2012年2月19日

禪語の解釈

2月19日(日)
 管長様が本日の土日坐禅会で提唱したことをまとめてみました。
 「随波逐浪(ずいはちくろう)」という禪語があります。これは
良い意味では、相手に応じて、相手に随って人々を救っていく
という意味であります。同じ言葉が、否定的に、波に流され、
のまれてしまって身動きができないという意味で使われます。
 また「和泥合水(わでいがっすい)」という禪語も肯定的には
人々を救っていくためにあえて泥の中に身を投じていくという
意味で使われ、否定的には徹底していない、まだ煩悩の泥に
つかっているという意味で使用されます。
 こういう訳であるから、禪語は解説・解釈ができないのであります。
その場でどういう意味に使われているかでぜんぜん違うのであります。
 ですから、禪の解説書を読んでこの禪語はこういう意味と一方的に
思いこんでしまうと随波逐浪にしても和泥合水にしても全く合わなく
なってしまいます。
 そこで禪語は解釈できないという立場から解説をつけない
「禪林句集」を作ったしだいです。
 解説をつけたら間違うんです。その場でどういう意味になるかは
その場になってみないとわからないのであります。へたに
解説があるとこの禪語はこういう意味と思いこみ、ますます
自分でものを考えることができなくなります。
 解説を読まんのがいいというのはそういうことであります。
そうして自分でどういうことかしらとわけがわからないままで
問いを持ち続けるのでいいのであります。

2012年2月5日

色褪せぬもの

2月5日(日)
 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
「十洲春尽きて花凋残(ちょうざん)
   珊瑚樹林日杲杲(こうこう)」
 十洲とは昔の中国の人が考えた仙人の世界、つまり理想郷
であります。死んだ人がよみがえるお香がある、これを飲めば
長生きできる薬がある、別荘地のように景色がよく気候が
いい場所がある、珍しい獣がとれる、すばらしいダイヤモンドが
とれる・・・。
 これは単なる昔話というよりも今の時代でも我々はそうたいして
変わらないことを考えているのであります。そう思うと人間はやはり
あまり進歩していないと思わざるを得ないのであります。
 そんな仙人の世界は、春が非常に長く百年続きます。しかし
どんなに長い春であってもやがて必ず春は終わり、花も散ってしまう。
尽くそれらのことを満足したとしてもやがては必ず終わるときがくる
のであります。
 また、どんな言葉を費やしても、やがては尽きてしまうし、どんな
思索をめぐらしても必ずいきづまってしまう。文明・文化がどんなに
発達してもやがて尽きてしまいます。そんななかであっても、
海の底の珊瑚は変わることはないという言葉であります。
 海底の珊瑚とは我々めいめいの仏心・仏性であります。
我々の本心である仏性だけはどんなに時代が移り変わっても
尽きることはなく色褪せることはないのであります。人の
ぬくもり、温かさを感じていく心は変わることはないのであります。
我々はそれを求めて行かなくてはならないのであります。
 

2012年1月15日

何もかもがありがたい

1月15日(日)
 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 われをなくしてみれば、何もかもが有り難くなるというのが
本当の世界であります。
 われわれは、まだまだあることが当たり前の世界でしか
ものを見ていないのであります。
 ある人が本に書いておりました。
「禪の悟りとは、失って初めて気付く尊さを
 失う前に気が付くことである。」と。
 生まれること、生きること、こうしていること、そして
最期、死を迎えること、、燃えて灰になる
こと、何を見てもどこを切りとっても有り難く思えることが
真の世界であります。

2011年11月6日

察してあげること。

11月6日(日)
 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 例えば、みなさん方が人には言えないような悩みや苦しみを
お持ちになることがあるだろうと思います。それについて、誰かが
手助けしてくれる、手を差し伸べてくれることがあったとしても
やっぱり、ギリギリの所は自分で解決するより他に無いんであります。
 そういう時、自分がどれだけ苦しんでいるか・どれだけ悩んでいるかを
わかってくれる人・察してくれる人が、もし、いたらどれだけ大きな力と
なりましょう。余計な手・余計なことをしてくれるより、自分が悩みを
抱えている状況を察してくれる人の存在がどれだけ大きいことか。
 「あなたもたいへんだなあ。」「あなたも苦労しているんだなあ。」と
言葉には出さずともわかってくれるだけでどれだけ救われることか。
 神社やお寺に行くと私達は手を合わせます。それは、神様・仏様が
全部私達のことを見てくださっているから、全部私達のことを知って
下さっているからだろうと思います。そう思うことが大きな救いの力と
なるのです。
 坐禅のねらいは大慈・大悲といいますが、それこそ自己の心の鏡を
磨いて目の前の人のわずかな苦しみや悩みを察してあげることであります。
そこにこの人を「なんとかしてあげよう」とか「どうにかしてあげよう」と自分の
考えが交じるとかえってその人を行き詰まらさせてしまいかねません。
 それより、自分の心を何でも映し出す明鏡のようにしてその人のことを
よくわかってあげることが大事であります。それが一番の慈悲なのではないかと
思います。

