2017年7月7日

「布薩(ふさつ)」 一日一語149


 横田南嶺老師が昨日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

最近、円覚寺僧堂では、布薩(ふさつ)という儀式を始めました。

布薩という漢字で「ふさつ」とあてていますが、これは、インドの言葉、

梵語のウポーサタが元でありまして、それを音写、音を当てただけであります。

 ですから、布とか薩とかという漢字に意味はない。ウポーサタ、どうも

これも意味がはっきりしないところがあるのですが、元来の意味は、

神々に近づく、近づいていくというのが原語です。

 仏教以前のバラモン教にウポーサタと言われる儀式があったようです。

それを仏教の教団が取り入れたようです。新月と満月の日、旧暦の

15日と月の末30日に、教団に所属している修行者、比丘比丘尼が

一同に集まって、戒の条文を読み上げて、お互い、自分たちがそれに

抵触していないか、犯していないかどうか、確認をし、反省、懺悔(さんげ)を

する儀式を布薩と申してします。

 日本には、あの鑑真和上がお伝えになって、旧暦の15日と30日の2回、

戒を読み上げて、そして自分たちの確認、反省、懺悔をする。今は、お寺に

よりましては、布薩会という名前で、檀信徒とともにおやりになっている

ところもありますが、あまり、盛んではないというのが現状です。

我々の仏教修行は、戒・定・慧です。戒を守る。戒を守って暮らしをすることに

よって禅定、心を静めることができる。心を静めることによって、智慧、正しい智慧

正しい判断、正しい状況を認めることができるようになる。

 その智慧によってこそ、初めて、具体的な慈悲の行いができるようになる。

ですから、戒・定・慧とそこから出てくるところの慈悲行を実践していく、

これが仏教のすべてであろうと思っています。

 臨済禅師や中国の禅僧の語録を読んでいますと、時には戒なんてものは

全く無視しているような自由な表現が出てきます。一見すると禅門においては

戒を重視していないようにとらえるきらいもありますが、しかし、臨済にしろ

南泉にしろ、中国の唐の時代の禅僧方は皆それぞれ、禅の修行に入る前に

戒の勉強、特に律の勉強を何年もやっておられる。

 つまり、すでに戒というものが前提になっていて、そこから、禅の修行が

始まっているのであります。今日、私どもがこうして修行をしていながら、

なぜ、深い禅定に入ることができないのか?なぜ、正しい智慧が生じて

こないのか?なぜ、慈悲行に働いていくことができないのか?であります。

 なぜ、慈悲行に働いていくことができないのかは、智慧が欠如、生じていない

からであり、なぜ、智慧が出てこないのかというと、禅定が疎かになっている

からであり、なぜ、禅定が疎かになっているかといえば、元をたどれば、

戒に問題があるのではないか、こう思うのであります。・・・

今日、仏教のお葬式もこともいろいろと問題になっていますが、よく

仏教では、お釈迦様は葬式をしなかったというようなことを言われることも

あるのですが、今日の研究によりますと決してそいいうことはないと

言われております。

 お釈迦様もやはり亡くなった人のことを大事に弔らったと指摘されています。

むしろ、問題は、大事なことは、我々僧侶がこの葬儀、法要を行う意義をしっかりと

自覚して自信をもって行っていくことであろうと思います。

 そうすると、葬式といたしましても、あれは授戒の儀式であります。

ところが、若い和尚さんなどは、授戒をしているという意識があまりない。

葬祭場の問題や時間の問題などいろいろとありますが、しかし、そこで、

しっかりと授戒をして仏教徒としての戒名を授けて、御弔いをするので

あります。

 これは、お釈迦様の時代も、お釈迦様ご本人も出家をしている人に対しては、

きちんと御弔いをしている。・・・

 お坊さんというのは、人様に戒を授けるのです。戒師となって戒を授けている。

はたして、こういう認識も若い人には欠如しているのではないかと懸念をしています。

自分たちが何をやっているのか、はっきりわかっていないのに、檀信徒に安らぎを

与えられる道理はありません。・・・

 やはり、戒というところから始めていかないと修行はうまくいかない。

それから、いつも申し上げることですが、戒と聞いて、そんなものはとても

守りきれないではないか、厳密の考えたら無理だと思われるかもしれない。

 それで、段々と戒を意識することがなくなっていったんだと思います。

大事なことは、完全に守れということではありません。戒の条文を一つ一つ

読みながら、自分は十分ではないなと気が付く。これではいけないなと反省をする。

 もう少し、心して修行をしなければいけないという反省と自覚が生まれる。

これが大事なところです。そういえば、こないだ、こういうことを言って

人を傷つけてしまったなあ、あれは不悪口戒にあたるなあ。失礼なことを

したと戒律の条文を見ることで自分で反省、懺悔をする、それを繰り返していく。

そうすると段々と善き方向に導かれていく。

2017年6月27日

「正統と異端」 一日一語148


 横田南嶺老師が昨日の僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 今日、我々の白隠禅(白隠禅師の系統の禅)というのは、

