2014年11月24日

やわらかなる容顔をもて

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-円覚寺 総門-
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只今、紅葉がピークを迎えています。皆様のご来山をお待ちしております

月並大攝心 5日目

 横田南嶺老師が僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 坐禅は、正念工夫、無字三昧の修行ですが、そこに何の感情がないのかというと

決してそうではありません。むしろ、一生懸命坐禅をやればやるほど、人は様々な

情にたいして細やかに気づくようになります。気がつかないということは、坐禅が

浅いと言わざるを得ません。

 また、坐禅というのは基本に忠実です。何年やろうと基本を忠実にやっていく以外に

他はありません。立腰(りつよう)と何度も言っていますが、本当に腰が立っている人は

ほとんどいません。それができるのが千人万人に一人であるくらい、腰をすっと立てることは

難しいものです。だからこそ、常に腰を立てる努力をしなければならない。現状に満足せずに

まだ工夫が足りないと精進をする。

 腰を立て、丹田に力を込めてゆっくりと呼吸をすることによって「オレがオレが」という

世の中を自分中心にみている我執・我慢から解放されるはずです。

 「自分を無にすることがかくも豊かなものが流れ込んでくるとは」の境界です。

坐禅をして無になることは同時に無限の慈悲の心に満たされることでもあります。

これがなければ本当に坐禅をしたとは言い難い。

 本当に自我を死にきって真剣に坐禅をしたからこそ、無限の慈悲があふれ出るのです。

 道元禅師は「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」と仰せになって

やわらかなこまやかな心をもって人に接していくのです。慈悲が足りないということは

坐禅が足りない証拠です。大いに骨を折って坐ってもらいたい。腰を立て、丹田に力を込めて

細く息を吐き天地の気を吸い込んで己なきところに取り組んでもらいたい。

 

2014年11月23日

かすかな息の出入り

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-山門下 イチョウ-

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-総門からの眺め-

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-妙香池の夕暮れ-

月並大攝心 中日

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 呼吸を練るといいます。それには腰をしっかり立てておなかの下、気海丹田に力を込める。

漫然と呼吸をしていたのではだめ。気海丹田に気を込めて細く長く息を吐いていく。もう

自分の外の景色もない、我もない、何もなく、ただ、呼吸をする。

 鼻から極めて静かに呼吸をする。肚のどん底から、まるで線香の煙のように息を吐く。

細い息がかすかにもれるくらいの息の出入りで、もう、自分で呼吸をしていることも

意識に上ってくることはない。かすかな息の出入りがあるだけである。そういう中で

兀兀と坐り抜く。

 最後は息の出入りばかりとなり、全身の毛穴からまるで霧が蒸すかのごとく息が

出入りする。

 吐けば天 吸えば大地と 一如なり

 
         かくて その身は 天地一枚

 ずっと細く吐く息は天に満ち渡り、大地の底から吸い上げて、吐く息吸う息を繰り返す。

身も形も呼吸も忘れて、ただ、この生きているものだけをはっきりさせる。

「生きているものを確かにつかみおり」です。この身、このまま生き通しのいのちです。

この生き通しのいのちを全身で感じ取ってください。

 我もなく 人もなければ 大虚空

        ただ 一枚の 姿なりけり

2014年11月22日

無量のいのち 無量の光

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-居士林 山門-

 紅葉は一気に色づいて、今週から来週にかけてがピークとなるのではないかと思います。

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-居士林から仏殿を望む-

月並大攝心 3日目

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 私たちは、妄念妄想の中に固められてしまっています。自我、自分中心の

