2014年2月3日

意識・分別のおおもとは

2月3日(月)
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<居士林前の梅も咲き始めました。>
 横田南嶺管長が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 坐禅をして「無心になった!」とか「悟った!」とかと自分で意識・分別
しているうちはまだ本当の「無心」でも「悟り」ではありません。
この意識・分別する思いをさらに打ち砕く修行が必要です。
 いろいろなことにおいて意識・分別してとらえたものは有限であります。
しかし、その意識・分別を生み出すものは無限です。
 長年、宗教者と対談をされている方がおっしゃっていましたが、
人にお話をするときに意識・分別をしている方のお話は、人の心には届きにくい。
私たちはつい意識・分別でものをとらえてしまいますがそれは有限であり、
その意識・分別を生み出しているものは無限であると。
 
 「これは仏心だ!」「これが真実の姿だ!」と言葉や意識・分別でとらえて
しまっては、それは絵に描いた餅で真実とはほど遠い。
 そうじゃない、この意識・分別を生み出しているおおもとを尋ねていくと
春は花が咲き、鳥が鳴いている、そんないのちあるものと一つにつながって、
一つに通じて大いなるいのちと1枚になります。
 そこで初めて言葉が活きてくるし、いのちも活きてくるのです。「もうすでに
自分はこんなに満ち足りていたんだ」という智慧が湧いてくるのです。
 

2013年11月14日

大自然に触れる

11月14日(木)
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 今日の居士林山門前です。うっすらと彩りがついてきました。
  横田南嶺管長が先日、居士林にて提唱されたことをまとめてみました。
 私たちが本来持って生まれた心は、仏様の心と同じ心であります。
その心は、全く罪もけがれも届くことはない。常にきよらかで、安らかで
静かで光明に満たされているのです。
 どんな罪業も来ることもない。来たることもなければ、消滅することもない。
それがお互いの本心・本性です。そのことに気がつくことが肝要です。
 世の中を生きていく上で、私たちは、辛いこと悲しいことなど様々な境遇
に遭います。それは、どうしても避けることができません。
 その際に、覚えておいていただきたいのは、どんな辛い目に遭おうが、
どんな苦しい境遇に陥ろうが、私たちの心の奥深いところには、
何ら傷一つ傷つかない広い世界が広がっているという真実です。
 そういう広い広い心の世界に気がつくには、大自然に触れることが
一番大きな手がかりになるのではないかと思います。
人間のこしらえたものにはありません。
 大自然の風に吹かれて、大自然の木々を見るなど、大自然に触れる
ことで私たちは、本来持っている広い心に気づくことが出来るのです。
(平成25年11月3日 碧巌録提唱より)
(後記)
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舎利殿へと続く円覚寺参道。
 さて明後日の土曜坐禅会・経験者の部(14:40~)では
横田南嶺管長に「臨済録提唱」をしていただく予定となっています。
 皆様、週末は紅葉を楽しんで、そして、自然豊かな環境の中で坐禅を
してみてはいかがでしょうか。

2013年10月6日

世の中を変えていくもの

10月6日(日)
 横田南嶺管長が本日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 各々のこのいのち、この一念、この心こそ何よりも尊いものなのであります。
あらゆるものを見たり聞いたりしているものはみなこの心です。
 
 この私たちの一念、心というものは素晴らしい働きをして、いろいろな人、
様々な時代に通じていく。。世の中を少しでも、良く変えていくことができる
のはお互いのこの一念しかない。
 「世の中をどうするか?」とよく議論されていますが、特別なことは
ありません。この自分の一念を転じて、変えて、そして通じていけばいいのです。
これ以外には何もありません。この私たちの一念こそが世の中を変えていく
一番の大きな力であります。
 華厳経に「あらゆる仏様を知りたいと思えば、私たちの心を知りなさい。
心が一切のものを作り出す」とあります。つまり、この心を変えていけば
世の中も変わっていく。それ以外に道理はないのです。
 この私たちが持って生まれた一念、心の尊さをわかっていれば、どんな境遇や
縁に遭おうとも、決してしおれる、くじけることはない。それどころか、
自分の心を主体的に相手の心を変えていくことができるのです。
 