白隠慧鶴禅師ー峩山慈掉(がさんじとう)禅師ー隠山惟烟(いんざんいえん)禅師

ー太元孜元(たいげんしげん)禅師-儀山善来(ぎさんぜんらい)禅師

ー洪川宗温(こうせんそうおん)禅師と続き、我々、円覚寺の法系となる。

 白隠の弟子に峩山慈掉がいますが、この峩山は、この今、講義をしている

『武渓集』をお作りになられた月船禅師のお弟子でした。

 峩山は、月船の下で永田(今の横浜市)の宝林寺内の東輝庵に於いて

月船の下で修行をして、月船の後、東輝庵の第2世を継がれました。

ですから、月船の後継者が峩山であります。

 それが、峩山が白隠の晩年に白隠東嶺のもとに修行に行ったものですから、

今日峩山は白隠の弟子であると言われます。それもそうですが

峩山が白隠のもとで修行をしたのは白隠晩年の話です。

月船の下で育ち、月船の東輝庵の後を継いだという事跡は

ほとんど、今では、紹介されることはありません。

 私に言わしめれば、月船なかりせば、峩山が世に出ることはなく、

峩山なかりせば、白隠の系統は、東嶺、遂翁(ともに白隠の弟子)はいたけれど、

その東嶺、遂翁の系統は途絶えているので、今に伝わっていなかったのではないか。

 月船の偈頌(宗旨をうたった漢詩)の見事さ、格調の高さ、それは、古月系と

言われますが、その当時(江戸時代中期)の日本の禅宗においては、

古月の系統がむしろ禅の主流でした。

 この頃、白隠、白隠と強調をすることは、誠に結構なことであり、

それだけ、白隠のお力、力量というものが大きいものであったのでしょう。

 しかしながら、禅の歴史というものを、正しく冷静に見るならば、

白隠は、本山に住することもなく、生涯を原の松蔭寺で過ごされた方です。

 ただ、その地方で生きた泥臭さというべきか、そこが魅力です。

禅というものは、正統よりも異端といわれるくらいのものが出てくるところに、また、

新たなる魅力が湧いてくるのです。

 こういう点で白隠禅というものの功績や魅力を正しく見ていかなければならない。

あたかも、この当時すなわち白隠が活躍した江戸時代後期から白隠禅が

禅の正統であって、それを代々、墨守して伝えていけば良いというだけの

ものの見方では、十分ではないと思っています。

 ときには、異端といわれるようものも出てくる。禅というもの自体が、仏教学、仏教の歴史から

見れば、異端と言われるものでもありましょう。

 唐代の禅僧方は、当時の仏教学の伝統から見れば、それこそ異端でしょう。

正統から外れたところで、田畑を耕したりしながら、何ものにもとらわれず自由なことを

言っている。が、逆にそういうところに魅力があるのです。

 それが(その後)型にはまってしまって、唐の時代の禅僧方の活き活きとした

言葉が公案という型にはめられてしまって、形式に堕してしまう。すると

もはや、唐代の頃の禅の新鮮味は失われています。

 日本では江戸時代に白隠が出て、今までの停滞していた伝統の型をぶち破ったのです。

しかし、以来、250年が経って、今やこの白隠禅が伝統の権威みたいになっていやしまいかと思います。

 時に異端だと言われるようなものが出てくらいでなければ、果たして、本当の禅の

命脈は伝わっていかないのではないだろうかと危惧します。

 歴史というものを正しく学び認識をするということは、今後、我々が

どのように道を歩んでいったらよいかとうことを教えてくれるものであります。

 確かに、古月系(月船もこの系統)の禅、月船の禅、大用国師(円覚寺中興)の

