2018年12月4日

「一点に集中」

 達磨大師の言葉と伝わるものに、

「外、諸縁を息(や)め、内心喘ぐこと無く、心、墻壁の如くにして、以て道に入るべし」という語があります。

 坐禅の心得を示されたものです。

先ず第一は外の世界に対して、一切心をはたらかせないようにします。

眼で見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、体に触れて感じるものに、一切心を動かさない。

外から入ってくるもの一切を遮断してしまうのです。

すると、今度は、心の内からさまざまな思いが湧いてでてきます。

むしょうにものが欲しくなったり、腹が立ってきたり、あれこれと心が散乱したり、

または心が沈んで、やる気がなくなり、怠惰になったり、眠気が起こったりします。

その内心に湧いてくるもののすべて断ち切って坐ります。

その要領が、心を切り立った壁のようにしてしまうことです。

何物も寄せ付けぬぞという気迫をもって、一つの事に集中するのです。

そうして、仏道に入ってゆくと説かれます。 

何物を寄せ付けぬようにするには、心を一点に集中するのがうまくゆきます。

それが呼吸を数えることであったり、無の一字に集中するのです。

体の上では、おへその下の丹田に一点に意識を集中させ、心では無の一字に集中させて、

それを一つにしてしまいます。

 すると、体も消えて、ただ呼吸だけが残るような感覚になります。

更にその呼吸も、この広い空間に溶けていって一つになってゆくのです。

これを古人は「空蕩蕩地(くうとうとうち)」といいました。

空っぽでどこまでも広がった世界です。これが道に入ってゆく第一歩であります。

 そのように一点に集中してゆく修行ですが、臘八のように睡眠が足りていないと、

特に途中眠気に襲われます。

集中していく過程と眠りに入る過程とは、あるところまでは同じ道を辿ります。

そこで気をつけていないと、眠りに落ちてしまうのです。

 眠りに落ちないように、集中してゆく為には、やはり目をはっきり開くこと。

何かを見ようとしなくても、はっきり見えているという状態を保つことです。

それから口元を引き締めて、舌をしっかり上あごに付けること、

要は口がたるまないことです。

そして法界定印を結んだ手をしっかり組んでおくことです。

この三つをしっかり意識できていれば眠気は退散してゆきます。

どうしても眠いならば、意識を思い切って眉間に引き上げることです。

丹田に下げるのではなく、一時的に引き上げて覚醒させてみる。

そうして目覚めた状態で一点に集中してゆくのであります。

(平成30年12月4日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月2日

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

 論語の中に「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。

この言葉もまた、臘八のたび毎に紹介しているものです。

 金谷治先生の訳によると「朝(正しい真実の)道を聞けたら、その晩に死んでもよろしい」という意味です。

 森信三先生の『一日一語』の十二月二十二日の章に、この言葉を引用して、

「生きた真理というものは、真に己が全生命を賭けるのでなければ、根本的に把握できないという無限の厳しさの前に佇立する想いである。」

と記されています。

 たしかに、その道に命を賭けるくらいの意気込みがなければ、何に於いても成就することは困難でしょう。

まして況んや、仏道修行、禅の修行においてはいうまでもありません。

 アントニー・デ・メロという神父さんが、

「何もかもなげうって 死さえもいとわないほど 価値のある 宝が見つかったときにこそ 

人はほんとうのいみで 生きる」という言葉を残されています。

何の宗教であろうと道を求める心は同じであると思います。

 この朝に「道を聞かば・・・」の一語は今北洪川老師の『禅海一瀾』にも引用されています。

洪川老師も、朝聞いたなら、その夕べに死んでもいいというほどの道とは何か、

問い詰めてゆけと仰せになっています。

 なかなか、命がけなどということは、めったに出来ることでもありませんが、

こうして臘八の摂心を行いながら、眠たい、足が痛い、疲れたなどとつまらぬ思いにとらわれるくらいならば、

この命を何にかけるかと考えてみると、更なる力が湧いてくるものです。

(平成30年12月2日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年11月27日

「仏の一字、聞くことを喜ばず」

 趙州(じょうしゅう)和尚の言葉に、「仏の一字、吾聞くことを喜ばず」というのがあります。

