2011年3月5日

学生大攝心 提唱

 3月5日(土)
 
 老師が学生大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
 この体、この心、この命。
そして、今、命あること。今、生きていること。
 このことは、あらゆる言葉や論議をも超えている。
説き尽くすことのできない尊いこの瞬間を私達は、
今、生きている!
痛かったら、痛い!でいいんです。
寒かったら、寒い!でいい。
苦しかったら、苦しい!でいいんです。
 それみな、生きてあればこそ、命あればこそであります。
 今、そこにそうしている、その姿のままで
これ以上のものはない!と自分で納得がいくかどうかだ。
blog-008_20110305134818.jpg
 学生大攝心始まりました。今回も、大勢の方が参加されています。
blog-006_20110305134857.jpg
 今日のお昼にお出しする具だくさんの味噌汁(通称 攝心汁器)です。
blog-004_20110305134842.jpg
典座さんは、前夜から、こつこつと準備をします。
 

2011年1月8日

無門関29則

 1月8日(土)
老師が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 「一行三昧」・・・我も忘れて今自分がやっていることになりきっていくこと。
 時は今 ところ足下 そのことに 
     うちこむ命 とわの御命 という歌があります。
 本当の自分はよそにあって、現実の自分、今やっていることは違うと
 思いながら、いやいややるのではなく、
 自分が置かれている「その時」「その場」を一行三昧でする!
 自分が今やっていることに自分の全力を没頭する。それこそ、永遠の命であり
 仏心である。
  坐禅をしたら、姿勢を正して自分の呼吸と一つになっていく。
 そして呼吸していることも忘れて、ただ呼吸一枚になる。
 ただ坐っていく。ただというところが本当の一行三昧。
 そして、生きるということをただ生きていく。
 その時その場自分の精一杯の限りを尽くして
 ただひたすらに生きていく。
blog-007_20110108203121.jpg
blog-008_20110108203129.jpg
(後記)居士林の庭です。水仙の花の香りが辺りにただよっています。
明日は、第二日曜なので9時より大方丈で管長様による日曜説教会が
あります。一般の方も拝聴できます。
 
   
  

2010年12月5日

無門関27則

 12月5日(日)
 老師が昨日土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 「明るく生きることだけが私が子どもにしてあげる唯一のことなんです。」
これは、息子さんが大きな障害を負ってしまったお母さんの言葉です。
「もし、私が暗く沈んだり病気でもしたら、この子は自分のために
母親がこんなになったと自分を責めてしまう。あの子に対して自分は
何もしてあげられない。けれどもせめて自分が明るく生きることだけが
この子にしてあげられることなんです。ですから、明るく生きています。」
 とおっしゃったそうです。
 本当にその人そのことを思うことによって大きな力が明るい力が出てくる。

2010年10月16日

無門関25則三座説法

 10月16日(土)
 老師が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 
 今こうして聞いているもの、みているもの
 今こうして確かに生きているものは、どんな言葉でも表現することはできない。
  しかし、ないわけではない。二六時中ずっと働いている。
働きづめに働いているんだ!
 しかもそれはこの小さな自分だけを動かしている力ではなく
自分や他人はもちろん虫けら、動物、草木にいたるまであらゆる生きとし生けるものを
生き通しに生かしてくださっているものだ。
 その生かしてくださっているものを確かに自分で確かめていく。
そして、もうこれ以上貴いものはよそにないと気づくこと。
それが坐禅の上で一番大切なことだ。

2010年9月11日

提唱 無門関23則

 9月11日(土)
 老師が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
  私の心は、もともと本来清らかであった!
 このことに本当に気がついて納得がいった。
 頭も剃っていない坊さんでもない青年が、この一つのこと、事実に気づいたことで
だるま様から第6代の法(おしえ)を継承した。
 お経が読めるとか礼儀作法がしっかりしていることも大事だが
自分の心の本来はどういうものか?
それは、本来清らかであるという本質に気づく方がはるかに大切だ。
 金剛經は、繰り返し「無我」を説く。
これが自分のもの、これが自分の身体というものはどこにもありはしない。
一度徹底的に坐禅をして、さがしさがしさがし抜いたときに
これが自分だなんてものはどこにもないと気づくことが重要。
 この島が無人島とわかるには、隅から隅まで徹底してさがすしかない。
とことんまでさがし抜くしかない。
誰かいると思うと不安でビクビクしていなければならないが
この島には何にも誰もいないと気づいたとき
 
無人島が我が家になる!そこのあるものは全部自分のもの!
 心もそう。
自分らしいものがごそごそしているように思えるが
それがいったいどこにあるのか徹底的にさがしてみると
自分らしいものなんてどこにもないんだと気づく。
「己なきとき、己ならざるはなし。」
 大千世界 我が家!
 この世界全部 我が家なんだ!
(後記)土曜坐禅会が1ヶ月ぶりに再開しました。
    一部39名二部54名と大勢の方が参加されました。
 