 
 
 
 

2013年9月2日

みんな仏心の姿、みんな仏心のまま

9月2日(月)
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 横田南嶺管長が昨日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 「あいつは良い、あいつは悪い」と人を分け隔てる心こそ苦しみのもと
であります。この、人を分け隔てる心を離れる為にこうして坐禅をするのです。
 ところが坐禅をすればするほど、「自分は何年も坐禅をしているから、
していない人より偉いんだ」と人を分け隔ててしまっている人を
多く見かけます。
 「あいつは良い、こいつは駄目だ」と人間を区別する。そんな区別をつける世界から
離れて、「みんな仏心の姿、みんな仏心のままである」と平等に物事をみるのが真実で
あります。
 良い悪いにとらわれて見てばかりいては、真実には程遠い。しかし人間は
とにかく枠をはめて型にはめて区別をしたがる。
 どっちが良い、どっちが悪いかなんてことは、その人のその時その場での
有り様によって変わってくるもの。それをわかった上で良い、悪いを離れて
物事の本質を見なければならない。
 人間の本質は、そうした区別を超えた、みんな仏心の姿、みんな仏心のまま
であると見るところにあるのです。
(後記)
 9月20日から居士林で行われる夏季学生大攝心の参加者応募ですが
男女ともに定員に達しましたので本日をもちまして締め切らせていただきました。
男性30名、女性16名、計46名の方々が参加をします。たくさんのご応募
誠に有り難うございました。

2013年5月19日

何気ない日常の中に

5月19日(日)
 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 我々は坐禅の修行だ、仏法だと言ってますが、何か特別なことをして
何か特別な経験をしなければいけないというわけではありません。
本当のところは何の特別なことはありはしないのです。
 何か特別なことがあると思い求める心こそ一番の迷いのおおもとです。
何やら特別なことはありやしないかと探し求めるこころがなくなったとき
はじめて、安心、満たされるものがある。
 真理というものは朝から晩まで説きづめに説いている。行じづめに
行じている。何も禅の修行といってこうしてこの居士林に来て着物を
着けて袴をはいて難しい顔をしているばかりが修行ではありません。
 電車に乗っているとき、おうちでご飯を食べているとき、TVをみながら
くつろいでいるとき、ぐーすか寝ているとき・・・などみんな禅の暮らし
です。禅そのものを行じている様子です。
 毎日の暮らしの何気ない一言、何気ない動作、たとえば、朝だったら
おはようございます、ごはんを食べるときはいただきます・・・など
何気ない暮らしの一つ一つにちゃんと仏心が光輝いている。
 そういうところにはっと気が付いて、この何気ない暮らしの中に
どれだけ深い感謝の気持ちに満たされるかです。私は修行の深さという
のはそういうものだと思います。
 何気ない暮らしの中でどれだけ感謝に満たされ周りの人に対して
思いやりのこころ、祈りのこころに満たされているかです。そのことに
気づくことが、しいて言うならば「悟り」ではないでしょうか。
 数を数えたりなどいろいろな呼吸法がありますが、それは外に
向かってはたらくこころを断ち切る為には非常に有効ですが、
やはり究極のところは何気ない呼吸が理想なのだと思います。
 何気ない呼吸の中にこそお釈迦様の説法が見事にはたらいている。
それに気が付かんが為にいろいろな呼吸をして意識を向けさせている
のです。
 いたるところ日常の一挙手一投足、何気ない一呼吸、何気ない一言
・・・などにキラキラと光り輝くものがある。
(後記)
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 珍しいものが発見されました!雲水さんが円覚寺山内の妙香池を掃除して
いたら、何と!鈴木大拙居士の犬の首輪に着けていたであろう身分証の
金属が見つかりました。「雑司ケ谷五百七十二番地 鈴木貞太郎 飼犬」と
刻まれています。
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裏には犬の絵が。大拙居士ファンにはたまらない発見ですね。 
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 明日から26日まで円覚寺僧堂(専門修行道場)では1週間の集中修行期間
(月並大接心)に入ります。
 