狭い見方の中に閉じこめられている。これを突き破って大いなる世界に目覚める

ことができます。その大いなる世界が計り知ることのできない、阿弥陀、無量のいのち

無量の光です。

 私たちは本来その光明の中に生きているにもかかわらず、目にみえる様々な姿・形のとらわれ

その姿・形を比べて競争し、そしり、憎しみ、ねたみ合って、自我意識を闘わせて争い、差別

いじめを繰り返している。

 本当の救いというのはこの阿弥陀、無量のいのち、無量の光に目覚めることに他ならない。

無量のいのち、生き通しのいのちはいろいろな宗教の教えをみても到りうるところです。

それに目覚めないから、いかり、惜しみ、ねたみなど自分中心の自我の命しか見えていない

のです。仏教で言う、空(くう)や無というのは、このこの小さな自我の命は夢や幻や水に映る

月のように実体がないということです。こんな自我の命を本当のものだとしがみついて争って

いても真の平和、安らぎはいつまで経っても得られることはない。

 そんな小さな我に対する執着、とらわれが全部、抜け落ちたところが無量のいのち、

生き通しのいのち、限りない光に満ちあふれた世界です。その永遠のいのちに全身を

捧げて生きることを「南無阿弥陀仏」という言葉で表しているのです。

 詩人の坂村真民先生は、一遍上人の志を受け継いでこの無量のいのち、無量の光の世界を

表す詩を作ろうされました。私たちの禅においては、坐禅をして本来の面目を工夫をすることは

この限りないいのちと無量の光に目覚めることに他なりません。そして目覚めることが真の救いと

なるのであります。

2014年11月21日

罪の意識

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  円覚寺境内の紅葉も段々と色づいて参りました。

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皆様、是非、週末はご来山されご覧になってください。

月並大攝心 2日目

 横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

鎌倉武士が禅を求めた理由の一つには、武士というのは常に戦闘、戦乱の中

生きていて、兄弟や親であろうと時には斬り合わなければならないこともある

という非常に厳しい状況の中にありました。幼子であろうと女であろうと

斬らなければ、こちらが生きていけない。

 そんな世界に生きていく武士が救いを求めたのが禅でありました。相手が苦しみ

もだえながら死んでいくのをありありと見ている。それこそ、夜の夢に出てきて

罪の意識に苛まれる。この心の救いを求めたのが武士達が禅を求めた大きな要因で

あったのです。

 仏教には様々な教えがあります。自分の息子と同じ年くらいの若武者を殺した

熊谷直実公は、「この罪の念からどう救われるか?」を求めて法然上人の門に入り

念仏をすることで救いを得て安心しました。

 それでも納得がいかない人は坐禅をして自分の心を見つめる。本心本性を見つめました。

お互いの意識・分別のおおもと、源となるもは何であるか?と探究しました。

 朝比奈宗源老師は「仏心には罪もけがれも届かない。仏心は常に浄らかで常に安らかである。

これが私たちの心のおおもとである。」と仰せになっています。

 仏心の浄らかなことに気づく。自分のこの世でやった罪やけがれは、心のおおもと

仏心には、全く届きやしない。様々な罪やけがれと思っていたものは幻、夢、虚空の

如しであります。

 たとえば切った張ったの任侠映画で血しぶきの場面があろうと映画が終われば

スクリーンには血一滴ついていないようなものです。ただ、その映像だけを見て

それが真実であると思いこんでいたのであれば「えらいことをしてしまった、

たいへんなことをしてしまった」と罪の意識にとらわれ続けるでしょう。

 しかし、諸法はみな空(くう)です。夢、幻のようなもの。夢、幻だと

気がつけば、私たちの本心本性は何の罪、けがれの跡形も残っていないのです。

 日々、戦乱の中で生きる武士にとって大きな安心のよりどころは「その罪の

意識からどう逃れるか?」を解決することでした。坐禅をして悟ったら罪の意識から

解放されることができるというのは当時の武士にとって大きな魅力であったでしょう。

 諸法はみな空です。水中の月のごとしです。月が沈めば、水面には何のあとも

残りません。実体のないものであると気がつくことです。

(後記)

 今週末(11月22,23日)の 円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

11月22日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

最初に坐り方の説明をしますので、初めて坐禅を経験したい方にお勧めです。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

11月23日(日)は

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会 (場所:大方丈)

詳細は 

●9:00~10:00 円覚寺派布教師和尚様による法話

●10:00~11:00 坐禅

となっております。

初心者の方も歓迎です。皆様のご来山をお待ちしております。

 

 

2014年11月20日

粗仕子、中仕子、上仕子

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 急に気温も下がり円覚寺の紅葉もやっと色づいて参りました。

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月並大攝心 初日

横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 山岡鉄舟に大工のかんなけずりのおもしろい話があります。大工は木材を削る際に

