2011年5月4日

無門関40則

  5月4日(水)
 管長様が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 禪の修行は、あんまり難しいことを学んだり考えたりするより、
単純に生きるということ。
 生きるということは、やはり毎日食べること、寝ること。
生きるというと何でもないと思われがちだが、本当に大切なことだ。
 臨済語録に「飢え来たれば飯を喫し 困じ来たれば眠る」とある。
おなかがすいたら、ご飯を食べ、くたびれたら、眠る。
禪の教えはこれにつきる。そういうと、大勢の人は何だその程度かと
思うかもしれないが、必ず知る人ぞ知る。
 生きるということは、本当に自分たちでつくるものを用意して、
自分たちでそれを食べる。疲れるまで働いて、疲れたらグッスリ眠る。
これが本当にできたら、それ以上のものはない!
 

2011年2月3日

無門関37則その2

2月3日(木)
 昨日老師が提唱の中でお話しされた坂村真民さんの詩の全文です。
木や草と人間と
どこがちがうのだろうか
みんな同じなのだ
いっしょうけんめいに
生きようとしているのをみると
ときには彼等が
人間よりも偉いとさえ思われる
かれらはときがくれば
花を咲かせ
実をみのらせ
じぶんを完成させる
それにくらべて人間は
何一つしないで終わるものもいる
木に学べ
草に習えと
わたしはじぶんに言いきかせ
今日も一本の道を歩いて行く

2011年2月2日

無門関37則

 2月2日(水)
 老師が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 坂村真民さんの詩に
「木と草と人とどこが違うのだろうか?
  一生懸命生きているのを見ると
   時には木や草の方が偉いように思われる
    木や草に学ぼう。」
 というようなものがある。
  
  我々人間も(もちろんこの自分も)、本来、
 生い茂っている木や草、そこら辺であくびをしている猫と
 同じく天地自然の中の一つのはたらきにすぎない。
 これが自分だ!自分の方がもっとましだ!という執着・妄想を
 離れて、天地自然と一枚になる、一つになる。
 そこに本当の安らぎがある。
  木や草や他のあらゆる命。
  みんな同じ一枚平等の命。
  同じように生きているかけがえのない存在。
  みんな同じ平等の存在であるとしみじみ感じて
  謙虚に生きよう!
  
  (後記)
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 僧堂の宿龍殿の写真です。ここで攝心中提唱が行われます。
左の椅子に老師が坐を組んでお座りになり、お話をされます。
 <お知らせ>
 平成23年度春季学生坐禅会の日程が3月4日(金)から
6日(日)と決まりました。もう少ししたら、円覚寺本山の
ホームページで正式に公表される予定です。
 
  
  

2011年1月19日

無門関36則

1月19日(水)
 老師が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 
 自分のお寺に帰る雲水に老師が必ずおっしゃることがある。
 一つめは、あいさつをすること。和尚さんをはじめ寺の中の人は
もちろん、お墓参りに来た人にも声をかけること。
 二つめは、毎朝みなさんがくる前に掃除をすること。
 三つめは、朝、本堂でお経を読むこと。
 だそうです。
  坂村真民さんの詩に
 「こちらから、頭を下げる。こちらから、あいさつをする。
 こちらから、手を合わせる。こちらから、わびる。
 こちらから、声をかける。
 すべて、こちらからすれば、争いもなく和やかにいく。
 仏様もこちらから近づいていこう
 どんなにか喜ばれることだろう。」とあります。
  相手に対して通じていくもの、訴えかけていくものは
こちらの「至誠」つまり真心である。
  本当に真心をもって相対していく、真心をもってあいさつをする、
真心をもって声をかけていけば、どんな状況であっても
おだやかに、なごやかに片付いていく。
(後記)これが、昨日紹介した「トイレの神様」除穢忿怒尊のお姿です。
    僧堂の東司(便所)入り口左上に安置されています。
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 次回は「お風呂の神様」を紹介します。
 

2010年10月6日

無門関33則非心非仏

 10月6日(水)
老師が提唱されたことをまとめてみました。
心こそ心迷わす心なれ
心をたよりにするな。
心に振り回されてはいけない。
心こそ恐ろしいものである。
 そんな心をいかにして調御(調える)することができるか?
 いかにしておさめることができるかが仏教の課題だった。
 馬祖道一禅師は、そうした状況の中で、
「自分のこの心こそ仏である!」と言われた。
 そうすると、人々は「心」という概念「仏」という概念にとらわれてしまって
本質を見失ってしまったから、今度は「心でもない仏でもない」とお説きになった。
 それでは、「心」とは「仏」とはいったい何をさしているのか?
結論は、心とは天地一杯にみちあふれているもの。
坐禅をすると、これが自分これが他人、内と外の区別がだんだんぼやけてきて
やがて天地と一つになる。
 私たちは、「心」とか「仏」とかの言葉でもってはとても限定することのできない
もっと大きなものを生きている。この生きているものを確かに感じ取って
些末なものにとらわれずに、大きな命の流れに身をゆだねまかせていくことが大切。
 