禅の一流は、格調の高い見事な、五山文学の正統の流れを受け継ぎながら、

関山一流の禅風である己事究明ということも両立せしめた素晴らしいものでした。

 しかしながら、それが形式に堕してしまった。逆に形式をあえてぶち破った白隠禅が

凌駕してしまった。ところが、今、その白隠禅が形骸化した公案の型に嵌まって

しまっているのではないかと思われます。

 その型を破って出てくるものがまだ、出てきていない。

異端と言われるものこそが新しいものを生み出していく。そう思っています。

 それには、まず、白隠禅を徹底的に学んで、学び尽くすこと。学び尽くした上で

更にこの白隠禅をも否定して乗り越えていく者が出てもらいたいと願います。

 それが、新たな禅の歴史を作っていくことだと思っています。

{平成29年6月26日 武渓集提唱より}

2017年6月23日

なぜ、仏典以外の引用があるのか?「一日一語147」

 先日、居士林で開催されたGW宿泊坐禅会(学生坐禅会)の中での

円覚寺派管長・横田南嶺老師と参加者との質疑応答の一つをまとめてみました。

参加者: 2年ほど前から坐禅をしているのですが、一番不思議なのは、

   禅の勉強をしているとよく、四書五経など(仏教以外のもの)の

   出典が出てきます。それは、なぜなのですか?仏教なのだから、

   仏典やお経の中から引用するならわかるけれど、儒教などの中から

   引用をしています。禅というのは、はたして、宗教なのでしょうか?

老師: それは、一神教とは違って、特定の仏教とかいうものがあるという

  のではない。真理をついている、これが真理だと思うものは、何でも 

  取り入れていく。

  (真理を語るには)いろいろな表現の仕方がある。仏典の言葉で納得がいく

  という人もいれば、中国の古典が良いという人もある。論語の言葉のように

  日常的、実践的なもので納得がいくという人もある。

   同じ一つの真理だと思います。それを様々な表現によってしていく。

  こういう風に見る訳ですね。ですから、私らでも、いろいろなものを

  読みます。いろいろなものを読んで、いろいろな言葉や表現を知っている。

   そうすると、いろいろな人に対してそれだけ幅広く(対応できるように)

  なっていく。ですから、日本の禅宗のお坊さんなどは、神道などをよく

  勉強している。私らも、初めて坐禅をした時に、(その時の)老師が言われたことが

  「坐禅をすると日本国中、八百万の神が心中に鎮座するのである」でした。

  「おお!八百万の神が鎮座するのか!それはえらいもんだ!」と思った。

  日本人だと「八百万の神が鎮座まします」というと、有り難いということに

  なりますね。

   ですから、(禅というのは)「こうでなきゃいけない!」という、とらわれがない。

  うちの(宗教の)聖典を暗記していないと処罰するなんていう、そういう考えは、微塵もない。

  良いものは何でも良いものとして(取り入れていく)。こういう見方をするんですね。

2017年6月22日

コーネル大学生との禅問答③ 「一日一語146」



 昨日、当ブログで紹介した円覚寺派管長・横田南嶺老師とコーネル大学生との

質疑応答の第3弾です。

学生: 一つは、禅というものは、あるがままの自分を受け入れると言います。

  もう一つは、何とか修行、トレーニングしてより良い自分になろうとします。

  それは、対立するものだと思いますか?

