2013年3月16日

いのちを賜ったものは・・・

3月16日(土) その2
 管長様が今日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 仏とはいったい何であるか?これは、決して私たちより遠く離れたものではない。
この広い大自然の中でいのちを賜ったものはみな仏である。大自然のいのちそのものが
みな仏であります。
 仏心の中で生まれる、仏のいのちの中で私たちはこのいのちをいただいている。
仏様も私たち人間も、その辺を歩いている動物もみんな同じ、仏の子である。
仏のいのちをいただいている。
 限りなき 仏のいのち 今ここに
     この一息に 生きておるなり
 
 限りない仏のいのちが今ここに、私のこの一呼吸に生きているんだという
歌を以前に作りました。
 このことが本当にわかると私たちは決して争うことも憎しみ合うことも
しなくなるはずです。みんないのちのもとは一つ。そしてみんな幸せを祈る
心も安らかを祈る心も一つのはずです。
 大自然の中でいのちを賜ったものはみな仏です。この大自然のいのちそのものが
仏です。仏様と言おうが我々人間と言おうが犬と言おうがみんな平等のいのちを
生きているのです。
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(後記)
 今日の土曜坐禅会は、初心者の部73名、2部53名の方々が
ご参加くださいました。誠に有り難うございました。

2013年1月12日

正しい方向かどうか?

1月12日(土)
 管長様が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 ある老師がこんなことを言われていました。「自分の坐禅が
うまくいっているかどうか?正しい方向にむかっているかどうか?
を知りたいと思えば、自分の家庭を見るのが一番いい。
 あの人が坐禅に行くようになって、おうちで怒ったり、
大きな声を出したりしないようになり、その人がそこにいる
だけで、なんとなく家庭が穏やかになってきたら、その人の
坐禅はまあまあである。
 反対に、坐禅に行くようになってから、「きちんとしろ」とか、
「これが正しい作法だ、こーしろ!」とかとガミガミうるさくて
仕方がなくなってきたらその人の坐禅は考え物であります。」と。
 悟りの心を現実世界に活かしていくことは非常に難しいこと
であります。家庭、学校、会社で、目の前の人がみんな仏心を
持っていて素晴らしいと思うのは、なかなか難しいことです。
 そうではありますが、もう一度改めて、自分自身の本心本性に
目覚め「ああ、なるほど私の本心本性はなんと素晴らしい心で
あったことか」と静かに坐禅をして確かめることが大切であります。
 そうすれば、現実の生活、家庭、学校、会社の中で
「ここがお浄土であった、仏心の真っ只中であった!」と改めて気づき、
まわりにいる身近な人達もみんな同じ仏心を持って生まれてきていると
実感できると家庭も自然と安らかになるものであります。
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<日が射し込む居士林堂内>
(後記)
 今年初めの土曜坐禅会は初心者の部60名、2部49名でした。
日中は、ぽかぽか陽気の中での坐禅会でした。
皆様、ご参加をいただき誠に有り難うございました。
 明日は、午前9時から大方丈で日曜説教会
(管長様のご法話)です。

2012年11月6日

人生はレンタルである

11月6日(火)
 管長様が前回の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 先日、ある雑誌に「人生というのはレンタルである」という言葉が
を見つけました。レンタル、借り物であります。この体、この命は全部
一時(いっとき)いただいて、一時お借りして、一生涯使って、そっくり
そのままお返しするという意味だそうです。おもしろい表現であります。
 あらゆるものはみなお借りしてもとに返すのであります。もちろん
私達の命もそうです。空間的には天地一杯、時間的には過去無量劫である
大いなる命の中から、一時の命をこうしてお借りして・与えられて、
命ある間は精一杯活かして尽くして、あとは大いなる命に帰っていく
だけであります。
 無量の命に仏教では誰でもわかるように阿弥陀様という名前を
つけました。「南無阿弥陀仏」とは無量の命に全部帰って行くという
ことであります。
 そして、この無量の命、どこにあるのかというと、今こうして
見たり聞いたりしている私達の心のはたらきこそがそれであります。
今のこの一念が無量の命そのものなのせす。
 朝比奈宗源老師は、「仏心(無量の命)の中に生まれ、仏心の中に生き
仏心の中に息を引き取る」ということをを坐禅をして悟るのが、
一番だけれども、たとえ、そうはいかなくても、そのことを信じることだけで
悟るのと同じであると仰せになっています。
 その中に あるとは知らず 晴れ渡る
           空に抱かれ 雲の遊べる
 という歌があります。空は仏心・無量の命、雲は私達の
一時お借りしている命であります。
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典座 <僧堂>
(後記)
   
