為人の働きはできません。いっしょに迷い

おぼれ死んでしまうことになりかねません。

 そして、最後の4番目は、「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」です。

それこそ、修行をしたとか、坐禅を長年したんだというようなふりを見せずに

ともに喜んだり、ともに悲しんだり、お互いに手を取り合って生きていく境界が

「一喝の用(ゆう)を作(な)さず」ということでありましょう。

 特段、お葬式の時に唱える一喝だけが、喝なのではありません。

我々、禅僧は修行の中で生涯をかけて、この四喝を日々、実践をしていくことが

大切であります。 

2017年1月24日

「山の人、街の人」 一日一語134


 <円覚寺境内・黄梅院にて マンサク>
 
横田南嶺老師が先日、居士林で行われたブラウン大学宿泊坐禅会での懇談会で

アメリカの大学生の質問に答えられたことをまとめてみました。

 学生: いろいろな人、特に若い人は、物事を変えて様々な人を助けたいという

希望があります。けれども、どちらの方が良いのか、私は気になっています。

一人悟りを求めて清くなるか、あるいは、いろいろな人を助けていくのかです。

 気になることは、自分一人で長い時間、瞑想することは、例えば、10年間、

一生懸命、人の為に働くことに対してどちらの方が良いかということです。

老師: それはね、世の中は多様性だ、ダイバーシティというんかい。

一生懸命、働く人もいれば、山に籠って瞑想をしている人もいていいんだと

思う。なぜならば、街でのボランティア活動によって救われる人もいれば、

その一方で、山で何年も瞑想している人に会って、初めて救われる人も

世の中にはいます。

 だから、世の中にあるものは、必ず意味があるの。

 そりゃ、山の中で瞑想をしている人には、10年に1人しか人が来ない

かもしれない。しかし、その10年に1人というその人の悩みや苦しみは、

街では解決できないものを持っている。

 ひっょとして、山の瞑想者は、生涯に1人の人と接して、1人の人に

安らぎを与えて終わりかもしれない。しかしね、山にまで尋ねて来る人

というのは、その辺の本を読んでも、講演会の話を聴いても、

納得できないからだと思うの。

 またね、わざわざ、山まで尋ねて行かなくても、山にそんな瞑想者がいると

知るだけでも、多くの人に安らぎを与えることもある。

 ですから、街で一所懸命働くことも山で瞑想することも同等なんです。

そこで、わたしは、あなたたちに自分が好きな道を選んでくださいと

言いたいのです。

 それで、自分自身が幸せになる、例えば、ボランティアをやって、

多くの人に飲み物や食べ物を与えて幸せになる、幸せだと思えば、

一生懸命それをやればいい。

 しかし、そんな表面的なことでは、本当の幸せは来ない、もっと

深い心を究めた方がいいと自分で感じたら、山に行けばいい。

 その両極端ではなくて、真ん中あたりがいいと、たまに土日は、

ボランティアをやって、他の日は坐禅をしようと思えば、それでも

いっこうに構わない。

 最初に『金剛経』の話でしたように

「これですべては解決する!」という道はないんである!

 ですから、あなたは、あなたに合った道を行くことが世の中の

幸せになるとこう思っています。

学生: そういったボランティアは、いっけん、世の中を幸せにし、

良い影響を与えているようですが、実際は、世の中に悪い結果に

なることもありますが、その場合はどうしますか?

老師: やめたらよい!(一同笑)

<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>

2017年1月23日

「救ってやろう」と思わない 一日一語133


 <円覚寺境内・法堂跡にて>
 
横田南嶺老師が先日、居士林で行われたブラウン大学宿泊坐禅会での懇談会で

アメリカの大学生の質問に答えられたことをまとめてみました。

 学生: 私は、他人の苦しみを感じる時、その苦しみを安らかにしたいと

いう気持ちになります。他人の苦しみを治すのは、自分の中に慈悲の心を

育てることが良いと教わりました。

 しかし、苦しんでいる人を助けようとしても、その結果に到らず、

安らかになることにならないことの方が多いと感じています。

 老師は、他人に苦しみがあるとお感じになる時にどうなさいますか?

その場合になったら、どうするのか?アドバイスをいただけませんか?