老師:ああ、融合してやっていく(のだ)。たいへん、良い質問でね。

  禅の歴史というのは、その二つの考えが常に「このままでいいんだ」と

  「いや、努力しなければ」という両方の相剋の繰り返しの歴史です。

  私も長年この問題に悩み続けてきましたが、それが、あるおばあさんの話を

  知って、二か月前に片付いた(解決した)。

   七〇歳のあるおばあさんが言われた。その人は、中学を卒業して就職して

  働くことになっていた。すると、その人のおばあさんにあたる人が

  自分の孫に対して「これから、世の中で働いていく上で、人と比べてはいけない、

  人をうらやましがってはいけない」とお説教をした。ところが、その隣にその人の

  お祖父さんにあたる人がいて、「そんなことは、若い娘には無理だ。人をうらやましがる

  のは当然だ」と言った。

   さらにおばあさんが「これからは人に迷惑をかけてはいけない」とお説教をした。

  すると、お祖父さんが「そんなことは無理だ。人間が生きるということは、人に

  迷惑を掛けることだ」とこう言った。

   そして、そう言われて、娘が五〇年働いて、自分はこのおじいさんとおばあさんと

  二つの教えを聞いたから生きることができたと感じた。もし、おばあさんの教えだけを

  聞いていれば、自分の人生は行き詰ってしまっていただろう。もし、おじいさんの

  教えだけを聞いていたら、自堕落で、わがままで怠け者になっていただろう。

   この二つの教えをバランスよく受け入れて自分は生きることができた。と。

  この二つのバランスをとることを仏教では、中道という。

   そこから、さらに大事な問題であるから、付け加えたい。私の最も

  尊敬しているお坊さんで八八歳になる行者が言われた言葉があります。

   「このままではダメだと努力しなければという気持ちとこれでいいんだ

  という満足感とは、相反するように見えるけれど、これは同時である。」

   歩くのを見ればわかる。「ここにとどまってはいけない」と思って

  片方の足が前に出れば、もう片方の足は、「これでいいんだ」という風に

  支えていてくれる。これが同時であるから、前に進んでいく。

   難しいかもしれないけれど、仏教のたいへん大事な問題です。

   私も長いことやってきて、二か月前にようやく気が付いた。皆さん方も

  やがて、人生はバランスだと気が付くことがあることを願います。

 (終了時間の八時半まであとわずかとなる)

  あなた方といるとずっと話をしていたいと思うけれど、次の予定があるから、これで。

   どうぞ、世界の問題をいくつか言われましたけれど、自分の心に争いを起こさない 

  ように、これだけをお願い致します。終わり!

2017年6月21日

コーネル大学生との禅問答② 「一日一語145」

 昨日、当ブログで紹介した横田南嶺管長とコーネル大学生との質疑応答の第2弾です。

学生①: 人にはいろいろな人生があります。老師が禅を始められてから今に到る迄の人生を

   振り返ってみるとどのような感じがありますか?

老師: 人生は偶々(たまたま)だね。今の偶々ここにいるんだ。

   今の出会いも偶々であって、明日もどこに行くかわからない。

   偶々、円覚寺にいて二十数年過ぎているだけで、(この先)どこに転ぶかは、

   わからない。

学生②: 仏教のお寺も、大きいお寺から小さいお寺まで、また最近ではたくさんの空き寺があります。

老師: よく勉強しているんだね。空き寺(の問題)は、たいへんなのよ。

   あなたは(住職してみては)どうだ?(一同笑い)

学生②:その中でも住職が、お寺の仕事やお寺以外の仕事をしながら、地域との一体を目指して、

  また、近所の人と仲よくする為にお寺を開放したり、場所を貸したりして

  地域コミニティーの一つとしてやっています。そういうことは、これから

  必要だと思いますか?

老師: 必要でしょうね。禅というものは、これという生き方が決まっているわけでは

  ありません。十人いれば、十人の禅の生き方がある。ただし、その人が禅が何であるか

  わかっていればの話でありますが。すなわち、人はみな仏であるということが

  わかって実践していれば、どこにいても、何をやっていても禅だわ。

   昔、(円覚寺境内には)アジサイなんかなかった。たまさか、植えたら、

  (大勢の)人が来るようになった。それで(参拝者から)300円(拝観志納金)もらって

  何とか(寺院運営を)やっているんだ。それも、禅だ。(一同笑い)

2017年6月20日

コーネル大学生との禅問答① 「一日一語144」

 先週、6月15~17日の2泊3日で、アメリカのコーネル大学生20名が

円覚寺・居士林に寝泊まりしながら、禅の修行生活を体験しました。

その際に、16日の午前7時半から8時半まで1時間余り、

横田南嶺管長をお招きし、学生との質疑応答の時間が設けられました。

歴史に残る語録に載っているようなやり取りを彷彿とさせるものでしたので、

そのいくつかの「禅問答」を紹介します。

学生①:この時世にいろいろな国同士の政治的な争いがありますが、

   その中で禅というものが貢献できるとしたら、どういうものがありますか?

老師: あなたに訊きますが、今、この場所に争いは起きていますか?

学生:(しばらく沈黙があって)ありません。

老師:それが答えです。(しばらく間があって)今、ここには、殺し合いは

   ありません。鳥が鳴いている。朝日が差している。みんなでお茶を飲んでいる。

   これで、すべて。(一瞬、間があって)終わり!(一同笑い)

学生②: 老師がお好きな詩はございますか?ご紹介いただけますでしょうか。

老師:(窓の外から鳥の声が聞こえている)鳥の声が詩だと思っているのだけどね。

   たくさんの良い詩というのは、勉強して覚えている。しかし、今、こうして

   鳥の声を聞いていると、これに勝る詩は出てこない。

  (しばらく間を置いて)(この)詩を聞いてください。

学生③: 老師に私たちにアドバイスをしていただきたいのですが、ここ(お寺)にいると

   すごく心が落ち着いて平和で幸せな感じがしてくるのですが、では、お寺を出た後

   日常生活に戻った時にどうやってここ(お寺)の落ち着いている心、幸せな心を

   維持することが可能ですか?