かんなを使う比率がある。それは粗仕子(あらしこ)、中仕子、上仕子の3段階ある。

 最初は粗仕子といってとにかく腰をそえて、おなかに力を込めて、全身全霊で

粗けずりをする。そうして、それをやった上で、中仕子といって、自然に手加減を

して角をけずっていく。最後に上仕子といって平らになった表面ををさらにむらなく

なるように細かくけずっていく。

 かんなと人と柱が一つにならなければならない作業です。これは剣の修行もわれわれ

禅、仏道の修行も同じ道理です。

 禅の修行も、最初は粗仕子と同じで腰を決め、おなかに力を込めて寒い中でも汗ばむ

くらい全身全霊で坐る。鈴木正三の説かれた「仁王禅」のように、仁王様の気迫で坐禅をする。

目を見開いて歯を食いしばり、手にコブシをつくり、足に力を込めて全身全霊で取り組む。

 坐相3年と言います。本当に坐禅で腰が立つまでには真剣に取り組んでも3年はかかる。

いい加減にしていたのでは坐相一つ決まらない。荒々しいくらいの気迫で涌いてくる念を

斬って斬って斬り尽くすのです。

 それを経た上で、中仕子です。少しずつ角をとっていく。そして最後は、10~20年かけて

上仕子のように、観音様のように柔和になっていくのです。

2014年10月26日

何度も立ち上がる

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-選仏場-

 横田南嶺老師が今日の僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 月刊『致知』の今月号に、茶碗を作る人間国宝の方の話が掲載されていました。

茶碗を作る修行というのは1日、100も200もこさえます。

そういう中からこれはというものをお師匠のところに持っていきみてもらう。

ところが褒めてもらおうと持って行くとお師匠に一見して目の前で床に

たたきつけて割られてしまう。自分では最高の出来だと思っていても

目の前でたたき割られてしまう。

 しかし、その方は、割られてもすぐに破片を拾い集め、自分の部屋に戻り、

自分が作ったもののどこが悪いのかを反省したとのことです。

 そしてとうとう師匠から「この茶碗は良くできている」と生涯一度も褒められること

がなかった。しかし、あることだけ、褒められたことがあった。それは繰り返し何度と

自分の作った茶碗がたたき割られようとめげない態度でした。

 お師匠の一言は「お前は職人として見どころがある。」でした。自分が丹誠に心を込めて

作った茶碗を褒めるどころか、尽くたたき割られても、腐らずに、すぐにかけらを拾い集め

一生懸命観察をし努力をしたその態度に見どころがあるということでした。

 自分が褒められようとして持って行ったものをたたき割られた時、目の前でこわされたとき

どう生きるかが、人間の真価であります。そこでやっていられるかと腐ってしまったら終わりです。

どんな目に遭おうがまた作って持っていく。何度でもめげずにこしらえて持っていく。

それが職人としてもっとも大事なことだとお師匠はお弟子に伝えたかったのでしょう。

 気仙沼の和尚さんは一生懸命、一代をかけてお寺の本堂を建てましたが、茶碗が割れるがごとく

津波で一瞬にしてこわされてしまいました。それでも、めげずにくじけずに腐らずに立ち上がり

ました。

 どんな目に遭おうが立ち上がろうとするのが私たち誰もが持っている仏心のはたらきです。

くじけない、その心さえあれば。決してどんな時代、どういう状況でもやっていけます。

 私たちはくじけない心という素晴らしいものを持っています。それを「やっていられるか!」と

見限ってしまったらそれでおしまいです。いくたびたたかれようが、何度、否定されようが

その度ごとに立ち上がる。これも仏心の大きな力、はたらきであります。

2014年10月25日

考えることをやめてみる

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-黄梅院 観音堂- 

入制大攝心6日目

横田南嶺老師が今日の僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

あれこれと考える、妄想をすることから離れる、やめてみることはたいへん難しいことです。

 比叡山の行者も本に書いています。一日、三千もの仏様の名前を唱えながら礼拝をする。

それも何ヶ月も寝ずにやる。なぜ、わざわざそんなことをやるのかというと、疲れ果てて

考える能力を働かせなくするためです。そうでもなければ、考える能力が完全に止まることは

ない。そして思考力が止まれば、少しずつ、我(が)が崩れて、やがて、真っ白になり

無我の境地になる。そこに仏様があらわれるとその本には書かれています。

 坐禅もそうであります。あれこれと考え妄想をしているのではなく、一回、考える能力が

ぴったりと止むまで坐ってみる。本当に我というものが尽き果てるまでやってみることです。

我を離れて仏心と一枚になっていく。我が計らいを離れて真理と一つになる。この我を離れる

ということが一番苦労をするところでもあります。

2014年10月24日

坐るということは

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-ケヤキ 夕陽を浴びて 黄梅院-

入制大攝心5日目

 横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 坐るということは、坐り抜くということは、これほど簡単なようで

