2012年12月16日

海の中の魚のたとえ

12月16日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 海の中の魚が海の話を聞いて海が見たいとしたら、どうしますか?
海は外からでしたら見ることができますが、海の中にいては、
海を見ることはできません。
 魚はいくら見ようとしても見えない。そこで、魚はいろいろと
苦労をする。波打ち際まで出て行ったり、水面を飛び跳ねたり、
海底のどん底まで行ったりと・・・。
 そんな、いろんなことをしながら、ある時、「自分は海の中に
いる!」「自分のいるところが海であった!」と気付くのであります。
修行とはそういうものであります。
 私達の仏心も同じです。海の中にいるのと同じ道理です。
私達も仏心の真っ只中にいるんです。それなのに、「仏心は
どこにあるのか?」と誰それの話を聞きに行ったり、新しい本
を読んだりと外に求めています。
 外に求めれば求めるほどに仏心から遠ざかってしまいます。
ですから、外に求めるのやめて静かに腰骨を立てて、自分の
呼吸だけを見つめる。
 そうすると「何だ!仏心はここにあったんだ!」と自分の
体で感じることができます。
 魚は、ただ見ることをやめたとき、「なんだ、最初から海の中に
あったんだ!」と気付く。海の中に生まれ、海の中に生き、最期に
海の中に帰って行く。
 私達も仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、そして、仏心の中で
息を引き取る。常に仏心の真っ只中なのであります。
(後記)
 管長様には、臘八大攝心、成道会が終わったばかりにもかかわらず
昨日の午後、今日の午前中と居士林で提唱をしていただき、さらに
夕方から、月1回、東慶寺さんで行われている鎌禅会(仏光録を学ぶ会)
の講義までしていただきました。
誠に有り難うございました。

2012年12月2日

12月2日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 その目に前に現れているもの、その目の前の毎日の暮らしこそ
真理であります。これに気づかずに、禅とは何だ?無心とは?・・・
と千里萬里思うたところで遠くして遠しです。こんなことを
考えに考えておれば、いざという時、全く役に立ちません。
 世の中というものは、自分の考え通りものが出てくるわけでは
ありません。それを自分の考えだけをたよりに生きていこうしても
考え通りのことはなかなか出てきません。
 ですから、賢明な生き方というのは、自分の考えを離れて、
からっぽになって、その場その時に応じて生きていくこと
であります。
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<居士林>
 
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(後記)
   今日は午後から蔦禅会(坐禅会)でした。深々と冷える居士林の
  堂内で、11名の方が坐禅を体験されました。皆様、お疲れ様でした。

2012年9月16日

目の前の真実

9月16日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
次のような公案(禅の問題)があります。
ある僧が尋ねました。「この移ろいゆく肉体を離れて
堅固法身、つまり、移り変わらないものはどこかにありますか?」
それに対して別の僧は「山には花が満開で、その美しさは錦をならべたようだ、
谷川の水が渕をなして真っ青なことは藍を湛えたようだ。」と
答えました。
 私達はついつい「どこかにこの移ろいゆく肉体を離れて移り変わること
のない永遠不滅のなにかあるのではないか」と考え回って妄想をふくらませて
逆にマイナスの方向に向かいがちです。
 しかし、大事なことは、「どこかに堅固法身、移り変わることない、
永遠不滅のものはずだ」という自分や相手の妄想・分別、思いこみを
つぶしていくことであります。ましてや、相手の妄想・分別を増やして
しまうようなことは言ってはいけません。
 そして、「永遠不滅のものがどこかに有りはしないか」と頭の中で
理屈をこね回すよりも、庭に咲く一輪の花を見、外に吹く風に
吹かれてみたらどうですか。
 今、目の前にあるあのか細い生きものの中に真実が堂々と
現れているのであります。
 そういうものに触れて、「自分はとらわれていた」「自分は
方向性が間違っていたんだ」と気づいて修正して、妄想・分別を
打ち砕いていくのであります。
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アザミ