 

2010年9月1日

提唱 無門関23則

 9月1日(水)
 老師が淡青会坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
仏様の称号の一つに「調御丈夫(じょうごじょうぶ)」がある。
それは、上手に調えることができる人ということ。
 坐禅は、調身(ちょうしん)・・・まず、この身体を調え
     調息(ちょうそく)・・・そして、呼吸を整え
     調心(ちょうしん)・・・心を調える。
この生身の身体がある限り、煩悩・欲望がすべてなくなることはない。
また、煩悩・欲望は生き残る爲に必要なものでもある。
 坐禅をすることは、それらをなくすというよりもよく調えること。
誰もが持っている煩悩・欲望を調える術を訓練していくのが坐禅。
 また、禅は一超直入(いっちょうじきにゅう)・・・いっぺんに仏様の悟りに到る。
悟りとは、我無しと気づくこと。
我と思いこんでいるものはどこにもない、自分だ自分だと思ってしがみつくものは
どこにもないと気づくこと。
 自分は、この小さな肉体ではなく、大自然のいのちそのもの。
自分は、永遠に移り変わる、大きな天地活動の中の一部なんだ。
つまり、生き通しの大きないのちにめざめる。
 大自然と自分と一枚なんだ!

2010年7月7日

提唱 無門関30則即心即仏

   7月7日(水)
老師が淡青会坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
  あなたの心が 仏である!
これ以上端的なおしえはない。
 
 各々が仏様の心というかけがえのない これ以上ない宝物を持ちながら
 それに気づかずに 人に言われるまま おろおろ迷い求めている。
 みんな例外なく仏様の心をいただいているのだから
 その心を日常の中に活かして
 怒りや貪りではなく
 慈悲や思いやりを持って人に接したいものだ。
 仏様の心のはたらきは慈悲や思いやり。
 いかにして いくつしみや思いやりの方向へと心を運んでいけることができるか?
 その為に坐禅をして心をおさめ温かい心を出していけるようにするのが本当の修行。
 
  
  (後記)
      円覚寺のホームページからリンクできるようになりました。

2010年6月2日

提唱 無門関29則

       5月2日(水)
  老師が淡青会座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
 栄西禅師曰く
 「大いなる哉心や 
  天の高きは極むべからず。
  而るに心は天の上に出ず。
  地の厚きは測るべからず。
  而るに心は地の下に出ず。」
 この天地宇宙ひっくるめての心
 
 それが 我々の心の本質!
 そんな心の中に生まれながら 自分と他人と区別し
 せまい自分の殻の中でしかものを見ていない。
 結局 なんにつけても 自分の心が自分の心を苦しめている。
 「心こそ 心迷わす 心なり」

 
 風が動くのも心
 幡が動くのも心
 青い大空に雲が流れていくのを
 自分の手や足や顔をながめるのと
 同じ気持ちで見たいものだ。
 「我もなく 人もなければ 大虚空
     只一枚の 心なりけり」
 
 
 
  

2010年5月19日

提唱 無門関28則

        5月19日(水)
  老師が本日坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
 五祖法演禅師曰く
 「我参ずること二十年 只恥を知る」
 (長いこと坐禅をしてきて何がわかったか?
 只自分に恥じ入るばかりである。)
 坐禅をすればするほど 
 自分の いたらなさ つたなさ はかなさ もろさに
 に気付く。
 何の世界でも 何かに真剣に打ち込めば打ち込むほど
 自分の おろかさ みにくさ どうしようもないところが
 はっきりしてくる。
 そういう経験をしてはじめて
 人の弱さやいたみに気がつく慈悲の心に通じていく
 そうして 人に対して親切に謙虚になっていく。
 自分の弱さに直面し
 自分はその程度であると自覚することは
 いかに 自分が取り組んでいる世界が奥深いかに
 
 気付いたことであり
 だからこそ まだ足りないと精進することにつながる
 (後記)
   明日から26日まで僧堂の摂心がはじまります。
  提唱が毎日ありますので、できる限り掲載するつもりです。
  宜しくお願いします。
 
 

2010年4月7日

提唱

4月7日
無門関提唱 第27則 不是心仏
淡青会坐禅会において、老大師が提唱されたことを
私なりにまとめてみました。
  「不是心、不是仏、不是物。」
心にあらず、仏にあらず、物にあらずとは、
それらにも限定されない大いなる心のこと。
本来は皆大いなる心を持っているのに、欲望などで
自分で自分を限定して小さくしてしまっている。
自分で限定しなければ、無限な心を皆が備えている。
大いなる心は、無心無我の心。
無心無我の人にして、初めて人を安心(あんじん)せしめることが
できる。救ってやろうとか、安心させてやろうとかのはからいを
超えて、無心無我になったら、自然と自ずからまわりの人は、
安心する。その為に、自分を殺す修行をする。
自分の欲や我儘を殺して少しでも無心無我になれるように
精進することが大切。

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