仏教を学ぶ者にとって、仏とは理想の境地であり、目指すものであり、よりどころとなるものであるはずです。

 ところが、趙州和尚は、仏という一文字すら、聞くことを喜ばないというのです。これは、どういうことでしょうか。

 ある時に、趙州和尚が仏殿のそばを通っていると、一人の僧が恭しく礼拝していました。

仏殿にお祀りしているのは、寺のご本尊ですから、それを礼拝するのは当然のことです。

しかし趙州和尚は、その様子を見て、その僧を打ったのです。趙州和尚といえば、臨済禅師や徳山禅師と異なり、

棒や喝で人を指導するのではなく、言葉で人を導いたことで知られます。めったのことでは、棒で打ったりしない禅僧です。

それが、なんと礼拝している僧を打ったのですから、驚きです。

 僧は、礼拝することは良いことではないのですかと問いました。趙州和尚は答えました。

良いことも無い方がましだと。「好事(こうず)も無きには如(し)かず」というのであります。
 
 
 これは、どういうことかと言えば、趙州和尚にしてみれば、仏といい、或いは仏法といい、

すべて自分自身の心であり、毎日に暮らしそのものにあると体得されているのです。

その自分自身を離れたところに、特別何か尊いものを認めることを戒めているのであります。

自己の外にことさら、聖なるものを認めることを嫌うのであります。

 この頃は、曼荼羅などというものが、よく注目されています。たしかに仏の世界を表した、

すばらしい絵であります。

 しかし、私などは、すばらしいなと思いながらも、どうしても内心「好事も無きには如かず」

という思いがしてしまいます。

 曼荼羅はすばらしいものだけれども、私達の普段目にしてるこの山の景色、庭のたたずまい、

すべてが曼荼羅ではないかと思ってしまうのであります。

 何もあのような特別な絵を描かなくても、仏の世界は、私たちの毎日の暮らしにあるのだと思います。

日常の何気ない風景も曼荼羅だと思ってしまうのです。

 趙州和尚というお方は、十七、八の頃に出家して悟りを開き、南泉和尚の下で修行を積むこと実に四十年、

さらに三年南泉和尚の墓守をして、六十歳から禅の行脚に出て、諸方の老師方と問答して、

心境を更に練り深めて、八十歳でようやく趙州の観音院に住されました。

そこで四十年間お説法なさって百二十歳でお亡くなりになった方です。

 もう仏法は、趙州和尚の体全体に染みわたっているのでしょう。ですからこそ、

分のこの心と毎日の暮らしの外に、仏も法も認めることはないという心境なのです。

 我々は、趙州和尚の言葉だけまねてはいけません。趙州和尚の「仏の一字聞くことを喜ばず」

という一語が出てくるまでに、どれほど仏道を修め、修行を重ねに重ねたのかと思わなければなりません。

仏法を完全にわが身に消化されたからこそ、口にされた言葉であるのです。それまでは、ひたすら仏さまを礼拝し、

経典を読み、坐禅し数息観をし、威儀作法を習い、どこまでも仏法を身につけていく

努力を惜しまないようにしなければなりません。

{横田南嶺老師 提唱より}

2018年11月23日

「驪龍頷下の珠」

驪龍頷下(りりゅうがんか)の珠とは、驪龍という黒竜のアゴのしたにあるという珠で、

「命懸けで求めなければ得られない貴重なもののたとえ」であるといわれます。

 もとの話は『荘子』にあります。 

 或る人が、宋の王様から車十台もの褒美をいただきました。それを荘子に自慢して見せますと、

荘子はこんな話をしました。

 黄河のほとりに、家が貧しくヨモギを編んでもっこを作りそれで暮らしを立てている者がいました。

ある日、息子が黄河の淵にもぐって価千金ものすばらしい真珠を拾ってきました。

すると父親は、息子にいますぐ石でその珠を砕いてしまえと言いました。

価千金も真珠は深い淵の奥底の黒竜のアゴの真下にあるものだ。それを取ってこれたのは、

きっと竜が眠っている時だったのだ。やがて竜が眼を醒ますと、そなたは食われてしまうに

違いないと言うのでした。

 そんな話をして、荘子は言いました。宋の王の恐ろしさは、黒竜どころではない。

いまたまたまそんな褒美をいただいて喜んでいても、きっとそのうち大変な目に遭うだろうと。
 
 この話をもとにして、禅では、本当の珠は、自ら命をかけて取らなければならないこと、

そして更に禅では、命がけで得たものであっても、それを後生大事に抱えていてはまだ駄目であることを説きます。

 苦労して得た悟りであろうと、それを叩き割って捨ててしまってこそ、真の自由が得られます。

 「驪龍領下の珠を撃砕し、敲き出す、鳳凰五色の髓」や「手に白玉の鞭を把って、驪珠尽く撃砕す」

などという禅語としても用いられます。

(平成30年11月22日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)