2013年5月5日

無功の功、無力の力

5月5日(日)
 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 禅では「無事」とは、求めることをやめることをいいます。
悟りとは何ぞや?仏心とは何だ?と求めることをやめて身を解き放っていく。
何かをつかまえよう、つかまえようとすることばかりを工夫をするのではなく
時には、無事に解き放ってやってみればかえってわかるのではないでしょうか。
 無功の功、無力の力という言葉があります。みなさん方のように一生懸命坐禅を
しているばかりが仏心・仏性なのではありません。無力の力なんていうのを学ぼう
と思えばあの(円覚寺にいる)ネコを見るのが一番です。
 あれは無力に徹している。私たちもとてもあそこまでは及びません。
全く無抵抗で、全く無力で、全くこの飾り気がない。今、ここに(居士林に)
来る途中も道のど真ん中にはらを出して寝ていました。
 なんとも無防備な姿なのですが、誰にもおそわれはしない。逆におそわれるどころか
みんなにかわいがられ、喜ばれています。あそこまでいけばたいしたものです。
 気張って坐禅をしているばかりが仏心なのではありません。あのネコは
無功の功、無力の力、仏心・仏性の真っ只中で見事にさらけだしている。
そういう姿に見えませんか?
 
 ネコであれば歯を食いしばってネズミを追い回していなければネコではない、
あれはだめなネコだといえますか。それは狭いものの見方です。
 年老いて、道にゴロンと横になっているネコは、無功の功、無力の力、
仏心・仏性の真っ只中に身をされけ出している姿そのものなのです。
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かなちゃんもとうとう管長様の法話の話題になりました。
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つゆ草。
(後記)
 大勢の方々がお見えになっている国宝・舎利殿特別拝観も今日で終了です。
拝観できるのは16時までですので、まだの方は、お早めに。
 昨日の居士林での土曜坐禅会は初心者の部96名、2部58名でした。
たくさんの方々がご参加いただき、誠に有り難うございました。

2013年3月17日

一つにとけ合ったところ

3月17日(日) お彼岸入り
 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 「山は築かずして高く 川は掘らずして深し」という言葉があります。
私たち人間がいくら土をもったところで山を築くことはできないし、いくら
深い穴を掘ったところで海の深さに及ぶものではない。
 山は自然と高く、海は自然と水をたたえている。これこそ、仏心の姿です。
何も作りごとはありはしない。
 ところが無心の坐禅だなんだと言って、無心になろうなろうとして
それが、分別・妄想の土で山を築くようなものだということに気づかずに
いる人が多くいる。観念、妄想をふくらますのではなく、それら一切の
作りごとをやめればいいのです。
 禅ではよく「成り切れ!」とよく言います。これも、成り切ろう、成り切ろうと
して自分で作りごとをすれば、逆に遠ざかる。物事を分かろう、分かろうとするのも
これまた、同じです。
 それよりも、私たち人間の「成り切ろう」なんていう浅はかなはからいを捨てて、
春になれば大自然の中で、春風の中ゆったりと花ととけ合うことです。大自然に
身をなげうって一つになったところです。また、人生の最期は、月の満ち欠けの
はたらきで自然と息をひきとることです。
 仏心とはいかなるものか?お日様が出て、風が吹く、子供が生まれる、人が死んでいく
これみな仏心の姿です。みないちいちが仏心の光明です。照らされるばかりでなく、
みんなそれぞれ仏心の光をあい放って一つにとけ合っているところを仏心の光明と
いうのです。
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2013年3月3日