2012年8月19日

角を磨く

8月19日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 鹿の群れの主が角を磨くのは、どう猛な動物から鹿たちを
守るが為にやっているのであります。槍のような角をそなえて、
虎のような動物から守り、状況を正しく判断する眼を持ち、
安全なところへと仲間の鹿たちを導く。
 私達が坐禅をするのも、智慧という「角」を磨いて、大勢の
人々を導く為にしなければいけません。己を殺してこの智慧の眼を
磨くのであります。そして、その智慧によって、みんなを安心の
境涯にみちびくのであります。
 円覚寺は瑞鹿山(ずいろくさん)と言いますが、鹿と仏教とは昔から
深いご縁があります。お釈迦様が初めて説法された場所は鹿野苑(ろくやおん)
といいます。なぜ、鹿野苑といわれてるのかといいますとこれもまた、
深い因縁があります。
 お釈迦様は、過去世において菩薩の修行をしていた時、大きな群れの
鹿の王でありました。その国の人間の王が、狩り好きの若い王にかわると、
大勢の家臣を連れて鹿を狩猟して殺してその肉を喜んで食べました。
 困った鹿の王は、人間の王に直訴しました。「どうか聞いてください。
我々は畜生の身、餌食になることは仕方ありません。今500頭で暮らして
いますが、どうかご慈悲の心を持って、あんまりいっぺんに殺さないでください。
代わりに、毎日1頭ずつ献上致しますからそれ以上手を出さないでください。
それで王様は安心して肉を食べられますし、我ら鹿も残りの命は安心して
暮らせます」と懇願しました。
 王様はそれを承諾し、鹿の王は約束通り1日1頭献上して、
王様も約束を守り猟をやめました。
 そしてある日、お腹に子どものいるお母さん鹿が献上される順が
来てしまいました。鹿の王は、王様に「しばらく待ってください。今日は
私が王の食事になります。」と申し出ました。王様は「お前は、鹿の王
なのにどうしてだ?」とたずねました。鹿の王は「お腹に子どものいる
お母さん鹿が死んでしまったら、子どもまで死んでしまいます。私が
代わりになります。」と答えました。そうするとお母さん鹿も「(鹿の)
王様が犠牲になってしまったら、群れは成り立ちません。私が・・・」
とお互いかばい合いました。それを見ていた王様はその気持ちを深く
察して鹿を食べることをやめました。
 鹿の王がお釈迦様の前世であります。その後、この場所では鹿が殺されず
たくさん増えたため、「鹿野苑」と呼ばれるようになったそうです。
 鹿の王は慈悲の心の象徴であります。自己中心、自分さえ良ければいい
という心を殺して、慈悲の心を磨くための坐禅であります。

2012年7月15日

同じ心

7月15日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 自我という名前をつけるとたいへん悪いものように思われがち
ですが、裏を返してみれば、みんな自分中心の同じ心をもって
いるのであります。それはみんな平等であります。
 お釈迦様の時代、舍衞国の王様が、
「自分はいくらお釈迦様の教えを聞いても、自分ほど大事なものは
いないし、自分ほどかわいいものはないと思ってしまう。これほど
お釈迦様の教えを聴きながら、こう思ってしまうのは申し訳ない。」と
悩み、お釈迦様に正直に告白をしました。
 「自分がかわいいという思いがどうしても、とれまません。どうしたら
いいのですか?」と王様は尋ねました。
 そのときにお釈迦様が仰せになった言葉が有名です。
「人のおもいはいずこへもゆくことができる
されど いずこへおもむこうとも
人は おのれより愛しいものを見いだすことはできぬ
それと同じく 他の人々も自己はこの上もなく愛しい
されば、おのれの愛しいことを知るものは
他のものを害してはならぬ。」(『相応部経典』一二・八七)
 自分がかわいいというのは、その通りだ。みんなその通りであると
知りなさい。どんな人にとっても自分がかわいいのだ。それは、
平等なのだ。そのことがわかったならば、その人を傷つけては
いけない。
 様々、見たり聞いたり感じたりする、そういうものを全部否定
する必要はありません。それも全部仏心のはたらきであります。
自我意識も慈悲のはたらきとなりうるのです。
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<龍隠庵>

2012年7月2日

千の風になって

7月2日(月)その2
 管長様が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 一時期、「千の風になって」という歌がはやりました。
 それを聴いた人がお寺の和尚さんに「墓の中にいないのなら
どうして線香をあげるのか?」とたずねたり、また、
「千の風 聞いて買おうか 迷う墓」という川柳も詠まれました。
 亡くなった方々がどこあるのか?と理論理屈を言ってしまったら
きりがありません。また、風になって世界を飛び回っていると
言われてそれで割り切れるものでもありません。そこのところを
うまく詠っている川柳があります。
 「お帰りと 風を迎える 墓の前」
 たとえ千の風となって世界を飛び回ってきても、今日は家族が
お墓参りに来てくれるからと帰って来てくれるという心を詠って
います。また、
 「風鈴を ならすあなたは 千の風」
 チリンチリンと風鈴がなっている。ああ!あの風鈴をならして
くれているのは、あなたであろうという俳句です。
 こういう俳句等は、墓にあるのか、ないのか?という理論理屈を
越えているところであります。
 「千の風になって」という平等一枚、無字三昧、天地一枚の世界は、
当然私達が体験すべきもので、私達のおおもとでありますが、
そればかりにとらわれてしまっては、これまた窮屈であります。
 平等の体験をしたら、やはり、現実差別の世界に立ち戻り
お互い相手の言い分を聞き合い、譲り合い、分かち合い
ながら暮らしていく。平等と差別が交互に入り交じりながら
はたらいていくことが大切であります。
 