老師: あなたは、「他人の苦しみを感じて何かをしてあげたい。

その為には、慈悲の心を育てることが必要である」と言いましたね。

 そうではなくて、他人の苦しみを見て何とかしてあげたいと思う心が

そのまま慈悲の心なのよ。その慈悲の心でいることだけなのよ。

私どもにできることは。

 それでいて、けっこうな効果があるものなのよ。こないだも、東京のお寺の

坐禅会で『碧巌録』という漢文の難しい語録を提唱しているのだけれど、

「この提唱をして人を救ってやろう!」なんてかけらも思わない。(一同笑)

「こんな難しいもの読んでもわかるもんか」と思ってやっている。(一同笑)

 しかし、こないだ、ある青年が私のところに来て、「私は老師の提唱を聴いて

救われた」と言うんだね。私は「えー!」と思ったね。

 だから、普段、慈悲の心でいれば、救おうと思わなくても、相手は

「有り難い!」と思うんだね。

 今日もあなた方を救ってやろうとは、これっぽっちも思っていない。(一同大笑)

思っているのは、早く8時半(懇談会終了予定時間)にならないかということだけだ。(一同大笑)

あと5分だ。(一同大笑)

<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>

2017年1月22日

「応無所住(おうむしょじゅう)」 一日一語132



横田南嶺老師が昨日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 禅というのは、どんな教えであろうと悟りであろうと「これだ!」と

思い込んだ途端に「それは違う!」とやります。

 『金剛経』にありますように、絶えず永遠に否定をし続ける。

「これである!」といったら、すぐ「これでない!」

「これでない!」といったら、すぐ「これである!」

「これである!」といったら、すぐ「それではない!」という風に

一所に止まることをしない。

 これを「応無所住(おうむしょじゅう)」という。

これが『金剛経』も要ですが、要であるのだけれど、「要である!」と

思った途端に、「そうではない」のです。

(平成29年制末大攝心2日目提唱より)

2017年1月22日

「金剛経の神髄」 一日一語131


<居士林堂内>
 
横田南嶺老師が先日、居士林で行われたブラウン大学宿泊坐禅会での懇談会で

アメリカの大学生の質問に答えられたことをまとめてみました。

 学生: 私は、宗教上の理由でベジタリアンをしていますが、私の両親は

 私に肉を食べて欲しいと思っています。肉を食べることは、ベジタリアンである 

私には罪悪感を感じますし、肉を食べないことで両親に心配をさせることにも

罪悪感を感じますが、そのバランスをどうすればよいですか? 

老師:懇談会の最初に『金剛経』の話をしましたが、「菜食主義が正しい」とか

「肉食が正しい」と固定した考えを持ってはいけない。

 「自分はこれだ!」というものを持ってはいけないということを

『金剛経』は、繰り返し説いている。

 だから、あなたが親の前にいて、親が肉を食べて欲しそうにしていたら、

食べることじゃ。親がいなければ、菜っ葉だけを食べることじゃ。(一同笑)

 それが『金剛経』の神髄じゃ。

<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>

2017年1月21日

「痛み・ストレスにどう対処するか?」 一日一語130


<寒風の中で マンサク>

横田南嶺老師が先日、居士林で行われたブラウン大学宿泊坐禅会での懇談会で

アメリカの大学生の質問に答えられたことをまとめてみました。

 学生:私たちは、普通、身体や心の痛みからは、逃げようしますが、

 坐禅をしていると足など身体が痛くなります。その痛みをすべて、

 変えずに受け入れるべきでしょうか?