     なお、明日は日曜説教を掲載する予定です。
 

2010年7月10日

提唱 無門関21則 

      7月10日(土)
 
老師が土曜坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
 坐禅をすることは 泥水を澄んだ水にするようなもの。
何にも手を下さずに 静かに放っておけば自然と水が澄んでくるように
手を組み 足を組み あとは放っておけば 頭はからっぽになる。
 
 何も思わぬが 仏の稽古なり
その何にもなくなったところから出てくるはたらきは 
慈悲の心 思いやりの心
 
 しかし 現実は自分中心に好き嫌いとものを仕分けてしまう。
その仕分けを取り払えば みんな仏!
どんなものにも いくつしみ 親しみ 思いやりの気持ちが自然と出てくる。
 各々の体において 活きてはたらいているもの 仏の命そのものを
自分の呼吸を通じて 感じ 確かめろ!
 気づいてみれば 天地一枚みんな仏であった。

2010年7月3日

提唱 無門関20則

    7月3日(土)
老師が土曜坐禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
「天地(あめつち)を 肚におさめて 田植えかな」
  (天地全部をおなかの中におさめて田植えをする)
さらに 
「天地も 肚も忘れて 田植えかな」
  (天地一杯も肚も何もかも忘れて田植えに没頭する)
  意識しているとまだ狭い
  小さな自分にとらわれず 何もかも忘れて もっと大きな自分に
  「自分探し」は 一歩間違えると 自分の我が儘の増長になりかねない。
   坐禅はその我が儘な自分を一度否定する。
   そして もっと広い大きな自分に気づく。
   坐禅をして 家族やまわりの人から 穏やかになった 優しくなったと言われるのは
   正しい坐禅。逆に頑固や我が儘になったと言われるのは考え物。
   小さな自分に対する執着を否定して もっと広い大きな自分に気づき
   回りのもの 家族はもとより草や木や鳥や虫にいたるまで 
   慈悲の心 同じ一つの命であると 温かい思いやりの心で接していくのが
   本当の坐禅の道である。
   
   
  
 

2010年6月12日

提唱 無門関19則

       6月12日(土
 老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
「春に百花有り 秋に月有り 夏に涼風有り 冬に雪有り」
  大自然と自分は本来一枚!
 私たちは 大自然のいのちをそのまんま生きている
 朝 目が覚めること(大自然のはたらきそのもの)
 当たり前のことだけど それに喜びと感謝の心を感じるか?
 本来は 誰もがそれに喜び感謝する心を持っている
 しかし自分でその心をくらましてしまっている。
 花も月も涼風も雪も全部ひっくるめてわが心
 大自然といつも一つである
 何一つへだてるものがないというのが本来の心
 平常心是れ道

2010年6月5日

提唱 無門関18則

    6月5日(土)
 老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
黒住教の教えに
「祈るときは からだの力をぬいて この天地にとけ込んで
自然と一つになるような すべてをまかせきるような
ゆったりとした気持ちが大切である。」とある。
また「祈ることによって 五感や意識がとぎすまされて
心は透明になり また鏡のようになってすべてをうつしだす。」とある。
 この「祈るときは」を「坐るときは」に置き換えれば
坐禅にそのままあてはまる。
自分だ自分だとしがみついているものをとっぱらって
大自然の営みと一つになって
大宇宙のはたらきにすべてをゆだねて
ゆったりとした気持ちで一呼吸一呼吸坐禅する。
そして 「只今 ここに生きて活動しているこの私
この命こそ仏様である。」と気づくことが大切。
 

2010年5月29日

提唱 無門関17則

     5月29日(土)  
  老師が土曜座禅会で提唱されたことを私なりにまとめてみました。
「 迷いながら つまずきながら
 求めながら 失いながら
 憎しみながら 愛しながら
 泣きながら 耐えながら
 責めながら おそれながら
 己をつくり 仏へ近づいていく」
  という坂村真民さんの詩がある。
  一回一回の坐禅 一呼吸一呼吸の坐禅を
  怠らずに努めることが 一歩でも二歩でも
  仏様の世界に近づく。
   どんな無理難題を言われようが
  
  どんな困難なこと 障害が自分の身にふりかかってこようが
  そこで やめたら おわり
   どういう中でも ようし!一歩半歩でも 一呼吸二呼吸でも
  5分10分でも 坐るんだ!という気持ちをもつことが
  修行のコツ
   やめないこと あきらめないこと
   無理難題でもジッとこらえていく
   辛抱に 辛抱したことは 決して無駄にならない!
   それが 心の広さ 人間の度量の大きさにつながる
   つつみ のみこみ おおいつくしていくほど大きい心を
   誰もが持っている。 
 

ページのトップへ戻る