2011年10月16日

訳ありキュウリ

10月16日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 先日、ある人から「今日の環境問題をどうがんがえますか?」と
尋ねられました。環境問題というと自分と外の世界を分けて考えていますから
禪的には、環境と言った時点で間違いであります。
何のことでも引き起こしたものはなんであるか? 
問題はなんであるか?というと自分の心であると思わざるを
得ないのであります。自己の問題と受け止めなければ、環境を
どうしようと騒いだところで何にもなりません。人の心がこういう
環境問題を作り出しているのだとものの見方を変える必要が
あります。
 今日、我々の価値観は、少しでもキレイなもの、かたちがそろったもの、
手のかからないもの、早いもの、便利で楽なもの等、そういう方向ばかりを
追求した結果、現在のような問題が起こっているのではないでしょうか。
 自然の世界は、きたなく、ぶざまで、不釣り合いであります。昔のトイレの
ようにくさいのが自然であります。
 最近では、曲がっているキュウリを「訳ありキュウリ」と呼んでいるそうですが
私から言わせれば、まっすぐできれいで、つやつやで全く虫がつかないキュウリの
方が「訳あり」であります。ゆがんで、虫が食ったキュウリの方がよっぽど
自然のキュウリであります。
 ゆがんだキュウリを「訳ありキュウリ」というそういう価値観を改めて
いかなければならないと思うのであります。
 自分と環境が分かれているということはありはしない。
みんな一枚の自然なのです!
 あいつが悪い!あいつがけしからん!というどんな争いでも
もとをただせば、全部、人我の争いであります。我をたてて争う
のであります。我のない所にどうして争いが起こりますか?
我のないものにどうして争いが起こりますか?
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居士林右横の景福荘近くの生け垣にサザンカが咲き始めました。
 
 
 
 

2011年8月21日

この一念

8月21日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 我々は一念を起こすから、我と他人、自分のものと他人のもの
男と女、是と非などが出てくるのであります。自分が一念を起こすから
万般のものがあらわれてきます。
 我々は世界があってその中に自分があると思いがちですが
禪的な立場で言えば、我々のこの一念が起こったから、世界が
あるのであります。ですから、この一念を断ち切れば世界は
ないのであります。 世界があるのもないのも自分次第なのであります。
 
 人間みんな同じ世界に暮らしているように思いますが、見ている世界は
めいめい別物であります。だいたい人は自分の関心のあるもの、
欲望の対象となるもの、そういうものしか見えていないのであります。
関心のないものは、そこにどんなきれいな花が咲いていようが見えない
のであります。花の好きな人はここにあそこにと花が見えます。また、
泥棒は人がお金を持っていそうか、そうでないかを見ています。
花の好きな人には花好きの世界、泥棒には泥棒の世界であります。
要するに、自分の一念がこの世界を作っている!のであります。
 大切なことは、一念も起こらない無の世界にふれて
かといってそこにとどまらずに再び、有の世界・現実の世界に
戻ってきて、どうすればみんなが幸せで安らかになるか
願いを打ち立てていくことであります。
 

2011年8月7日

神様は小ちゃな蜂の中に

8月7日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 「入我我入(にゅうががにゅう)」という言葉があります。
仏様の世界に私も入って行く。仏様もまたこの私の中に入ってきて
我と仏が一つになった世界であります。
 金子みすずさんに「蜂と神様」という詩があります。
「蜂はお花の中に
 お花はお庭の中に お庭は土塀の中に
 土塀は町の中に 町は日本の中に
 日本は世界の中に 世界は神様の中に
 そうして そうして 神様は小ちゃな蜂の中に。」
 神様を仏様に置き換えてみてもかまいはしないのであります。
 大自然の中で恵みをいただいて生きていることは
 仏様の懐に抱かれて生きているのと同じであります。
 