2018年11月22日

「渓のせせらぎは仏さまのお説法」

とある事情によって左遷された蘇東坡が、弟の蘇轍(そてつ)の元に旅をしていました。

その途中、廬山で常総禅師に参禅しました。

そのときに、心を持たない山や川でも説法をするのかという問題を公案として与えられました。

 蘇東坡は、数日間坐禅してこの問題に取り組みましたが、答がでません。

 やむなく禅師のもとを辞して廬山を下る途中で、往路でも通った渓谷にさしかかった時に、

急流の音を聞いて気がつきました。そこで作られたのがこの詩です。

渓声(けいせい)便(すなは)ち是れ広長舌(こうちょうぜつ)、

山色(さんしょく)豈(あ)に清浄身(しょうじょうしん)に非ざらんや。

夜来(やらい)八萬四千(はちまんしせん)の偈(げ)、

他日如何(いかん)が人に挙似(こじ)せん。

 
 意訳すると、「渓のせせらぎは仏さまのお説法だ。山の色は仏さまの清らかなお姿だ。

夜通し聞こえるせせらぎは仏さまの説かれた経典である。これを将来どのようにして人に伝えられようか」

となりましょう。

 ゆく道の時と景色も同じ渓谷でしたが、蘇東坡の心が開けたのでした。

 古来山や川も成仏するのかと論議されることがあります。しかし、これは何も山や川が仏であるというよりも、

川のせせらぎを聞いても仏さまのお説法の聞こえる、山を見ても仏さまのお姿であると

見ることのできる心が開けたことを表していると私は思うのです。

 後に日本の道元禅師が、「峰の色、渓の響きもみなながら わが釈迦牟尼の声と姿と」と詠われています。

(平成30年11月21日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)

2018年11月20日

「仁王のような気迫で坐る」

円覚寺僧堂では、今日から26日まで、月並大攝心(1週間の集中坐禅修行期間)になります。

唐の玄宗皇帝が病に臥せりました。高熱のなかで夢を見ました。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわり、

どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまうのでした。

玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗だ」と言いました。

 更に鍾馗は「自分は官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。

だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げたのでした。

 夢から覚めてみると玄宗の病は治っていました。そこで玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、

鍾馗の絵姿を描かせました。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿でした。

 玄宗は、鍾馗の絵姿には邪気を祓う効力があるとし、世の中に広めさせたのでした。

 それで鍾馗の画は魔よけの効験があるとされるようになったのです。

 鍾馗の画は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、

大きな眼で何かを睨みつけている姿となっている。

日本では端午の節句の男子の無事成長を願って飾られたりします。

 魔除けには、この鍾馗さんのような気迫が必要なのでしょう。

この頃のゆるキャラのようなものでは魔除けにはなりますまい。

 坐禅の気迫もこれに似ているところがあります。私たちの心には睡魔をはじめさまざまな煩悩妄想が魔の如く涌いてきます。

それを打ち払うには気迫が必要であります。ただボヤッと坐っていては一瞬のうちに魔の虜になってしまいます。

我々の坐禅は、ただリラックスするというようなものではありません。魔と戦う気迫が必要であります。

 江戸時代の鈴木正三(1579~1655)は、坐禅をするにも仁王のような気迫で臨めと示されました。

 「近年の仏法には、勇猛堅固の大威勢が失われている。みなただ柔和になり、殊勝になって無欲なって人良くはなっても、

怨霊となるような気迫で修める人はいない。勇猛心を修し出して仏法の怨霊となれ」ということをも示されています。

 あるいは、仏道の修行には仏像を手本とするように示されました。初心の者がいきなり如来像をまねても駄目であって、

仁王さんやお不動様を手本にするように説かれました。強い気迫をもって、拳を握り歯を噛みしめ、敵と張り合う気迫で臨めば、

どんな魔も面だしできないと言うのです。このような仁王の勇猛な心で坐禅に取り組めと示されたのです。
 
我々の坐禅修行においては、大いにならうべきところがあります。

(平成30年11月20日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)