老師:例えば、痛みですが、これは耐えられる痛みと耐えられることに

よって何か得られるという一面があります。

 その一方で、痛みは、身体が発しているサインですから、

だから、これは避けた方が良いという別の一面もある。

 それは、自分で判断するより仕方がない。今、あなたが正座をしていて

「これは耐えられそうだ」と思って、多少の痛みに耐えて坐れば、

立派なアメリカ人だと言われるでしょう。(一同笑)

 しかし、それ以上、正座をしていると立ち上がることができなくなる、

または、ひざに故障がきそうだと思えば、楽な姿勢にしてください。

 これは、ストレスでも同じですが、逃げなければいけないものと

受け入れるものと両方があるのです。

 ですから、『金剛経』では、固定をした教えはないと説く。

あらゆる人、あらゆる状態に対して効く万能薬のような教えはないと。

 であるから、これは、逃げるべきか、耐えるべきか、受け入れるべきか、

拒絶するか、すべては、あなたが判断すべきことなのです。

 その為には、冷静な判断が必要です。それを真実の智慧という。

「ただ、痛みに耐えるだけ」にとらわれていたのでは、正しい智慧・判断は

生まれない。「これによって何が得られるのか?」「どうなるのか?」

「その結果、世の中がどうなるのか?」「全体がどうなるのか?」と

いうことを冷静に見つめて判断することができる智慧を確立していく。

 ですから、私は、皆さん方にこうしなさいとは言わない。辛抱して

坐禅をしなさいとは言いません。「こんなことをしたら、身体が壊れそうだ」

と思ったら、やめればよいし、「こんなことをしていても、何にもなりそうもない」

と思ったら、やめればよい。しかし、せっかく、こういった研修旅行の

期間を作ってくれていますから、「ここでやめたら、周りの方にも

迷惑がかかる」というような、いろいろなことを総合的に判断して

耐えられるべきところは耐えていく、その辺は、自分が決めるしか

しょうがないところです。

 その判断基準は、理論ではなくて感性なんです。感じるんです。

 例えば、動物は安全ですか、危険ですか?どの動物が安全か危険で

あるかは、絶対的な法則は成り立たない。安全な動物もいれば、

危険な動物もいる。

 それは、自分が危険を察知するしか仕方がない。例えば、自分の前に

動物が来たとする。これは、安全な動物なのか、危険な動物なのか、

いっしょに暮らせるのか、仲間なのかを判断するには、それを感じるしかない。

 その感性が敏感でないとわからない。その為に心を磨くのです。

心を磨いていれば、これは、危難が表れることに気づくことができるだけでなく、

危難が表れる前に察知することができるようになります。

 それが、心を磨いていく、感性を鋭くしていくことの大事なところです。

理論で判断するのではなくて、感性なんです。

 多くの人は、坐禅をすれば、あらゆる動物と仲よくなれると幻想を抱きますが

それは、自分の勝手な思い込みで、そんな気持ちで動物に接したら、

喰われて死んでしまうだけです。(一同笑)

 だから、私は危ないと察知したら、逃げる。それが本当の智慧なのです。

<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>

2017年1月20日

「定点を持たない」 一日一語129


円覚寺山内・妙香池にて

 今日から、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、制末大攝心

(1週間び及ぶ集中坐禅修行期間)となり、横田南嶺老師をはじめ、

雲水(修行僧)、居士・禅子(在家修行者)が、この厳しい寒さの中

禅堂に籠り、修行に精進しています。

 さて、先日、居士林にて、米・ブラウン大学宿泊坐禅会が行われましたが、

そのアメリカの大学生との懇談会で横田南嶺老師が話されたことを

まとめてみました。

 私は、学生時分に金綱経を勉強したものですから、金綱経が

禅の一番の核心だと思っています。

 しかし、その金剛経には「これが核心だと思ってはいけない」と

書いてあるから難しい。

 それでも、今までいろいろとやってきて、(人生の)答えは金剛経に出ているなと

最近は、よく思います。

 金剛経は、「これが悟りである」とか「これが真理である」とかと

固定してはいけないと絶えず説いています。

 ところが、人間は何か固定したものを求めたがる。

「これで大丈夫だ」とか「これで確かである」とか

「これこそ真理である」とかと。

 しかし、金剛経はすべてそれらを否定する。

定点を持たない、そこにこそ、安らぎがあると。これなんです。

 皆さん方もこれといったものを得たいと思って、ここ円覚寺に来たかも

しれないけれど、金剛経には、これといったものはないと書いてある。

 法、真理と言いますが、普通は、ブッダが真理を悟ったとか言いますが

金剛経はそれさえも否定します。「悟った真理は、ない」

「何も得たものはない」と。

 何も得たものがないとわかったから、真理が伝わったということです。

<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>

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