   宝物風入、遠諱委員会が無事に終わり、ほっと一段落です。
  写真は、専門道場の典座(てんぞ)、つまり、台所です。
今でも、薪を使って料理を作っています。
  

2012年6月17日

人はどうなるかわらない。

6月17日(日)
 管長様が昨日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 先日、禅文化研究所のDVDの撮影がありまして、次のような
質問を受けました。「今、日本では年間3万人の自殺者がいますが
、この状況をどう見ますか?」それに対して次のように答えました。
 3万人というのはたいへんな数でありますが、そういう状況に
あって、では自分が何をすることができるか?であります。
考えてみると、まず、確実にできることは、この自分が死なない
ようにすることが第一番です。
 今、幸いに私は死のうとは思っていないし、そういう状況には
ありません。けれど、絶対に自分は死なないといえますか?
人はどうなるかわからいのが真実であります。
 自分の意図せずに事件に巻き込まれ、自分が消えなくては
状況が解決しないほど追い込まれたら、私もどう判断するか
わからない。今はこうして健康な体でありますけれど、この先
どんな病気になるかわかりません。そして、たくさんの薬を
もらって副作用に苦しめられた時、私はどういう判断をするか
わかりません。
 大切なのは何もああいう自ら死を選んだ人は特別な人ではない、
われわれもどうなるかわらないと認識することではないでしょうか。
お互いどうなるかわからないということが一番根底になければ
ならないと思うのです。
 先日、本を見ていましたら、あの松原泰道先生も、若い頃、自殺を
考えて四国の室戸岬まで行って身を投げて死のうとしたことがあると
書かれていました。先生は崖っぷちまで行って、大海原や悠大な波を
見て、大自然の大きさに比べて自分はなんとちっぽけなことを考えて
いたんだと気がついて、死なずに帰ってきたとありました。
 私はそんな話を聞くと正直、ほっとしました。「あんな立派な先生でも
そういうことがあったのか。」と。迷いの深い人を導いて行くには、やはり
こちらも迷いがなければ導いていくことはできない。悟りきって何の不安も
ない人が悩み・苦しみを持つ多くの人を救っていくことができるかというと
そうとばかりは言えません。
 自分も悩み苦しむ体験をし、そういう人の気持ちがよくわかる人こそ
本当に人を導くことができるのであります。
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 <黄梅院>白い紫陽花
(後記)
 
 昨日の土曜坐禅会初心者の部だけで、ここ数年では最高の
94名の参加がありました。居士林が文字通り、もう坐る場所が
ないほどの盛況ぶりでした。ご参加された方、誠に有り難うございました。
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2012年4月14日

種智を円かにせんことを

4月14日(土)
 管長様が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 お釈迦様の最後の教えは何ですか?と問われたとき
鈴木大拙先生は「依頼心を捨てよ。」と答えられました。
何かに頼ろうとする心を捨てなさいということです。
お経に「自灯明 法灯明」とあります。自らを灯とし
自らをより所とせよということであります。
 何かに頼ろうとする限り、人は本当の安らぎを
得ることはできない。そこで「自灯明 法灯明」
なのであります。
 無我の教えを説く仏教が自分をより所とせよと
言うのは、一見矛盾しているようですが、その
より所とする「自分」とは、いったい何でありましょうか?
 それは、自分だ!オレだ!と主張するこの小さな肉体の
かたまりでもなければ、外の出来事に反応するわずかな
精神のはたらきでもありません。たったこれだけのものが
本当の自分なのでは決してありません。
 本当の自分は、より所となる自分は、もっと深く
大いなるものなのです。もともとは私達の命は
大自然と一枚、大自然の一部、ほんのひとかけらで
あります。そのことは、大自然と私達の命は地続きで、
ここからここまで自分のものと区切りをつけるものは
ありはしないのであります。この大自然・大いなる命を
より所とするのであります。
 坐禅をして心を静かにすると智慧が出てきます。
自分と他人との関わり合いがよく見えてくる。
小さな自分ではなく、周りと全部一つにつながっている
自分が見えてきます。そうすると他人の苦しみや
悲しみを自分のことのように感じ察する慈悲の心が
育ってきます。その慈悲の心が一番のより所と
なるのであります。
 お経の最後に「種智を円かにせんことを」と
祈りの言葉を唱えます。種の中では必ず芽を出して
葉を伸ばして花開くだけのものがすべて備わっています。
そのように私達めいめいの心の中にも、心を静めさせて
智慧の花を開き、慈悲の心をはたらかせることのできる
力をみんな生まれながらに持っているのであります。
 「円かにせんことを」とはその誰もが持っている
素晴らしい能力を十分に発揮することができますように
ということであります。
(後記)
  本日の土曜坐禅会は、強い雨の中にもかかわらず
 初心者の部55名、2部56名と大勢の方々に
 ご参加いただき、誠に有り難うございました。
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円かにされてますね。しいちゃん。
 
 

2012年3月24日

法華経とは?