2018年10月26日

「先師にこの語あり」

 孔子のお弟子に顔回(がんかい)という人がいます。不幸にも若くして、

孔子よりも早く亡くなった人です。あの孔子も顔回が先に亡くなった時には、

はげしく慟哭されました。「慟哭」とは、はげしく声をあげて身もだえして悲しむことです。

門人が驚いて、先生のような方でも、そんなに悲しむことがあるのですかと聞くと、

孔子は、顔回の為に泣かなかったら、いったい誰の為に泣くというのだと言われました。

それほど信頼されていた弟子だったのです。

 孔子から「一を聞いて十を知ることができる」とまで言われた顔回ですが、

「一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、

陋巷(ろうこう)に在り」といって、わずか一碗のご飯と、一碗の汁という質素な食事で、

しかもせまくてむさくるしい町に住んでいたといいます。

しかし、孔子はこう言いました。「人は其の憂いに堪えず。回や其の楽みを改めず。

賢なるかな回や」と。多くの人は、そんなわびしい暮らしに堪えられないが、

顔回はそれを楽しんでいて、そのように道を楽しみ学ぶことを止めようとはしない、

顔回は偉いものだよと仰せになったのでした。そんな顔回だったからこそ、

孔子は多くの門弟の中でもこよなく愛されたのかもしれません。

 仏教にも四依止(しえじ)といって、修行する者がよりどころとすべき

四つの暮らしが説かれています。一つには、常托鉢といって、常に托鉢の暮らしをすることです。

二番目は樹下居(じゅげきょ)といって、木の下のような質素な住まいに住むことです。

今の僧堂でいう「起きて半畳、寝て一畳」の暮らしです。

三番目には着糞掃衣(じゃくふんぞうえ)といって、質素な衣を身につけることです。

して四番目が陳腐薬(ちんふやく)といって、枯葉の様なものを煎じただけの藥用いることです。

一切の贅沢や飾りをはぎ取った暮らしです。

 我々修行をしていると思っていますが。たしかに托鉢もします、こうして夏は麻の衣、

冬は木綿も衣ですが、これらも形だけ質素にしているだけで、本当に質素な暮らしを

楽しんでいると言えるでしょうか。反省すべきであります。

聖書にも富んでいる者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと説かれています。

釈宗演老師というお方は、修行を終えたあとに慶應義塾に学び、セイロンに留学し、

シカゴの万国宗教会議に出て、更にヨーロッパにも布教行脚をされて、

外地では洋装でいられたりと華やかな印象を持たれます。

しかし、長年に宗演老師に随侍して、最後に脈を取るところまでおそばに仕えた

大眉老師というお方は、宗演老師を追悼して「先師にこの語あり」という文章を残されています。 

そこには、長年おそばに仕えて、宗演老師の言葉でいつも耳にしていて忘れられない言葉は

「もったいない」という一語だと記されています。

 病の床に伏してからも、多くの人がお見舞いくださるのを、「もったいない、もったいない」と

言っておられたと言います。

 我々今の豊かな時代に修行させてもらえるのは、有り難いことです。枯淡な暮らしと言いますが、

形式ばかりで、本当に枯淡とは言い難いところがあります。そんな中で修行するのですから、

せめてこの「もったいない」という気持ちだけは失ってはなりません。

(平成30年10月26日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)