「遺体」という映画を見て

3月3日(日)
 管長様が今日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 「遺体」という映画を見ていろいろと思うところがありました。
私達は、普段、生と死を分けて考えています。こうして体が動いて
いれば、生きていますし、心臓が止まり瞳孔が閉じ、動かなくなったら
死となります。
 しかし、はたして、生と死の切れ目は本当にあるのでしょうか?
そして、心の世界においては、はたして、死んでいるのでしょうか?
 結論から言いますと、心の世界には生死の沙汰はありません。
生まれたということもなければ、死ぬということもない。生き通しの
心であり、生き通しのいのちであります。
 そういうことを坐禅をして理論的にどうこうしたとしても、現実的に
体が動かない、目がみえない、何も言わないことにあたって私達はどう
接することができるか?です。
 あの映画の中では、一つ一つの遺体に向かって話しかけ、言葉をかけ
ています。生きている人と同じように接しています。そういう心の世界が
続いています。これは、死体だから声をかけても仕方がないというのは、
科学の道理にすぎません。
 その人がたとえ動かなくなったとしても、体か朽ちていったとしても、
お骨になり、お墓に埋められたとしても、その人との心の交流はずっと
続いています。
 その人の心と私達の心とは一つ一つ相映じて連なっています。そういう
地続きのところ、一枚ところで生死、本物・偽物、善・悪を分けても
意味がない。只、一枚の仏心の世界です。
 この時期にこういう映画を見て、もう一度、被災地の方々の悲しみに
寄り添う気持ちを私達は忘れてはいけないと思います。こんな被災地から
遠く離れた場所で悲しみに寄り添うと言ったって何も意味がないと思うのは
単なる目で見える世界の話です。
心の世界ではずっと直接連なっており、一つのともしびの光は全体の光と
必ず相映じます。遠く思いを致すことは決して無意味ではありません。
(後記)
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 午後からは、黄梅院で志塾主催の論語講義に出席しました。
國學院大學教授の石本道明先生がご講義くださいました。
管長様も最前列でご講義を聴いておられました。
 さらに夕方5時から円覚寺・山内臥龍庵の開山毎歳忌に出席
して参りました。それにしても、中身の濃い充実した1日でした。
 

2013年2月22日

目一つ達磨

2月22日(金)
 管長様が先日の土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
blog-目一つ達磨
 白隠禅師の作品に「目一つ達磨」があります。それには、一つ目の達磨さん
の絵とそのまわりに讃(さん)が書かれています。その讃の中に「わが眼で
わが眼をみよ」という言葉があります。
 この「わが眼でわが眼をみよ」とは、私達禅門で言うところの「自分で
自分の眼をみよ」または「外に向かっている工夫を内に向けよ」「見るものを
みよ」と同じことを言っています。
 この「見るものは何ものであるか?」それは、自分の本心・本性、つまり
自分のこのいのちであります。
 今、見ているものは何であるか?それに気がつけば、それは、本心・本性
であり、そのまま、見性成仏です。
 目一つ達磨は、見性成仏、見ているものと見られているものが一つの世界、
心が一つになって自分の眼も一つになったところを表現しているのでは
ないでしょうか。
(後記)
 今朝の仏殿での暁天坐禅会は、10名の方が参加をされました。
ここ数日の朝の冷え込みは、非常に厳しいものです。そのような中
参加をされる方には、本当に頭が下がります。有り難うございました。

2013年2月17日

心が一つになる

2月17日(日)
 管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 何かの冊子にこんな言葉を見かけました。「心が2つになるのが
迷いである。心が一つになるのが悟りである。」
 心が、今の自分と何か聞こえてきたものを追いかけて2つになって
しまったら、迷いとなります。ものを追いかけるから迷いとなる。
 そこで、私達の禅では、ものを追いかけない為に「聞いているものは
なにものか?」「見ているものはなにものか?」と参究します。そして
外の景色よりも、今こうして見ているもの、聞いているもののすばらしさ
に気づくのです。
 この見ているもの、聞いているものこそ宝であって、もう、外に何も
求める必要はないと気づいたとき、初めて、静かに無心に花を見、
無心に聞くことができます。
 この宝の気づいて見れば、花と見ているものは1枚になって
いるはずです。1輪の花が目に映ってくれば、1輪の花が今の自分と
一つのはずです。
 これに気づかないと、本質を見失ってしまい、花の美しさに
とらわれたり、花を追い回したりしてしまいます。
 そこで、いったんは、外に向かってはたらく心を断ち切って自分の内に
向ける工夫が大事です。そうすれば、今、こうして見ているもの、
聞いているもの、命あるものの尊さに気がついて、自然と眼に花が映ったとき、
花はわが命と一つであるとわかるはずです。
 心が一つになるのが悟りであると気づくのです。

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