難しいことはありません。今、比叡山の十二年籠山行を復興した堀澤祖門さんの

お弟子さんが書かれた本をいただいて読んでいます。比叡山では、千日回峰行は

有名ですが、その他に十二年籠山行という、本当に十二年もの長い間、文字通り、

一度も山を下りない修行を今でも、伝統的にやっていらっしゃる。

 今年の8月にその十二年籠山行を満行された堀澤祖門さんにお会いする機会が

ありました。この方は、比叡山きっての「禅定家」といわれて、臨済宗・大徳寺の

臘八大攝心も経験されています。

そのいただいた本の中で、堀澤さんのお弟子さんが初めて入門をしたときに

堀澤さんから言われたことが紹介されています。「坐るということは毎日毎日

命がけで坐ってようやく一歩するものである。1年くらい坐ったところで成果が

でるものではない。それだけ長い年月がかかるのだ。しかも漫然とやっていたのでは

何の効果もえられない。命がけでやって初めて一歩得られるものがある。そういう世界

である。」

 なるほど、私たちの禅の修行もその通りです。今、私たちはこうして長い時間坐って

大攝心をやっていますが、一生懸命やっている人と、ただ漫然とやっている人の差は

歴然としています。掛け声、一つをとってみても一生懸命やっている人は、きちっと

肚に力が入ってやっている。

 修行というものは、ただ、自分がどう自分でこれでいいというものを納得がいくか

どうかです。1年やそこらで何かを得られる世界ではありません。達磨大師も面壁9年

です。それくらい真剣に求めていくのが私たち坐禅の道であります。
 

 

2014年10月23日

五祖法演禅師 投機偈

今日の僧堂入制大攝心(第4日目)で、横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

○五祖法演 投機偈

山前一片閑田地  (この寺の前に一片の休耕地がある)
叉手叮嚀問祖翁  (礼儀を正して、この田んぼは一体誰ものですかと人に聞いて回った)
幾度賣来還自買  (誰のものかわからないので幾度か売ったり買ったりしてきた)
為憐松竹引清風  (主は誰なのか分かってしまえば松竹の涼しい清風を味わうばかりである)

※五祖法演禅師(1024年?-1104年)は、臨済宗中興と言われ古則公案を通じた禅修行を確立された方です。
投機偈とは、自らの悟りの境地を詠んだ詩です。

    *          *          *          *

「幾度か売り来たり還た自ら買う」、とあります。
田んぼとはめいめいに備わっている心、仏心のことです。

この田んぼ(心)の主は誰なのか、何者がこうして坐っているのか聞いているのか分からないので、
私たちは問いて回り聞いて回り散々苦労をし、無駄骨を折ります。

しかし、己なきところ、天地一枚というところを自分で体験する。
「古則公案」というものを強いて用いて、思慮分別を絶していく。
「無字の工夫」といわれるものです。

この天地一枚のところが基となって、
人々に本当の安らぎを与え、慈悲の心を伝えていく。
心の田んぼを耕していく、信の種を蒔いていく、智慧の慈悲を施していく。

これが私たち禅宗が目指す修行です。
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  ※色づき始めました(方丈庭園)

2014年10月22日

真智を開く

今日の僧堂入制大攝心(第3日目)で、横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。

     *          *          *          *

今日、人間の進歩は大したものです。
かつては食べ物もろくにない時代が長い間続きました。しかし、我々のような僧堂に暮らすものでも今日食べ物に困ることはなくなりました。

皆が平等に学校に行くことができたらどんなに幸せであろうかと考えて明治時代以来大変な努力をして学校を作りました。
しかし、その学校ではイジメや不登校や引き籠りが何万という単位で生じています。

空襲のない時代になれば皆が幸せになると考えて戦争を終わらせ、空襲を受ける心配や不安に生きる必要はなくなりました。
しかし、今や自死する(自ら命を絶つ)人の数は年間1万や2万という数ではありません。

     *          *          *          *  

いつになったら人間は本当に幸せに平和に慈悲の心で暮らすことができるのでしょうか?

どんなに便利に豊かになっても、お互いの心というものが変わらなければ、本当の幸せや平和は訪れないのではないでしょうか。

お互いの心を変える。
それはあたかも、乾いた田んぼを耕す努力をしていくようなものです。
心という荒田に智慧という水を注いで耕すようなものです。
それが、私たちお坊さんに課せられた勤めです。

そのためにはまず、真智(真実の智慧)を開かねばなりません。
真実の智慧は外に向かって求めるものではありません。

坐り続ける。
今坐っているところ、そこに全てが備わっている。全てが満たされています。
まずは、そのことに気付く。
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