老師:ここ(お寺)で暮らしてる時の心を持って帰ろうと思っても、それは無理なことです。

  問題なのは、ここの暮らしが静かで良くて、日常の暮らしがうるさくて嫌だという

  分け隔てて、好き嫌いをする心が問題をおこしています。

   私自身も年がら年中、ここ(お寺)にいる訳では、ありません。電車にも乗ります。

  電車に乗ったら、電車を楽しむしかしょうがない。

  (しばらく間を置いて)その場所にいながら、過ぎたことを思い出すのは無駄であります。

 その比較をする、あっちは静かでこっちはうるさいをと比べる心がなくなれば、

 どこでも幸せであります。

2017年6月4日

「様々ものを全部受け止めて、私たちを黙って静かに見つめてくださっている」一日一語143


 今日は、夏期講座最終日でした。2講目講師・村上信夫さん(元NHKアナウンサー)と

3講目講師・大村智さん(ノーベル賞受賞者)と横田南嶺管長との写真です。


 昨日、横田南嶺管長は、初めてパワーポイントを使用して提唱をしました。

 夏期講座最終日1講目で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

 今日の問題で一番大事なところは、お釈迦様の大慈大悲の心であります。

言葉にならないもの、言葉で表すことのできない私たちの苦しみや悲しみ、

様々ものを全部受け止めて、私たちを黙って静かに見つめてくださっている

仏様、大慈大悲の心。

 私たちは、その大いなるものに見守られているのだ、仏様はいつも私たちを

見つめて下さっているのだ、無言のうちに見守って下さっているのだということに

気がつくことができれば、心の底からふっとあたたかいもの、私たちの内にも

大慈大悲、思いやりの心が湧いてくるのではないかとこう信じているので

あります。


 第82回夏期講座は、無事に全過程を終了致しました。

 大勢の皆様にご参加いただき誠に有り難うございました。

2017年6月2日

「この騒いでいる心の本質は、仏(ほとけ)である」一日一語142


 円覚寺では、昨日から第82回夏期講座が始まりました。

昨日、3講目の講師・谷川俊太郎さんと横田南嶺管長の写真です。

 今日は、夏期講座2日目でした。写真は、2講目の講師である西澤真美子さんと

坂村真民記念館館長・西澤孝一さん、3講目の講師である神渡良平さんと

横田南嶺管長とのものです。


 夏期講座1講目で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

 仏(ほとけ)は心である、心にある。それでいながら、「仏はどこだ?」と

外に向かって探し回っているのは、愚かであります。

 そこでお互い腰骨を立てしっかりと呼吸を調える。あちらこちら騒ぎまわる心を

静かにおさめる。昨日、波と水のたとえを言いましたが、

悩んだり苦しんだり叫んだり泣いたりといつも騒ぎまわっているのは波のようなもの。

しかし、その波立つ水の本質は、水である。この騒いでいる心の本質は、仏(ほとけ)である。

 先ほどのベトナムのお坊さんの言葉ですが、

 {ブッタはあなたの中にいる。

 ブッタが呼吸をしている。

 ブッタが歩いている。

 私は呼吸を楽しむ。

 私は歩いていることを楽しむ。}

 こういう世界を説いているのでありますが、なかなか、いっぺんにわかる

というのは難しいかと思います。でも、少なくとも、このこころを持って

生まれている、お互いにこころがあるということ、このこころの尊いこと、

素晴らしいこと、これだけは、はっきりとつかんでおきたい、忘れないで

おきたいところであります。

2017年6月1日

「心の本質はいのちそのもの」一日一語141

 今日から、円覚寺では、第82回夏期講座が始まりました。4日まで開催されます。

 夏期講座1講目で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

 私たちの禅の教えというのは、心をみる、心の本性・本質をみることを

第一にしてきました。

 心というものは、ざわめき動き、私たち自身も悩ますのは心であります。

心が動揺するから、私たちは悩み苦しみます。泣いたり笑ったり

憎んだり、愛おしく思ったり、実に心は種々に変化してとどまることは

ありません。

 でも、その心の表面上の動きに振り回されるのではなくして、

坐禅というのは、その心そのものをみるという。