3月24日(土)
 管長様が本日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 法華経を繰り返し繰り返し読んでいますが、なかなかわからない
ものであります。しかし、やはり究極のところは、私達が今こうして
生まれて、今こうして生きていること、今このようにこうして
生きている命そのものを法華経というのが私の一番の結論
であります。
 
 こうして生きて活動をしている、ものを見たり聞いたりしている、
いろんな話を聞いて感動したりする、庭に咲いている梅を見て
綺麗だと思う・・・このような心こそ本当の法華経というもので
あろうとこう思っています。
 だから法華経を読むということは、この生きているすばらしさ、
このように(現在の自分で)あることを褒め称えることに他ならない
と思っております。
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 この時期にしては珍しく、梅の花が満開の中での坐禅、提唱でした。
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有り難いですね。

2011年12月24日

それでいいではないか。

12月24日(土)
 管長様が土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 我々は普段ついつい迷い・悩み・苦しみがすべてなくなって
やがて悟りがあらわれると思い描いてしまいますが、そんな迷い
などが全部なくなって安心が得られるというのは絵空ごとであります。
 そういう悩み・苦しみなど全部ひっくるめて「それでいいんだ!」と
認めていくことが大切であります。悩み・苦しみはみなすべて天地自然から
たまわったものとして受け止めていく。余計なものは何一つありはしない、
いろいろなことがあるけれど「それでいいんだ!」とこう受け止めていく。
 結局、私達は「只今の自分というものをどう受け止めていくか?」であります。
地位、財産、深い悟りなど自分には何か足りないと言い出すと切りがありません。
 只今の自分はこんなに尊い心と体をいただいている!今こうして生かされて
いるということ、ここでこうして坐っているということ、こうして話を聞いている
ということ、寒さを肌で感じているということ。そしてこの心この命を
授かっているということ。
 これ以上尊いことはどこにもありはしないのであります。
 そう徹することによって初めて安心という安らかな気持ちになれるので
あります。まあ、いろんなことがあるけれどそれでいいのではないか!
であります。

2011年9月18日

どうにもならないもの

9月18日(日)その3
 管長様が昨日土曜坐禅会で提唱したことをまとめてみました。
 お釈迦様は、一番信頼をしていた自分の弟子、舎利弗と目連を自分より
先に亡くしています。とりわけ、目連尊者は殴られ蹴らるなどの暴行を受け
最期は体の姿形がわからなくなるほどになって亡くなりました。それをきいて
お釈迦様は、「目連ほど修行をした人でもそういう目にあわなければならない。
いくら修行をしても、乗り越えることのできないものは業の力である。
これだけは、いかんともしがたいものである。」と涙を流されたそうです。
 
 業だからあきらめなければならないと単純にすり替えれることは誤解を
うみ難しいのだけれど、人間の力ではどうすることもできないものがあるので
あります。そして、それは残念ですが受け止めていくしかないのであります。
 
 お釈迦様でも、あらゆる人の病気や災難を全部救うことはできません。
どうにもならないところを見据えて、そこに涙を流して受け止めていくところから
本当の宗教が始まるのであります。
 いくら修行をしたとしても、人間にはどうにもならないものが残るんです。そういう
どうにもならないものを残しているからこそ、周りの人の苦しみというものが
本当に親身に受け止めてあげることができるのであります。
 どうにもならないことをかかえて生きているからこそ、人の苦しみを
「ああ、なるほどあなたもそうか」とわが苦しみとして受け止めて寄り添う
慈悲のはたらきが出てくるのであります。
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2011年7月18日

絶対になくならないものとは?

7月18日(月)
 管長様が7月16日の土曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
 私たちが覚えたこと、学んだことはいずれ全部忘れていくんです。
地位や名声、これもなくなっていく。全部奪い尽くされて何もなく
なったとき、一体何が残りますか?
 ことごとく奪い尽くされてもどうしても奪うことのできないもの
ことごとく消し尽くされても消し尽くすことのできないものは
何であるか?これが一番大切なところであります。
 すべてはなくなる。覚えたこと、好きな人がいてもいずれ
なくなるか、いってしまう。財産を貯めてもどうなるかわかりません。
 それでも、絶対になくならないものは、 
めいめいの心であります。
 どんな状況下になっても、私達の本心、仏心、仏性、慈悲の心、
つまりは人をいくつしみ思いやる心は決してなくなることはないのであります。
 公案でもってあらゆるものを否定し尽くして、奪い尽くしていきます。
その結果、決してなくならないものはなんであるか?私達の本心は
なんであるか?これを追求していくのがこの公案であります。
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2011年3月27日

無門関33則

 3月27日(日)
 昨日土曜坐禅会で老師が提唱されたことをまとめてみました。
 仏教では私達がより所とするものが3つある。
一つめは、「仏」
 
 気の滅入るような情報ばかり耳に入ってくるが、
そんなときでも、仏様は今までと変わらずに私達のことを
見守ってくださっている。それに手を合わせると不思議と
心が落ち着く。
二つめは、「法」
 法は、教え、真理のこと。一番、法が表れているのが大自然。
変わらずに私達を包んでくださっている大自然。
どんなときでもそこに咲いている一輪の花を愛でる心。
それをより所としていこう。
三つめは、「僧」
 僧とは、仲間、集まりのこと。
私達のまわりには、家族、友人と手を差し伸べてくれる仲間がいる。
困ったとき、行き詰まったとき、まわりの仲間をより所と
していこう。
 この三つに共通するのが、私達の心。
根本は、私達の心に帰着する。
 心あればこそ、仏様を拝むことが出来る。
 心あればこそ、花を愛で、鳥の声に気づくことが出来る。
 心あればこそ、仲間を頼りにすることができる。
 この心こそ仏であって、他に何も求める必要はない! 

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