2012年6月3日

苦労の分だけ

6月3日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 (1年で一番厳しい)臘八大攝心にずっと来ていた(居士の)
上野二郎さんという方がいました。この方は、傷痍軍人で
岩手県の雫石から、毎年、臘八になると一週間、修行に
来ていました。
 当時は豊かではないから、鎌倉への旅費を作るのに、
春ウサギを買って、それを育てて秋に売っていたそうです。
一週間分のお米を持って居士林に来て、そこから僧堂に
つめていました。一週間の修行が終わると、残ったお金で
居士林の下駄や傘を直して帰られました。
 上野さんが帰っていく様子をある和尚さんが見ていると
円覚寺境内の杉の木、1本1本に丁寧に合掌低頭されて
いたそうです。その様子をその和尚さんは、「上野さんの
心境の深さ、禅の深さを見た」と表現されています。
 1年を一週間の修行、その為に尽くす。全身全霊、坐り
抜いて、「なるほど、草も木も1本1本が有り難い!」と
気づく。これは理屈ではないんです。そういう気持ちなんです。
 それには体究錬磨して自分で「ああ、なるほど!」と気づくしか
ない。自分で苦労した分だけ、骨を折った分だけ自分の心境に
なるのであります。
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<居士林・堂外>  

2012年5月6日

わかっていないという尊さ

5月6日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 「あの人は(ものが)見えている」とか「あの人は
(ものが)わかっている」とかよく言いますが、果たして
見えている・わかっているのが良くて、見えていない
わかっていないことが悪いことなのでしょうか?
 よくいかにもわかったように説明する人がいますが、
本当にわかったというのがわかっているのでしょうか?
 皆さん、もし「私は大宇宙のことをすべてわかりました。
究めました。」という人がいたらどう思いますか?
まず、その人はあやしいし、科学的に良識のある人とは
思えないでしょう。逆に「宇宙の最先端を学べば学ぶほど
わからなくなる」という人の方が頼りになるのであります。
 原因と結果の道理は複雑に入り組んでいて学べば学ぶほど
わからないということに気づかされるのであります。
 仏心の世界も同じで、我々は仏心のことをわかりようがない
のであります。仏心の世界も坐れば坐るほどわからないと
気づくのであります。けれども、確かなことは、たとえ
わからなくても、私達は仏心の中に生かされているという
ことであります。
 我々が見たり聞いたりしてわかっていることは、ほんの
極一部、小さな世界であります。おおよそ、自分にとって
都合の良いものしか見ていないのであります。そんな程度の
目で見て、耳で聞いて自分の都合の良いように解釈を
しいているにすぎません。それでどうして広い仏心といものが
わかるでしょうか?
 修行をして気づくことは「ああ、今まで私は何にも見えて
いなかった、何にもわかっていなかった」ということであります。
 達磨様から六代目の慧能禅師は、「我仏法を得せず
(私には仏法のことはわからない)」と仰せになっています。
 円覚寺の堯道老師は「瞎漢というはまことの活眼である
(見えない、わからないと気づくことが本当にすぐれた眼力
である)」とおおせになっています。
 見えていない、わかっていないという尊さであります。
 

2012年4月15日

一劇の芝居

4月15日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 人が生きることは、一つの芝居であります。
(それぞれが、それぞれの役を演じているのであります。)
何においても私達の仏心・仏性がどういう役をやろうとも
減ることはないのであります。
 
 失敗した、うまくいかなかったと落ち込んだとしても、
それはそういう一つの役柄のつもりでおれば、
それほどのことはないと見ることはできないだろうか。
 人は仏心・仏性の一劇の芝居を一生の間演じるんで
あります。主役をやったり脇役をやったり、良い役であったり
悪役であったり・・・。
(八百屋さんであったり、主婦であったり、お父さんなど
めいめいが様々な場面で演じているのであります。)
 良い役しかできない、時には悪役もできなければ
さみしいではありませんか。(主役になったり、脇役に
なったり、その場その場で自由自在に入れ替わる
ことができればおもしろい。)
 (時代劇でいうなら)斬られる方も見事にできる。
斬られる役になったからといってその人の仏心・
仏性がかげることは全くなく見事に演じきれば
逆に一段と輝かせることもできるのです。
 何事も仏心・仏性の一劇の芝居であります。
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射干(しゃが)、別名胡蝶蘭でしす。<黄梅院>
円覚寺山内のあちこちに咲いてきました。
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こちらは、浦島草。よく見ると花の先端から
ニョキニョキと釣り糸状のものが見えますね。
 これを浦島太郎が持っている釣り竿の釣り糸
に見立てたことから「浦島草」とされているとのこと。
植物も役柄は様々です!
 
 

2012年3月18日

自然の中に

3月18日(日)
 管長様が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 この自然の中で生きていく働きを真の智慧と言います。
自然の中でどのようにして、自然に従って生きていくか?
自然にあがなう・逆らおうとすればするほど迷いは深まってくる
のであります。
 (存在するもの)それぞれそれぞれが自然の姿であります。
お年寄りはお年寄りなりにくたびれて具合が悪いというのも
自然の姿であります。若者も今日は頭が痛くてうまくいかない
というのも自然の姿。何にもわからないというのも自然の姿で
あります。
 ただ、そのわかったような気になるのが一番の迷いであります。
自然に逆らおうと思えば思うほど(真の智慧からは)遠くなって
しまうのであります。
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