2018年10月25日

「神農」


千体仏

 神農というのは、古代中国の伝説の皇帝の一人です。医療や農業の神様として祀られています。

 まだ農耕の行われていなかった太古の人々は、何でも手当たり次第に食べていました。

草でも木の実でもキノコでも貝でも、皆食べたりしましたので、毒に当たったり病気になって

苦しんだりしていたそうです。それは確かにそうなるでしょう。

 そこでこの神農が、あらゆる植物などを吟身し、毒かそうでないか確かめたらしいのです。

その為に自身は何度も中毒症状にかかったと言われます。そして人々に、何が毒であるか、

食べて大丈夫かを教えたといいます。

 それから、木で農具を作り、大地を耕して五穀を植えて農耕を人々に教えました。

そこから、農業の神様とも尊崇されています。

 我々は今、食事の度に、「功の多少を計り彼の来処を計る」といって、この食事がここに運ばれるまで

どれだけの手がかかったかを考えるという意味の言葉をお唱えしています。

しかし、せいぜいどなたが下さったものなのかを考えるくらいでしょうが、思えば、こうして安全に食事が出来るには、

長い年月にわたって、それこそ農耕を教えた神農から、毒か薬かを見分けた多くの人達のおかげでなのです。

だからこうして安心して食べ物をいただくことができるのです。

 そう思えば、今のこのいのちは、何気なく生きているようでも、人類の長い叡智の末に賜ったものであると分かります。

 自分一人の力でどうなるものでもない、大いなる力がはたらいて今ここに生きていると感じられます。

そう思えば、うかうかしているのではなく、しっかりと充実して生きねばならぬと思うのであります。

(平成30年10月24日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)

2018年10月24日

「人はいずこに行く」

 昔のお坊さんの修行に、死後人はどうなってゆくのかを見つめる

というのがありました。死体がどう変化してゆくかを見るのです。

 今もお寺に九相図というのが伝わっているところがあります。

 これは死体が変化してゆく様子を画いたものです。九つに分けて画かれています。

最初に死体が腐敗して膨張する様子、それから、皮膚が破れ壊れる様子。三番目に血

液体液が滲み出す様子。四番目に腐敗し溶解してゆく様子、五番目に青黒くなってゆ

く様子、六番目に鳥獣に食い荒らされる様子、七番目に死体の部位が散乱する様子、

そして八番目に骨だけになって、九番目には焼かれて灰になる様子なのです。

 おぞましい様子ですが、これが人間の現実なのです。こういう様子をよく観察して

無常観を養ったのです。

 禅の問題にもこういうのがあります。

 昔、お釈迦様の時代に、七人の智慧の深い姉妹がいて、墓地を訪れた。娘たちの一

人が、むき出しになった屍骸の一つを指さして姉妹たちに言いました、「屍(しかば

ね)はここにあるけれども、人はどこへいったのでしょう。」一人が「どうだ、どう

だ」と言うと、みんなは真理を明らかにして悟ったという話です。

 こういう問題を真剣に考えて坐るのであります。骸骨の画などが描かれるのは、こ

ういう問題に向き合う為でもありましょう。

 さて、その人はどこへ行ったのか? 

 黒住宗忠の和歌に

  わが姿

  尋ぬるにまた 及ぶまじ

  ただ天地(あめつち)に

  満ち渡るもの

(平成30年10月 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)

2018年10月23日

「白沢の図無ければ」


白沢(はくたく)の図無ければ 

禅語に「家に白沢の図無ければ、是の如き妖怪有り」というのがあります。

白沢というのは、中国の伝説上の動物で、黄帝が狩りをしていて捕まえたといいます。

麒麟や鳳凰などと同じく聖天子が世に現れた時に、出現するとも言われます。

何でもよく人語を話し、万物の情に通じたいいます。

 それが病魔よけになると信じられて、為政者は身近に白澤に関するものを置いたようです。

日本でも日光東照宮拝殿の将軍着座の間の杉戸に白澤の絵が描かれているらしいのです。

江戸時代には、庶民の間にも魔除けのお守りとされていたようです。

 そこから、このような禅語になっているのでしょう。

魔除けのお札が無いと、妖怪が現れるぞということです。

 これは何を表しているのでしょうか。「内魔動ずる時外魔便りを得る」とも申します。

心の内に、疑心暗鬼と申しましょうか、不安の募っていると、外からさまざまな魔に襲われるということです。

 白隠禅師も、三十一歳の頃、岩滝山という山中で坐禅していて、不思議な体験をしました。

なにやら妖怪のような化け物が現れてきたというのです。

しかし白隠禅師は、一心に読経し、心を澄ませて坐禅をしていると自然と消えてしまいました。

そこで、自分の心の中の魔が、外に現れてくるのだと気がつきました。

妖怪を恐れる心が妖怪を造り出していたのです。すべては心が造り出すものだと悟ったのでした。

 我々も、まず腰骨をしっかり立てて、丹田に気力を充実させて、

一心不乱に呼吸三昧になっていれば、何も恐れるものはないのです。

 「白沢の図無ければ」というのは、気力も萎えて、腰もぬけて、

心が散乱してしまっている状態をいうのでしょう。

そうなると、魑魅魍魎が現れてくるぞと戒めています。

「正法に不思議無し」、正しく修行していれば、恐れるものはありません。

(平成30年10月23日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)

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