これを例えて言いますと、好・嫌、泣・笑、良・悪など様々感情というのは

水の表面に立つ波のようなもので、感情の波の波立ちです。

 もちろん、それを静かに鎮めるのが坐禅の修行でありますが、

もっと大事なことは、その波立っている波の本質は何なのかというと

水だということなのです。

 様々な感情、この心の本質は何であるかというと、それは、

いのちそのものです。そして、そのいのちを私どもでは、仏(ほとけ)と

言います。

 心をみるということは、仏をみるということと同じになって参ります。

明日は、さらに一歩進んで、私たちのこの心は仏であるという問題に

ついて学んで参ります。

 お互いの心の本質は何であるか?心の本質はいのちそのものであります。

そのいのちは、たかだか、数十年前に生まれたものではない。

 人類が始まって以来、何億年でありましょうか、ずった永遠に受け継がれて

きた、いのちそのものであります。その素晴らしいいのちの顕(あらわ)れが

このこころ、この身体なんだと自分で実感をする、体得をする。これが

私たちの禅の教えの一番大切なところです。

 知識の多さや業績の良し悪しとか様々なことで、私たちは人比べて

苦しんでいると思うのですが、比べることのない世界、本来無一物の世界です。

 そういう世界に花を見たり、鳥の声を聞いたり、有り難いですね、、ちょうど

日の光が差して参りましたが、お日様の光に触れて、気がついてもらえたらと

思います。

{平成29年6月1日 夏期講座 無門関提唱より}

2017年5月26日

「これですべてが解決します」 一日一語140


<甘茶、咲きました。>

 先日、居士会で開催されたGW宿泊坐禅会での、

横田南嶺管老師と参加者との質疑応答をまとめてみました。

質問者:何か一つ、ここに注意した方がよいというものがありましたら、

    アドバイスください。

老師:「何か一つここに注意をすれば良い」という都合の良いものがあれば、

   苦労はしませんね。ただ、そういうものがあれば、こっちが教わりたいね。

   方角が分からずに道に迷いながら手探りをしながら歩いている

   ようなものだという言葉があるが、私も、今だにそうですよ。

   「こうかいな」「こうかいな」と迷いながら手探りでやっていくより仕方がない。

   「これで、すべてが解決する!」という、そういうものがあったら、たぶん、

   疑ったほうがよい。たいがい、怪しいものが多い。「これで、あなたの

   問題がすべて解決する!」そんなもので問題が解決したら、世の中、

   苦労はしませんと思いますけどね。

    健康法でもそうですけど、「これで健康で安心だ」とかは、たいがい怪しい。

   だから、あなたが日々の中で「こうかいな」「こうかいな」と努力をしていく以外

   ないんじゃないかな。

別の質問者:延命十句観音経和讃に「まごころ」という言葉が出てきますが、

     自分がまごころを持って相手に接したとしても、うまく伝わらない時が

     あったりして、例えば子供に対して「勉強した方が良いよ」と言っても

     伝わらないことがあります。それは、私がまだエゴみたいなものがものが

     あるから、伝わらないのでしょうか?それとも、伝わらないこともあると

     思った方が良いのでしょうか?

老師: そうね。伝わる伝わらないは向こう(相手)の問題ですからね。こっちは

    こっちのベストを尽くすしかしょうがないね。それは、わからないよ。

    伝わらないようであっても、後になって伝わる場合もあるしね。

    こちらがまごころを尽くすという風に考えて、向こうは向こうですよ。

    子供といえども自分と違う生き物ですから。あなたの言うことなど聞かない

    ですよ。後になってなるほどと思うこともあるかも知らんし。

    エゴというのは、「全部俺の言うことを聞け!」と考えることがエゴ。

   「俺のまごころがわからないのか!」と言い出したら、まごころも

   はた迷惑になってしまう。こちらが誠心誠意偽りのない気持ちでいるしかない。

質問者:伝わらないから、エゴあると考えるのはどうですか?

老師: そんなことを考えていたら、きりがない。まあ、まごころ一つですべてが

    上手くいくでは、これもまた、「まごころ教」になってね。かえって、

    怪しいものになってしまうね。

{平成29年5月7日 GW宿泊坐禅会 質疑応答より}

ページのトップへ戻る