 「神様は小ちゃな蜂の中に」一輪の小さな花の中にも
 大千世界の美が全部収まっているのであります。
 小さな虫けらの中にも大千世界の仏様の命が全部
 そこに収まっている。
  そういうことが穏やかに受け止めることができたなら
 一茶の句ではないが「何もないが 心安さよ 涼しさよ」
 であります。どうか、話をゴチャゴチャにして持ち帰らないで
 暑いときでありますが一陣の風を感じて帰ってもらいたい。
 (後記)
 ご要望をいただき、アーカイブを見やすいように変更しました。
 30項目までご覧になれますが、それ以上見たい方は、
 ページ一番下の「ホーム」の横の小さな>>印をクリック
 してください。
 今日は、8時半から提唱を拝聴し
 11時から山内寿徳庵さんのお施餓鬼に出席して参りました。
 
 
 
 

2011年7月17日

わからないままでいい。

7月17日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 ある僧が尋ねました。「頭の長さが三尺、首の長さが二尺、相対して
何にも言わずに立っている。これはなにものか?」と。別の僧が曰く
「(そんなもの)私はわからない!私は知らない!」と。
 これでいいんです。これを知ろうとして、これは何であるかかんであるかと
注釈して、追求し迷いに迷いを重ねてどうしようもなくなって
とうとう三尺のばけものに食われてしまう。幽霊の正体はそういうもので
あります。「私は、わからない!私は、知らない!」の一言でばけものは
終わりであります。それで、すませばそれで良いのであります。
 ひっかかったらいかん!
 理屈をつけて理解して解釈をつけようとしたらきりがありません。
 
理屈をつけてどうこう考えたりせずに、
ただ私はこのままで満ち足りている、本当に有り難いとしみじみと
感じることが大切であります。
 わからなければ何でもいかんと思いがちだが、いくら
わかろうとしても三尺のばけものは、わからないように
なっている、わかりやしないのであります。
 そうであるから、ああ、このままでいいんだと受け止めることが
できたらばけものは、自然と消えてなくなるのであります。
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「う~ん、わからない!」

2011年7月3日

謙虚に慎ましく。

7月3日(日)
 
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 
 原子力の問題もそう、わからないことをさもわかった気持ちになることは、
いかにおろかなことか。いかにおろかなことになってしまう
ことか。わからない中に謙虚に暮らしていく知恵が必要だ。
 北の国からというドラマがあり「遺言」という回でお父さんが
子どもに語っている。「ここには、何もないが自然だけは多くある。
自然はお前えらを死なない程度には毎年食わせてくれる。自然から
頂戴できる。だから、謙虚に慎ましく生きよ。これが父さんの
お前たちへの最後の遺言だ。」
 
 大自然の中で我々は何を知っているのか?本当に知っているもの
など何もない。(原子力もそう。知っているつもり、理解しているつもりが、
ああいう大惨事になってしまった。)いかにわからないものであるか
ということが、(物事を追究すればするほど)やればやるほど痛感される。
 なるほど、やればやるほど大自然の中でいただくものをいただいて、
生きていくんだというものの見方の大切なことがなおのことわかる。
説明のしようがない、わからない中で、わからないままに生かされている
ことの尊さにもう一度目覚めるべき時ではないか?
(後記) 管長様は、午前中だけでも居士林提唱を行い
    本山での法要、黄梅院での法要に出席されていました。
    
    本当に、お疲れ様です。
 
 

2011年4月17日

碧巌録55則

 4月17日(日)
 老師が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 新聞に新井満さんの「祈り」という記事がありました。
大震災起こって間もない頃、新聞社が新井さんに被災者の
励ましになるような詩をつくってくださいと頼まれたそうです。
 それに対して新井さんは、「被災者は、今悲しみのどん底にいる。
私にはかける言葉はありません。詩は無力です。私にできることは、
彼らと手を取り合って泣くことだけです。」と静かにたしなめられた
そうです。
 それから1ヶ月たって、4月11日電話をかけると、新井さんは「今朝詩が
できました。」とおっしゃいました。
 「そろそろ、言葉の力が必要な時期がやってくるのではないかと
思っていた。一番苦しい時に人の心を癒すのは、大自然の美しさと
その感動ではないか。だからこそ、^希望^という心のパン、
詩は命を救う心のパンである。」
 「雲の上の青い空」(新井満さん作)
 苦しいとき 悲しいとき  
 あまりにつらくてくじけそうになったとき
 ぼくは ふと立ち止まり 空を見上げる
 そして 灰色の雲の上にひろがる真っ青な空を思う
 ゆうゆうとふきわたる風を思う  
 4月11日

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